ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

明日のこと[2021年1月7日(木)晴れ]

朝から七草粥を作る。2人前の粥は米たったの0.5合でいいらしく、半信半疑でわずかな米を研ぐ。鍋に米と水4カップ、塩を入れて煮て、沸騰したら底から混ぜたあと隙間を開けてふたをし、40分弱火にかける。煮ている間は原稿を書いていたのだけど、集中していたら吹きこぼしてしまった。ジューという音とともに煮えた泡がゆっくりとこぼれ落ちていく。火加減を調節すれば鍋はすぐに静かになり、私もまた仕事に戻った。

タイマーが鳴ったので、昨日の夜に刻んでおいた七草を入れる。ちょうど恋人も起きてきたのでそれぞれの椀によそう。雪のような粥の白さと七草の鮮やかな緑の対比がきれい。作りたてだったからか七草の風味が際立ち、食感もみずみずしい。恋人は昨晩の時点では「粥とかあんまり好きじゃない」と気乗りしなそうだったが、食べながら「さわやかな味がする!」と喜んでいた。

 

七草粥は母が毎年作ってくれていたのだけど、実家を出てからは食べる機会がなかった。自分で作ったのもはじめてだ。基本的に季節の行事へのこだわりは薄いのだけど七草粥はけっこう印象に残っていて、それは私が明日誕生日だからなのだと思う。だから七草粥はその歳の最後の一日に食べるものという認識になっていて、本来の風習とは違った意味を帯びている。

 

明日で29歳かあ、と思う。あと1年で30歳になると思うと不思議な感じ。焦りはそんなにないけれどやっぱり一つの区切りという気がしていて、ずるずると続けてしまっていたことを断ち切ったり、やれずにいたことに向かってちゃんと方角を確かめて進んでいく機会にしたいなと思っている。だけどあまり大げさになりすぎず、「8時になったら起きよう」とか、「15時になったら一旦休憩しよう」とか、それはあくまで日々やっていることの延長線としてだ。そうやって区切ると、「8時までのあと5分は何も考えずしっかり頭と体を休めよう」みたいに、目の前のことに集中できる。明日からの一年はそんなふうに過ごしたい。

まあ私のことなので何かのきっかけで感情がバカデカく育ちまくってしまい、ご乱心のまま30歳を迎える可能性もあるのだが、その時はその時だ。ひとまず今のテンションはそんな感じ、という話。

 

13時ごろまで原稿。それから取材で高田馬場へ。いつもは見送るばかりの東西線直通が便利だなあと思う機会は年に2回くらいあって、今日はそのうちの1回。比較的年始に出たので今年は3回くらいはあるかもしれない。よく晴れているけど風の強い日で、砂が目に入る。取材場所は高田馬場でも一度も来たことがないエリアだった(そもそも高田馬場じたいそこまで馴染みがない)のだけど、派手ではないがにぎやかな商店街があったり、神田川沿いの空が広かったりして、のどかで歩いていて楽しかった。

無事に取材を終え、先方や撮影の方と明日からの緊急事態宣言について少し話す。どこも外出や対面での接触はなるべく避ける方向で動くようで、それにともなう影響がそれぞれにある。政府の対応がどっちつかずなのであまり行動は変わらないのかと思っていたけど、やはりみんな前回の緊急事態宣言と似た対応をとることになりそう。感染拡大を抑える意味ではもちろんそのほうがいいのだろうけど、補償もないのに自主的にそうせざるを得ないというのはやっぱり腑に落ちない。

 

帰宅してからは夕方まで仕事し、18時から菅首相の会見を見ながら日記を書く。緊急事態宣言の期間はあす8日から2月7日まで。やっぱりすごく中途半端な対策に思えて、これで本当に1ヶ月後に感染者数が減っているのか? と思ってしまう。

飲食店に対してこそこれまで以上に補償を手厚くしているけれど、給付金額がお店の規模にかかわらず一律だったり、食品などの関連する産業への補償は今のところ言及されていなかったり、穴だらけという感じ。飲食以外の小売や劇場などは補償がなければ開け続けるしかないけれど、感染が広がる中で店に立ちたくない人もいるだろうし、外出を自粛する人が増えれば売り上げだって下がる。かといって人出が減らず効果が出なければやる意味がないし……。

うーん、考えれば考えるほど今のままで感染が下火になるとは思えない。仮に下火になるとしても、小さな事業者ほど痛手を被り、かつ活動を縮小した人ほど報われなくなるような今の仕組みにはすごく違和感。あと、日和見的な態度や準備のなさによってこういう仕組みになってしまっているようなのももどかしくて苛立つ。明確な指針があってやっているとしたらそれはそれで腹たつけど。