ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

妙にヘルシー[2021年1月11日(月)晴れ]

8時半頃、インターホンが鳴って起床。なんだか最近眠くて、これがなかったらもっと遅くまで寝ていたかもしれなかった。玄関を開けると宅配用の台車に大きめの段ボールを4つ積んだ配達員が立っていて、一つずつ受け取る。部屋の整理のためにコンテナボックスをまとめて買ったのだ。

意外と早く届いたなと思いつつ、とりあえずシャワーを浴びる。それから自分の部屋で日記を書いて、続けて英語の勉強。英語は去年の夏頃から中断してしまっていたのだけど、年も変わったし心機一転また頑張りたいと思っている。隙間時間に勉強したいのでスマホでできるものがよく、色々調べて数日前からスタディサプリを使用中。スタサプ、事前に調べた段階ではステマっぽい記事が多く、どうかなと思っていたのだけど、今のところけっこう良いのではないかと感じている。

具体的には、「何を勉強すればいいか迷う」ということが少ないように設計されているのが良い。わかりやすい一本道のレールが敷かれていて、その中でリスニング、ディクテーション(書き取り)、単語、スピーキングなど多角的に学ぶことができるし、復習のタームもちゃんと盛り込まれている。前回勉強していた時は毎日英語の記事とその日本語訳を1〜2記事読むようにしていたのだけど、面白い記事や自分のレベルにあった記事を探すのに疲れてだんだんめんどくさくなってしまった。「今日は何を勉強しようかな」というのも勉強を続ける上で一つの障壁になるわけで、そのストレスをなくして滑らかなフローを提示してもらえるのはとても楽だ。

 

1時間ほど勉強して、お茶を飲みにリビングに行くと恋人が起きていた。私の顔を見るなり「スタサプ♪」とCMでお馴染みのサウンドロゴを口ずさんできて、露骨な悪意を感じる。私の英語の勉強が毎回長続きしないのをあからさまに馬鹿にしているのだが、悔しいと同時にこっちまで面白くなってしまって2人で爆笑した。

まあ私自身、「テレビから”スタサプ♪”と聞こえてくるが、すでにアプリを退会している」という、遠くない未来に高確率で訪れるであろう状況やその時の気持ちをすでに脳内でシミュレーションしているので、あんまり継続できるとは思っていないのだと思う。ただやらないよりは良いし、色んなやり方を使い捨てながら目標に近づいていけたらいいかな、という感じ。「大切なのは優れた教材をあれこれ探すことではなくて継続。一つの教材で繰り返し勉強できるのが最強」みたいな意見はぐうの音も出ないほど正論だなと思うのだけど、できないものはできないので、それなら飽きたりモチベーションが下がったりすることをあらかじめ組み込んでやっていくしかない。

とはいえ、やりはじめて数日で「スタサプはいいぞ」とか言うのたしかに馬鹿っぽいよな、とも思ったり。まあ、そういう移ろいとか一過性の熱みたいなものが書かれてあるのも日記の良さだと思うことにする。*1

 

続いて部屋の片付け。といっても大したことはしていなくて、一昨年の暮れに実家を売却した時に持ってきた荷物がそのままだったので、中身を整理して段ボールからコンテナに移し替えたくらい。コンテナを多めに買ったので、余ったスペースには工具や保管が必要な書類などをしまった。4つのコンテナを縦に二つ、横に二つ並べる。段ボールよりは見栄えが良いけど、かなり存在感があってあまり部屋がすっきりした感じはしない。レイアウト自体を変えようかと一瞬思ったけど、部屋に大してこだわりがあるわけではないし、オンライン会議で映るスペースでもないのでそのままにした。

 

お昼は明太子パスタのソースをうどんにかけて食べる。午後、恋人は散歩へ、私は一人でパク・サンヨン『大都会の愛し方』を読む。ソウルに生きるゲイの若者が主人公なのだけど、生きづらさやアイデンティティの葛藤は前景化しすぎず、「そういうもの」として浮遊している。主に描かれるのは社会みたいな大きなものと対峙する瞬間ではなくて、もう少し小さな、日常のコミュニティにおける話。そこにはいきいきとできる時間も愛も、やっぱりつきまとってくる無理解も、固定しないバランスで存在する。主人公は絡め取られながらも、毒のあるユーモアでそれらをかき乱しながら進んでいく。

 

二十代だった友人たちの中に、タダ酒を嫌がる輩は一人もおらず、おかげでその日の晩、俺たち「ティアラ」は堂々と真夜中の梨泰院の通りをねり歩いた。ティアラとは、ユニークなニックネームをつけるのが得意な俺が、俺たちと同じようにメンバーが六人のT-ARAというアイドルグループからとってグループチャットルームにつけたニックネーム。俺はその中で背が二番めに低く、歌を歌うときの鼻音がひどいからって自然とソヨンになったわけだが、大事なのはそこじゃなくて俺らがクラブにたどり着いたということ、それだけ。

 

表題作「大都会の愛し方」の一節。ここだけ抜き出すと小説全体のイメージとは乖離してしまうかもしれないけど、こういうシーンってたとえば新宿二丁目などではありふれているにも関わらず、あまり読んだことがなかった。あの街にも、自称TWICEや自称Perfumeがたくさんいる。私はもともとそんなに頻繁に行くほうではなかったし、コロナになってからはますます足が遠のいてしまったのだけど、あの街でしか会うことのない知り合いの顔とか、猥雑な空気とかを思い出す。そういうところから、「ここにはこれまで描かれなかった自分のことが描かれている」と思う人もいるんじゃないかという気がした。

 

今日はこのまま一日中家にいようかと思ったけど、この週末ほとんど出かけなかったせいであまりにも運動不足な気がして、プールへ行く。今年初。営業時間が20時までになったせいなのか、祝日だからなのかはわからないけど、けっこう混んでいた。1500メートル泳ぐ。出かける直前まで面倒くさがって行くかどうか迷っていたけど、いざ泳ぎ始めると気持ちよくて時間いっぱいまで泳いでしまう。

帰りに本屋へ寄り、中島岳志土井善晴の対談本『料理と利他』、増村十七『バクちゃん』2巻など購入。帰宅したらすぐ夕飯の準備。フライパンで温野菜を蒸し、鍋で水餃子を茹でた。油を使わない献立にするとぐっとカロリーを抑えられて、たまにこういう食事にすると体にも良さそう。実は年明けから英語の勉強だけじゃなくて痩せるのもまた頑張りたいと思っている。

なんだか今日は英語の勉強だの水泳だの油を使わない食事だの、妙にヘルシーな話題が並んでいてどこか自分ではないみたいだ。でも、抜き出し方によってはそのようになることもあるのだろう。たまたま今日はそういう日というだけのことだ。

*1:「まだ日が浅いのに人前でぺらぺら喋っちゃう」ことの愚かさについては、ジェーン・スー×堀井美香「Over the Sun」でも話題になっていた。負けへんで!