ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

問題山積み[2022年6月29日(水)晴れ]

夜も暑くて眠りの質が落ちている気がする。脱水まではいかないけれど起きると喉が渇いていて、暑い場所にずっといた時のような頭痛がすることもある。お腹の調子もよくない。この家はとにかく熱がこもるつくりで、冬は助かるのだけど夏はなかなかしんどい。寝ている間も冷房をつければいいのかもしれないが、喉を痛めそうだし電気代も大変なことになりそう。ただでさえ値上がりしているし、電力も逼迫しているし。そんな中、代表的な政策として打ち出されたのは節電プログラムに参加した人に2000円分のポイント。ポイントって何……なんとなく2020年安倍政権の和牛商品券を思い出す。根本的なところが何も変わっていない。和牛商品券は見送られたけど節電ポイントは実施予定だし。

 

午前中に日記書きなど。今日は恋人が在宅で、自分の部屋と2台の冷房をつけるのは気が引けたので二人でリビングで作業する。

私の部屋は冷房効率がよくないうえ、カーテンがないので午後になると窓から日差しがもろに差し込んでくる。窓に面してデスクを置いているので、室内にいるのに日焼けしそうなくらい日を浴びる。昨日もちょうど午後の時間にオンライン会議があったのだけど、カメラをオンにすると日差しが強すぎて顔が白飛びしていた。明るさ調整のやりかたがわからず(そもそもできるのだろうか)そのまま出たら、参加者の人に「理さん、舞台にいるみたいになってますよ」と言われたのだった。付き合いの長い人たちなのであの場は笑いが起きてそれでよかったのだけど、取材をすることもあると考えるとどうにかしなければとも思う。舞台にいるみたいな状態で取材をするわけにはいかない。
それにカーテンがないことで冷暖房効率も悪くなっているのだろう。すりガラスだから開けなければ外からはわからないし、窓枠の長さとか測るの苦手だし、と購入を先送りにし続けて5年。ついにこの夏変わるのかどうか。

 

お昼ご飯はカレー納豆そば。高騰する前に買っていた玉ねぎを一玉使う。午後はあんまり急ぎの仕事がなく、明日提出の原稿の編集作業などをだらだらやったらすることがなくなってしまった。先週もそこそこ暇だったけど、今週もわりと暇。働きたくないなあと思う。ちょっと頑張ったくらいでは税金とかでごっそり持っていかれて、手元には大して残らないし……と、明日が納期限の都民税や国民健康保険のことを考えながら。

私は人の話を聞いたり文章を書いたりして生活しているが、根本的には他の仕事と同じで、ようは時間を売ってお金を得ている。お金だけしか得られない仕事をするくらいなら、空いた時間は見逃していた映画を見たり本を読んだり、あるいは「暇だな〜」と思ったりして過ごしたい。もちろん、そんなこと言っていられない状況の時もあるけれど。

ルシア・ベルリンの『すべての月、すべての年』を少し読み、聞きそびれていたTBSラジオ荻上チキ・Session」の6月2日、北丸雄二さんと鈴木みのりさんをゲストに迎えての特集「6月は『プライド月間』。きっかけとなったストーンウォールの反乱とは?」。昨日6月28日が、ストーンウォールの反乱が起こった日だった。

この中で北丸さんが「アメリカの最高裁で、これまで認められてきていた中絶の権利がひっくり返るかもしれない」と話していて、事実その通りになってしまった、と思う。そしてこの判決を契機に同性婚の権利も危ぶまれると、アメリカを中心に懸念が広がっている。大きなバックラッシュの気配。プライド月間なのにこの6月で色々な状況が悪化したような気もして暗澹たる気持ちに。特集の内容そのものには勇気付けられたけれど。

 

日が翳ってきた頃にプールへ。外が暑いほど肌が水を求める感じがあって、最近は行ける時は2日に1回くらいの頻度で泳いでいる。息が上がって体温が上がってもプールの水が冷やしてくれる。2キロ泳いで、プールを出ると外は完全に暗くなっていた。

帰り道、Twitterを開いたらトレンドに「LGBTの自殺」。何かと思ってタップすれば、自民党の議員が多く参加する「神道政治連盟国会議員懇談会」の会合で、LGBTに対する差別的な言説がいくつも書かれた冊子が配られたとのこと。松岡宗嗣さんの記事。「同性愛は後天的な精神の障害、または依存症」とか、「回復治療や宗教的治療によって変化するもの」などなど……本当に2020年台の話? と目を疑う言説がずらっと並んでいて、もはや「よくある間違い集」の様相。これを正しい認識のように配るのは悪質すぎる。

LGBTが治療すべき疾患ではないこと、自殺リスクの高さには社会的な構造が絡んでおり本人のせいではないことなどは少し調べたらわかるはず……いやでも、こうして間違った情報がたくさん世に出回っているし、彼らが偏見や差別を身につけてしまうのは調べないからではなく、独自のやり方で調べてしまうからなのか。現実に生きている人の実態を知ろうとしていないと思ったけど、モデルマイノリティのような人たちとだけ話をして「当事者を知っている」「現実を見た」気になり、考えをより強固にしているのかも。それは「実態を知る」ことに見えて、実際は自説を確かめる材料を集めているだけにすぎなかったりする。やっている本人がその欺瞞に気づいていないこともある。少なくとも私は、誰かの価値観を補強する素材ではない。そして自分の価値観を守るためにある属性を貶める理論に固執する態度には反対していきたいと思っている。

 

しかし問題が次から次へと出てくるな。自民党参院選に向けたアンケート調査でも主要政党で唯一同性婚に反対しているし、LGBT平等法についての質問でも「差別を禁止するよりも、性的マイノリティに関する広く正しい理解を促進するとともに、多様性を受け入れる寛容で温かい社会を築きます」と説明している。差別を禁止することと正しい理解の促進は「よりも」でつながるものではなく、両立させるものでは……。まだ比例代表でどの党に入れるかは迷っているのだけど、自民党には絶対に入れない(というか入れたことないけど)。今回の参院選、少しでも自分やいま生きづらい思いをしているマイノリティにとってよい結果になってほしい。

 

夕飯は昨日作っておいた鶏胸肉のトマト煮、ほうれん草のコンソメスープ。今日の新規陽性者数は3803人、現在の重症者数は5人、死者3人。感染者数も増加傾向。

時間の離脱[2022年6月26日(日)晴れ](後編)

長くなってしまったので26日の日記は前後編に分けた。前編はこちら

 

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千葉市美術館からすぐに小沢健二のライブ「So kakkoii 宇宙 Shows」のため有明へと向かう。電車を乗り継ぎながら1時間半弱。移動の多い日だ……。駅でN、Aと合流し、コンビニで飲み物を買ったのちみんなで会場へと向かう。有明ガーデンという複合施設の中にある、有明ガーデンシアターという新しい会場。そもそもこんな複合施設ができていたことを知らなかった。このへんに住んでいる人が、日常の買い物やちょっとした週末のレジャーを過ごすのに不便しないように作られた施設という感じ。温泉まであり、行きたくなる。どろどろなのでさっぱりしたい。さっきもNに出会い頭に「なんか二人とも顔テカテカしてるね!」と言われたし。

 

N、Aとは座席が離れていたので会場を入ったところで別れ、自分たちの席へ。4階なのでステージから離れてはいるが、正面なので全容がよく見えそう。開演前、「ツアーグッズのTシャツは蓄光なので、スマートフォンのライトなどで30秒ほど照らしておくとよいです」みたいなアナウンスが流れる。電子回路にしてもそうだけど、この「人が光を放つ」ってオザケンぽいよな〜と思いながら聞く(自分たちはグッズを買わなかったので、手持ち無沙汰に)。客電が落ちて演奏がはじまると、大所帯のバンドメンバーが来ている蛍光色のローブがブラックライトに照らされて光っていた。

 

30人編成のバンドの分厚くきらびやかな演奏に、終始心を打たれっぱなし。ライブ自体はなんというか、音楽が時間芸術である、ということを強く意識させられる内容になっていたと思う。音楽は基本的に演奏がはじまったら、一定のテンポで終わりに向かって進んでいくしかない。あらゆるできごとや人生と同じように。でも、暗渠化された「古川」という東京を流れる川についての朗読にあったように、「過去の中には未来が含まれている」。私たちがいる宇宙の物理法則ではものごとは一方向に流れていくのみだけれど、別の宇宙や、心象風景はそういうものではなかったりする。

今回のライブでは、オザケンはその時間の法則をジグザグに撹乱しようとしていたように見える。ある楽曲では90年代を強調し、ある楽曲ではコロナ禍のことを、また「そして時は2020」と歌う。90年代に生まれた楽曲と、近年生まれた楽曲をカットアップしてつなげて演奏したりする。

時代性(特に90年代)を強調したり楽曲をカットアップして接続するのはこれまでにもやっていたことなのだけど、今回はそこに新たに「離脱」というシステムが加わっていた。オザケンが「離脱!」と叫ぶと音楽のテンポが半分になり、数小節ののち何事もなかったかのようにもとに戻る、というもの(その時はオザケンが「戻る!」と叫ぶ)。この離脱システムは、音楽が「一定のテンポで」進むというルールを破壊する。そしていきなり音楽がゆっくりになると、私たちは乗っていた電車が急に減速した時みたいに、宙に放り出されたような感覚になる。踊っていた体が追いつかなくて変な動きになる。テンポが変わってもたいていはすぐに慣れることができるのだけど、切り替わりの瞬間、私たちは音楽にただ乗っているのではなくて、テンポに、身体に神経を集中させている。スイッチする瞬間、私たちは自分で考えていて、それはあらゆる既存のルールや法則から自由になることでもある(朗読では「離脱の合図で、良いことからも悪いことからも離れられたら良い」と言っていた)。

この「離脱」が今回のライブの根幹にあると考えると、以前からあった時代性の強調やカットアップには、これまでとは違った意味が付与されているように思えてくる。カットアップして楽曲Aから楽曲B、そして再びAに戻った時、オザケンは「もう一回!」とたびたび叫んでいた。それは音楽をもう一度演奏するというだけではなくて、不可逆な時間の法則を破壊する合図でもあったのではないか。

 

スピードも方向も、従来のルールから解き放たれた場所で、音楽は鳴り続ける。そうして時間の法則を歪めるステージが生まれたのは、やはりコロナ禍が大きいのだろうか。「NYの大停電のように一時的なものだと思われたCOVID-19という裂け目は日常を飲み込み、非現実が現実へと反転した」(冒頭の朗読、大意)。オザケン自身もライブツアーを二度延期していて、同じように先延ばしになったり、中止になったことが世界にはたくさんある。そうやって失われた時間は戻ることがない。少なくとも現実では。だとすると、現実とは違う空間であれば、失われた時間をやり直すことができる? 高らかに「もう一回!」と宣言して、音楽をまたはじめることができる?

時間の法則を破壊することは、なにかそのことに対する彼なりのファンタジックな肯定であるような気がした。かといってコロナ禍がなくなったわけではないし、度重なる延期で2年の時間が経ってしまったことも現実で、今回のライブはそのことを否認してはいない。もっとマルチバース的な、多元的「宇宙」の一つとしてこのステージを出現させたのではないか。そしてオザケンはこの宇宙のマスターだった。「離脱!」「戻る!」「もう一回!」と時間軸を操る権限を持っている唯一の存在だし、中盤の朗読の冒頭でさりげなく「これは『薫る』という曲で、1時間後にやりますが〜」などと言っていたのも、気軽さを装いながら相当確信犯的な発言だったと思われる。

 

あと、今回は感染症対策で声を出すことができなかったわけだけど、オザケンはこれに対して「Sing it!歌って!のかわりに、I can hear you!聞こえるよ!という言葉を使いたいと思う」と言っており、実際にライブでもコロナ前なら客がシンガロングしていただろう場面では「聞こえる、聞こえる!」などと言っていた。「歌わなくてもあなたたちの声は聞こえているよ」と解釈しても十分美しいけれど、私はそれはあくまで表のメッセージで、「もし歌っちゃっても、『聞こえる』だけ、ってことにしとくよ」という裏のメッセージがあるような気がしていた。

慣れ親しんだ曲をつい歌ってしまう。それは本来人間の愛すべき衝動でもあると思うのだけど、今のライブでは禁止されている。「エラー」として扱われる。ただ、ここで「離脱」のことを思い出したいのだけど、いきなりテンポが半分になるとかいうトリッキーなシステムは身体的なエラーを引き起こすものだった。つまりそれを積極的に取り入れているライブというのは、エラーを許容する場である、ということになる。

「聞こえる!」の言葉で、歌っているかいないかではなく、聞こえているかいないかに問題をすり替える。そうすれば、現状のルールを守って声を出さずにいる人も、思わず歌ってしまうという愛すべきエラーを起こした人も、両方が包摂されるのだ。

ただじゃあそこで、これはエラーですという顔で歌い続けていいのかというとそういうことでもない。ルールの破壊や逸脱は密やかに行われなければならず、全員が気付いたとしたらそれは別物になってしまう。裏のメッセージは、裏のメッセージとして処理するのが大切なのだ。

 

アグレッシブな読みをしている気がするけどもう少し続けると、こうしたメッセージは「ルールにただ従うのではなく、生きやすいように変えていけばよい」というような、スマートな破壊者としての態度に貫かれたものであるようにも感じる。「COVID-19という裂け目が日常を飲み込み、非現実が現実へと反転した」中で、さまざまな時代の変化の中で、監視の目はどんどん厳しくなっている。そうしたものに殺されず生きていくためのオザケンなりのすり抜け方の提案というか、これも一種の「離脱」なのだ。

 

会場の外でN、Aと合流し、電車で新宿へ。4人であれこれ話しながら磯丸水産でご飯を食べたが、長い一日だったので後半のほうは力尽きかけていた。サワーのアルコールを「薄め」にしたけど酔いがまわり、コンタクトレンズが乾いて目がかゆかった。

 

今日の新規陽性者数は2004人、現在の重症者数は3人、死者1人。

時間の蓄積[2022年6月26日(日)晴れ](前編)

今日は千葉市美術館で植本一子さんの展示を見て、夕方から有明小沢健二のライブという情報量多めの一日。しかも猛暑。昨日の時点で着ていこうと決めていたシャツがあったのだけど、いざ袖を通してみるとしっくりこず、恋人を巻き込んでああでもないこうでもないと色々試す。結局なんだか無難な格好に落ち着いた。

 

2時間ほどかけて電車で千葉へ。向かう途中、恋人と「展示のワークシート、なに書こうか」と話し合う。今回の展示『あの日のことおぼえてる?』は参加型のプロジェクトで、一人で来た参加者は一人で、誰かと来ていたら複数人で、「あの日のことおぼえてる?と聞かれたら、何を思い出しますか」という質問からはじまるワークシートを記入していく。それから撮影ブースに入ってセルフタイマーで写真を撮り、その写真とワークシートを提出する、というもの。今日は植本さんと鳥羽和久さんのトークイベントがあって混雑が予想されるので、イベント参加者には事前にシートのpdfが送られてきていた。

あの日のこと覚えてる? そう聞かれて、ぱっと思い浮かんだのはとても書けないできごとだった。恋人も「つらいことがけっこう思い浮かぶな」と言っていたので、おそらく同じことを思い浮かべていたのだろう。

負けずに暮らしていける方法を二人で考えながらやってきたので、重要な体験ではある。でもここに書くべきこととは思えなかったので、他に何かないか案を出し合う。はじめて二人で会った時のこと、旅行……こんなに共通の記憶がたくさんあったのか。どれも忘れていたわけではなかったけど、こうして記憶を確かめ合うことはなかったので新鮮だったし、みょうに生々しく緊張する体験でもあった。私にとって大切な記憶が、相手にとっても大切とは限らないのだし。わかったつもりでいる相手が、知らない一人の人間であるということを感じていた。

あれこれと記憶を探り、最終的に今の家の契約をした時の話を書くことに落ち着く。できごとを決めてからはどんなことがあったか、その時にどう感じていたかなどを書いていくのだけど、二人それぞれに強く印象に残っていることが違ったり、認識にずれがあったりした。その記憶のすり合わせは、「あの日のこと」を立体的に、奥行きのあるものにしていくような体験だった。

 

千葉駅は改札の中がとても充実している。レストランで恋人は冷やし中華を、私はトマトのパスタを食べ、モノレールに乗って千葉市美術館へ向かう。以前に来た時は冬で、駅から歩いたのだけど、今日は少しでも太陽の下にいる時間を短くしたい。暑すぎる。
美術館に着いたら展示室に向かい、飾られている他の人の写真やワークシートを見て、自分たちのシートを記入。それから撮影ブースに入って二人で写真を撮る。どんなふうに写ろうか、何か特別なことをしようか? 考えたけど、もともと写真が得意ではないこともあって大したアイデアも思いつかず、ただ横並びになって撮った。

できあがった写真を見て、見たことがある構図だなと思う。ありふれているというのではなくて、二人に馴染みのある構図。旅行に行った先で写真を撮る時、私たちはよくこうやって横並びで写っているのだった。なんの芸もなくフレームに収まったら、いつもの私たちが写った。写真を貼り付け提出。

 

14時から植本さんと鳥羽和久さんのトークイベント。前半は鳥羽さんが聞き手兼展示の体験者代表のような感じで感想を伝えたり質問したりしていて、今回の展示が生まれた経緯やワークシートの質問項目へのこだわりなど、いろいろなお話を聞くことができた。

ワークシートには「みなさんの関係にオリジナルの名前をつけるとしたら?」という質問がある。鳥羽さんがこの質問項目に言及した時、植本さんは家族、夫婦といった既成の言葉が誰かを取りこぼしてしまうことへの違和感を話していた。聞きながら、(あっ、さっき元気よく「家族!」とか書いて出しちゃった)と思う。ただまあ、これはシートにはなんとなく書かないでいたことだけど、同性カップルって結婚もできないし「家族」であることが社会的に認められていない感覚があるので、自分達であえて言っていかないと永遠に阻害されたままになってしまうと感じているのだ。含まれていない、と感じるからこそオリジナルの関係としてその言葉を(ためらいつつも)書いた気がするし、「!」にはそれを自分たちの関係として掴み取るために必要な勢いがあらわれているように思う。実感をともなった後付け、みたいな話だけれど。

 

他には、「他人を書くことに諦めがある」といい、ツイートに至るまでがフィクションだという鳥羽さんと、フィクションが書けず、でも何かを書けばどうしても自分から見たその人、というフィクションになると逡巡する植本さんの話など。自分も普段から仕事や日記で誰かのことを書いているので、自分に引き寄せながら聞いていた。

90分のトークイベントが終わり、席を立とうと荷物をペットボトルをカバンにしまっていると前から「あ!」と声がする。見上げると、知り合いの編集者のBさんが立っていた。Bさんとは先日も別の写真展で偶然一緒になっていて、ばったり会う率が高い。そそくさとエレベーターホールに向かっていた恋人を呼び止め、紹介しつつ少し立ち話。「小沼さんの日記読んでたので実物に会えてうれしいです」的なことを言われていて、二人が話しているのを見ながら書くことの影響、責任のような言葉がぼんやりと頭に浮かんでいた。

 

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長くなってしまうので、26日の日記は前後編に分けることにした。後編、オザケンのライブについてはこちら

回想[2022年6月22日(水)曇り]

上旬にあるはずだった出張取材のために6月は仕事を入れすぎないようにしていたので、その出張がなくなったことで比較的ゆったり過ごしている。とはいえ新しい仕事も飛び込んできていて、それなりに毎日やることはある。予定通り出張があったらどんな忙しさだったんだろう。いくつかは断らざるを得なかったのかもしれないし、それなりになんとかなったのかもしれない。逆に飛び込みの仕事がまったくなくて、暇すぎて不安になることもあり得ただろうか。

こういう考えなくてもいいこと、考えても仕方ないことをつい空想してしまう。実在しない忙しさのことを空想しても意味がない。というか、それによって忙しさへのうんざり感が澱のように溜まっていく感じもあり、だとすれば悪影響ですらある。あまり考えないようにしよう。至るところで言っている気がするけど、この気持ちの切り替えの大切さを私は『ぼのぼの』から学んだ。持っていた貝を全部食べてしまって、「食べ物がなくてあとでこまると思うなァ」と困っているぼのぼのに、アライグマくんが「後でこまるんだったら後でこまればいいじゃねえか なんで今こまるんだよ」と言う回*1。この漫画を読んでから、後で困ればいいことは後で困ろう、起きなかったことを想像して困るのもやめよう、今困っている時だけ困ろう、と考えられるようになった。

 

お昼ご飯はトマトとツナのそうめん。何度も作っているのになぜか茹でたそうめんを締めようとしてしまい、ちょっと冷水で洗ってしまった。すぐ引き上げたから味には影響がなく、恋人も全然気にしていなかったけど、食べている最中も自分が間違った手順をしていると気づいた時の動揺が小さく長く続いていた。余っていた大葉を刻んでのせたので、今日はいつもよりちょっと手の込んだ感じ。トマトの赤と大葉の緑が鮮やか。

 

食後はいくつかの原稿を仕上げて提出。仕事がひと段落したので、東京五輪の公式報告書関連のニュースを読む。情報公開の面で色々と不明瞭なところが多い。30日に組織委員会は解散するようだけど、最後まで強い不信感を拭えなかった。特にきついと思ったのはジェンダー平等などに関する動きについてで、日刊スポーツには「開幕間近に起きた組織委幹部や関係者の人権に関する言動に触れ「組織委が重要さを再認識する契機となっただけでなく、日本社会全体の議論を活発化させることになった」とした」とある*2

「議論が活発化したからよかった」ってものすごい結果論だし、トラブルを引き起こした側が(少なくともこんな短いタームで)言うことではないのでは。無理がある、と思う。こういう文書ってなんでも前向きな結論にしなくてはならないのかな。非を認めると訴えられるとか、関係者に角が立つとか? だけど組織委を批判している人の多くは、そういう戦略とか利権、忖度を優先してばかりで、実際のところどう考えているのかわからないことに怒っているのではないかと思うのだけど。いや、それとも本当に「議論が活発化したからよかった」と心底思っているのだろうか。

思い返してみても、東京五輪の期間は本当にしんどかった。大きな流れに巻き込まれないように、別の大きな流れに身を任せるしかなかったようなことがあったと感じる。一つ一つの考えや主張はきちんと自分の感覚にもとづいたものではあったと思うけど、発言の強弱をコントロールしきれなくて、それによって何かを見落としていたと思う。そのボタンのかけ違いで、冷静な時とは違う結論を、「自分で考えて」導き出してしまったこともあった。

 

蒸し暑いからサウナか銭湯でさっぱりしたいと思っていたけど、水曜日なので映画が安い日でもある。少し迷って、結局池袋に『FLEE』を見に行くことに。

アフガニスタンからの移民「アミン」が、祖国から逃亡した過去をはじめて語る様子を記録したアニメーションドキュメンタリー。語ってくれたアミンやその周囲の人々の匿名性を保ち、安全を守るためにアニメーションという手法がとられたこと(アミンという名前も仮名)、難民としての困難、セクシュアルマイノリティとしての苦悩……そんな前情報があったので、ひたすら重く暗いものを覚悟していた。実際、アミンや家族が亡命するシーンやロシアでの不法滞在の日々は見ているこちらまで息が詰まり苦しくなってくる。ただそれだけではなくて、幸福な瞬間が鮮やかに切り取られてもいた。ヘッドフォンでA-haの「Take on me」を聴きながら、姉のワンピースを着て街中を走り回った幼少期のこと。強くたくましいジャン=クロード・ヴァン・ダムに恋をしたこと。

『FLEE』はアミンの語り=回想が主軸のドキュメンタリーだ。映像ドキュメンタリーで回想シーンというと、本人が語っている映像、当時の語り手や関係者の写真、その時代の記録映像などをつないで制作する印象が強い(これは私の勉強不足で、もっと他にもやり方があるかもしれない)。FLEEはアニメーションなので資料が残っているかどうかに縛られていなくて、アミンの語りをもとに映像を作り出すことができる。そこではアミンの記憶や心に寄り添おうとするように、幸福な場面は鮮やかに、つらい場面は色彩を失い抽象的に描かれている。アニメーションであることが、アミンたちの安全を守るだけでなく、彼らの体験をリアリティを持って伝える手段となっていた。

難民としての体験はアミンの人生に大きな影を落とし、その影響は現在の対人関係にも強い影響を及ぼしている。一方で、ゲイであることは困難もあるけれど、おおむね光として描かれているように見えた。アミンがゲイとしての体験について語る時はユーモアを交えて、声もリラックスしていることが多い。同性愛者はいないものとされるアフガニスタンで、子どもの頃から男性に惹かれていると自覚していたアミンにとって、ゲイであることは苦しみであると同時に、自己を規定するアイデンティティであったかもしれない。そのアイデンティティを受け入れたアミンを捉えたアニメーションには、彼が難民として負った傷もいつか大丈夫になってほしいという祈りが込められているようにも見えた。

 

今日の新規陽性者数は2329人、現在の重症者数は0人、死者1人。

*1:https://ameblo.jp/ta9-08/entry-12632482785.html

*2:なお、朝日新聞ではこの議論を活発化うんぬんは開会式の主要スタッフの辞任に関する発言とされており、森喜朗元会長の女性蔑視発言については「「ジェンダーに関する自身の発言による混乱の責任を取って、辞意を表明」とだけ記述」とある(有料記事部分)。

話し続ける[2022年6月20日(月)晴れ]

朝から今週が締め切りの原稿に着手。かなりざっくりとした全体像だけ作って、会社に行く準備をする。何を着ていこうか迷って、シンプルな黒いTシャツに首を通す。社員時代の慣習で会社に行く時はなんとなくいつも襟のあるシャツを着ていたのだけど、今は立場が違うのであまり気にしなくていい。それに会社の雰囲気も変わってきていて、取材や打ち合わせがない時はけっこうみんなラフな服を着ているのだった。完全に自分だけのルールを一人で守っている感じだな、と少し前から思っていたので、今日から解禁。あまりにも暑いし。

 

会社に着いて、さっき全体像を作った原稿に細かく手を入れていく。なんとなく散漫で構成が甘い気がするけど、どこをどういじったらいいのかわからない。こういう時は一旦寝かせるのが一番いいので、明日にまわすことにして別の作業。

合間に、そういえば昨日の杉並区長選挙の結果はどうなったかなと思い出す。区のホームページにアクセスし、開票速報を見る。100の位以下は切り捨てで、現職の田中良氏と野党推薦の岸本聡子氏が同数。めちゃくちゃ接戦…!30分ごとに更新というので時間を置いてまたアクセス。更新後も再び同数で、開票率は94パーセント。絶対岸本さんに当選してほしいと思いながら、打ち合わせのため離脱する。打ち合わせを終えてデスクに戻り、開いたままのタブを更新すると岸本さんの名前の横に「当選」の文字が!

2位との差はわずか187票で、自分の入れた1票の重さを実感。今回の杉並区長選は投票率が前回から5パーセントも上がっており、住民の意識が変わると政治にも反映されるんだな、と手応えを覚える。昨年の衆議院選挙でも杉並区の大半が属する東京8区では吉田晴美氏が石原伸晃氏に大きく差をつけて当選しているし、流れが変わってきているのかもしれない。

政治を諦めたことはないつもりだけど「今回も変わらないだろう」と斜に構えてしまうことはよくあった。それは落ち込みすぎないための、なんとかやっていくための自分なりの戦略ではあるのだけど、今回のような成功体験があればわざわざ先回りして期待値を下げる必要なんてなくなる。大げさな言葉かもしれないけど、今の杉並区に希望を感じている。この勢いで都政や国政も変わってほしい。これからも政治のことを話し続けようと、これまでとは違った気分で思った。

 

区長選のことをツイッターにつぶやいてスマホを置こうとしたところでニュースアプリのポップアップ通知。大阪地裁の同性婚裁判の判決が出たようで「同性婚を認めないのは合憲」の文字……喜んだ直後に落とされる。「婚姻の目的は生殖にある」って、いつ見てもずれてるなーと思うけど繰り返し用いられている。異性愛者に用意されている婚姻という選択肢が同性愛者にない、同じだけの権利がないというのはシンプルに差別だと思うのだけど……今はプライド月間で、いろんな企業が自社ロゴを虹色に変えているけどこの判決についてリアクションしているところはなさそうで、そういうところも苛立ってしまう。誰のためにロゴの色を変えたんですか?

 

午後は別の原稿の仕上げをしたり日記を書いたりする。途中、Slackでインボイスが話題に上がる。いやー本当にどうなるんだろう。フリーランスからすれば死活問題。私は今のところ事業者登録はしないでおこうと思っている(単純にどんな運用になるかわからないから様子を見たいし、感情的な話だけど囲い込まれるのがムカつくので逃げられるだけ逃げたい)のだけど、そのことによって発生するクライアントとのやりとりを思うと気が重い。お互いに緊張感のあるやりとりをしないといけない。そのうえ収入も減る。物価が上がり賃金が上がらないこの時代に……というかそれも政治の問題だし。

 

今日の新規陽性者数は1076人、現在の重症者数は0人、死者0人。

夏野菜テリーヌ[2022年6月18日(土) 曇りのち雨]

5時過ぎに目が覚めてしまって、なんとなくそのまま起きる。あとで眠くなるだろうけど、早朝の空気に身を置いていたいと思った。窓を少し開けて外を見る。朝の朝らしさが空気中にたまっているよう。この洗われるような清々しさを久しぶりに感じた。特別なものだと思う。あと1,2時間もすれば、バスタブの栓を抜いたように、アスファルトが乾くように、どこにも見当たらなくなってしまうもの。

コーヒーを淹れ、返そうと思っていたメールやLINEを書いて送る。すべての返信を終え、時計を見ると7時だった。

 

仕事で読まないといけない本が多かったのでなかなか時間がとれなかったけど、一昨日くらいからようやく自分の読書ができている。今読んでいるのは河野真太郎『新しい声を聞く僕たち』。否定されるべき男性性と積極的に取り入れていくべき新しい男性性がある、という風潮に触れる中で、次第に何かがすり替えられているような、隠蔽されているような違和感を感じることが増えてきていた。その対立にいくつもの補助線を引きながら慎重に言語化されていて学びが多い。

 

12時から散髪。いつも切ってくれていた人が独立したので、今回から新しい人が担当。新しい人、最初から最後までマスクをつけていなかった。他のスタッフの方はみんなつけているのだけど、その人だけ未着用。

最初こそ(えっ)と思ったけど、今はマスクをつけていない人(おしゃれな若者に多い気がする)を街中で見かける機会も増えてきているし、意外と感染リスクの面ではそこまで不安にはならず。どちらかというと不安にならない自分に、そして「相手の顔がはっきり見える」ことへの戸惑いが大きかった。友人などとの食事中に外すことはあっても、こうした接客を受ける場面では基本的にお互いマスクで、相手の顔は目元しか見えなかった。口元まで見えるって、こんなに情報量が多かったのか。

担当の人は声が低く逞しい腕にがっつりタトゥーが入っていて、その人のことをよく知らないとちょっと威圧感があった。だけど私に「後ろ(後頭部)こんな感じです」などと話しかけてきた時にちらっと顔を見ると口角が上がっており、その表情を見て受け取る印象を調整する。マスクをしていないから口元が見え、印象を変えることができたわけなのだけど、そもそも口元が隠れていたら不安になることもなかったように思う。情報量が少なければ無感覚に処理していたかもしれない。

 

帰ってきて、お昼に冷凍うどん。食後はすぐに夏野菜のテリーヌを作る。先日棚の奥からパウンド型が発掘され、なんとなく作りたいと考えていたこのメニューに挑戦することにしたのだ。一見すると凝った料理っぽいが、作るのはわりと簡単。まず大きな鍋で野菜を茹でる。野菜はなんでもよさそうだけど、今日はオクラ、ヤングコーン、アスパラ、ズッキーニ。その間にコンソメキューブと胡椒、ローリエで味をつけたスープを作り(白ワインも入れようと思っていたのに買い忘れてしまった)、最後にゼラチンを混ぜる。スープの粗熱がとれたら型に少し注ぎ、野菜、スープ、野菜、スープと交互に入れて層になるようにする。あとは冷蔵庫で3時間冷やすだけだ。

最初なので感覚が掴めず、スープの量が少し足りなかった。うまく固まるか不安だけど、今はもう待つしかない。

 

案の定眠くなり、15分だけ昼寝。すっきりしたら新宿へ行き少しうろついて、その足でプールへ。今日は2200メートル。昼寝をしたためか体が元気で、気持ちよく泳げた。胸のあたりに一昨日泳いだ時の筋肉痛が残っていたけど、泳ぎはじめてしまえば全然気にならなかった。

 

帰ってきて夕飯の支度。まずテリーヌの様子を見る。ひとまずは固まっているみたいだ。パウンド型をひっくり返して取り出す。コンソメ色のゼリーの中に野菜が整列していて、安直だけど虫や植物を閉じ込めた琥珀を連想した。

慎重にナイフを入れる。危惧していた通りスープが足りなかった、かつゼラチンの固め方がゆるかったみたいで、切っている途中で端のほうがぽろぽろと崩れてしまった。いくつかに割れたテリーヌをパズルのように手で修復し、ガラス皿に乗せる。まあ、はじめて作ったにしては上出来と思うことにする。オクラとヤングコーンの星、アスパラの円、ズッキーニの三角と、野菜の断面はきれいに出たし。

満足して、あとはぼちぼち準備する。冷たいコーンスープ(スジャータ)、チキンソテー、平皿に盛ったライス。大した手間はかかっていないが華やかな食卓。涼しげで、どこか夏至っぽさもある。

 

今日の新規陽性者数は1681人、現在の重症者数は0人、死者4人。14日に都の基準による重症者が0人になり、日々増減しているのだけど今日も0人。重症者が0人になったのは、都が2020年4月27日に現在の基準で集計をはじめてからはじめてだという。

時間をかけたい[2022年6月12日(日)曇り]

寝坊してしまった。洗濯しようと思っていた日に寝坊すると、太陽を無駄にしてしまったような気持ちになる。無駄にしてないしまだ挽回できる、そう思いながら洗濯。12時前に洗濯機が鳴り、午前中に干せたからまあいいかと思う。昼過ぎに少し雨が降ったけど、ベランダの内側までは届かず洗濯物は濡れずに済んだ。まっすぐに落ちる静かな雨だった。

 

お昼は刻んだきゅうりとねぎ、わかめを入れたぶっかけそば。そのあと2時間ほど本を読んで過ごし、吉祥寺ブックマンションに本の補充に行く。なかなか棚の様子を見に来れなかったけど、自分の日記本が何冊か売れていてうれしかった。どんな人が手に取ったのだろう。

店番は最近ブックマンションに入居したというBooks ことば舎さん。今日がはじめての店番だそうで、ご自身の棚ではアジアの文学フェアを実施していた。「パク・サンヨンの『大都会の愛し方』がちょうど僕の棚にもありますね」と話す。『大都会の愛し方』はソウルで生きるゲイを主人公にした短編集で、主人公は仲の良いゲイ6人組のグループチャットのルーム名に「ティアラ(T-ARA)」とつけたりする。どの国も似たようなところがあるんだな、と思う。日本でゲイを主人公にするとパートナーなどとの恋愛に焦点が当たりがちなのだけど、『大都会の愛し方』は点や線ではなく面を、猥雑さも込みで描いているのが良い。こういう作品は日本なら新宿二丁目を舞台に描くこともできるはずだけど、意外と見かけない気がする(女性たちを中心に描いた物語では李琴峰『ポラリスが降り注ぐ夜』があるけど)。

少し時間があったので古本屋「百年」へ寄り、それから井の頭線に乗る。Wild Nothingの『Nocturne』を聴きながら。先週の土曜日にWさんとFさんと会った時に話題に上がったたなと「あちらこちらぼくら」をこの前読んで、そこに描かれていたので懐かしくなった。音が気持ちいい。線路沿いにあじさいがたくさん咲いていてきれいだった。

 

駒場東大前で降り、こまばアゴラ劇場でMと合流。いいへんじの舞台「薬をもらいにいく薬」。主人公のハヤマは持病の不安障害が悪化し、2週間仕事を休んでいる。今日は同棲している恋人が少し長めの出張から帰ってくる日で、羽田空港まで迎えにいくために外に出たいのだけど、お守りのようにいつも持っている薬を切らしてしまってそれができない。そこにたまたまバイト先の同僚のワタナベがやってきて(スマホをずっと機内モードにしていて連絡がつかないハヤマに、シフト表の紙を渡しにきた)、ハヤマは思い切ってワタナベを呼び止め、一緒に羽田に行ってもらえないかと頼む。

序盤にはハヤマさんが部屋の中で、ワタナベくんと一緒に羽田までの道のりをシミュレーションするシーンがある。「こうなったらどうしよう」「ああなった時どうすればいいかわからないからやっぱりやめよう」と、無限に不安が広がってしまうハヤマさんに、ワタナベくんは具体的な(そしてシンプルな)解決策を提示する。そうやって不安を取り扱えるサイズにするシーンが印象的だった。

ワタナベくんはたいていのことを「気にしすぎだよ」「大丈夫だって」と言える人で、その姿勢はハヤマさんにとっては救いになる。ただ一方で、そのラフさを息苦しく感じてしまう人もいる。ワタナベくんの恋人のソウタくんがそうで、じっくり考えたいソウタくんは、「気にしすぎだよ」でどんどん前に進んでいけるワタナベくんに置いて行かれたような感覚を覚えている。具体的には、ワタナベくんとソウタくんが一緒に住む家を探す時、ワタナベくんは不動産の人に「友達です」と二人の関係を伝えるのだが、ソウタくんはそのことに(というか、それが「仕方ない」、現状では最善の切り抜け方であることに)傷ついてしまう。

ワタナベくんもソウタくんも、どっちの気持ちもわかるなあ、と思いながら見ていた。今作は『器』という作品との二本立て公演で、どちらも「死にたみ」をテーマにしている。死にたみに近いのはハヤマさんやソウタくんなのだけど、二人に「大丈夫だって」と伝えるワタナベくんが、死にたみから遠くなるまでの日々を想像せずにはいられなかった。舞台ではあまり言及されることはなかったけれど、マイノリティが「気にしすぎだよ」と言うようになるには、「繊細でいては心が保たない」という別のかたちの切実さがある気がするから。もちろんワタナベくんの生来の性格もあるだろうけど。

 

終演後に主宰の中島梓織さんに感想を伝える機会があって、「自分もゲイで、二人の家探しに自分とパートナーの家探しの時のことなんかを重ねながら見たりしました」と伝える。その帰り道、なんだかわかりやすく納得感のあるポイントをかいつまんだ感想を伝えてしまった気がして後悔。本当はもっと感じていることがたくさんあったはずなのだけど、目の前で考えながら話すのが憚られ、コンパクトですぐ取り出せる感想を選んでしまったのだと思う。終演後のアフタートークで、桃山商事の清田隆之さんが「コミュニケーションの時間が少なすぎるよね」といった話をしていて頷いたばっかりだったのに、自分から短時間のコミュニケーションに最適化してしまった。まあとはいえあそこで長々と話すのは違ったかもしれないが…いやしかしもう少しやりようはあったのでは……とか考えながら、駅へと戻る。

 

下北沢まで移動し、先に移動していたM、ご飯から参加の恋人と3人で「新台北」。腰果鶏丁(鶏肉とカシューナッツの炒めもの)、カシューナッツがかりっとしていておいしかった。Mと演劇の感想を話したり、恋人が家から歩いてきたという話を聞いて驚いたりする(バスを逃してしまって、次が30分後だったかららしい)。

いつか小田急線沿いに住みたいと話したら沿線に住んでいるMがプレゼンしてくれて、東横線沿いはどうかという話になると恋人は「別れたら一人で住みたいと思ってる」と言っていた。この「別れたら」というのは「もし今の自分が一人暮らしをするなら」くらいのもので深い意味はなく、私たちの間ではよくする話だったりする。

 

今日の新規陽性者数は1546人、現在の重症者数は4人、死者0人。