ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

重さを宿す[2022年11月12日(土)晴れ]

昨晩の三軒茶屋twililightでの、宮崎智之さんとのイベントの充実感が体に残ったまま起床。そして今日は朝日新聞自分のインタビュー記事が載る日。早めに目が覚めてしまって、7時半ごろに家をでて駅前のコンビニへ。駅には人がたくさんいて、バス停には長い列ができている。早起きした気でいたけど、みんなもう活動しているんだなあ……と思っていたら、音声アナウンスで電車がトラブルで動かなくなっているのだと知る。それでこんなに駅前に人が滞留していたのだろう。

コンビニで新聞を買って、ついでに開店したばかりのパン屋で二人分の朝食を買う。帰ってきて、恋人と一緒に新聞を開く。自分も仕事で書くことがあるのでわかるのだけど、新聞は思っているよりも掲載スペースが大きい。雑誌くらいの感覚でいると、倍くらいの大きさで驚く。しかも書評が中心の中で私だけインタビューで、顔がでかでかと掲載されているので、開いた時に二人して笑ってしまった。不思議な感じ。

新聞って自分と同世代の人にとってはあまり馴染みのない媒体ではないかと思うのだけど(デジタルではなく、紙の方は特に)、出版業会においては影響力が強いと聞く。書店でも、新聞の書評に掲載された本を集めたコーナーがあることは多い(紙面があわせて張り出されていることも)。爆売れしてほしい。まあ売り上げはともかく、届くべき人に届く可能性が増えるのであればいいことだと思う。

 

お昼まで仕事をして、そのあと東京トランスマーチへ。パレードの受付を済ませてからどこかでご飯を食べようと思い、12時前に家を出る。朝に運転を見合わせていた電車はもういつも通り動いていて、暖かい日差しの中で(晴れてよかった)と思いながらホームに佇む。

ふとiPhoneを見ると、主に仕事で使っているGmail宛の通知。休日に連絡があるのは珍しいのでちょっと身構える。Face IDのロックを解除するとプレビュー画面が表示される。昨日のトークイベントを配信で見てくださっていた方からの、本とイベントの感想を綴ったメールだった。

このブログのプロフィール欄にアドレスを掲載していたので、それを見つけて送ってくれたのだそう。メールではご自身の生活と重ねながら、長い感想を綴ってくださっていた。読んで、突然もたらされたうれしさに動揺してしまって、晴れたホームで少し泣いた。ちゃんと届いているんだと思った。

 

電車を乗り換え、都庁前駅で下車。新宿中央公園へ。昨年のトランスマーチには参加できなくて、今年がはじめてだったのだけど、東京レインボープライド(TRP)など、自分が知っているLGBTQのパレードとはまったく雰囲気が異なっていることに驚く。TRPよりももっとずっと多様だと感じた。我ながらなんて陳腐な表現なんだと思うけれど……。

ただ、これは形骸化してしまっている言葉に、実感を込め直すことができる空間だと感じていた。Wさんと合流してパレードを歩いている時にも、そのことを考えていた。

4台のフロートが出た中、私たちが歩いたのは2号車の「WAIFU」のフロート。「トランスジェンダーの権利は人権だ」「トランスジェンダー女性は女性だ」「トランスジェンダー男性は男性だ」「ノンバイナリーはノンバイナリー」。メッセージを繰り返しながらルートを歩いた。

こういうシンプルなことを理解しようとする時、頭だけで考えていると心細くなってしまうことがあるように思う。何かもっとロジカルな説明ができないと差別や無理解と戦えないんじゃないか、自分はそのことを本当に正確に理解できているんだろうか……みたいに、自信をなくしていくというか。そして調べるとやっぱりたくさんの困難や差別があって、そのひどさに唖然としながら、自分の不勉強を反省する。間違えたくない、権利を侵害したくないという気持ちでいっぱいになる。それなのに調べ続けていると、なんだかどんどん頭でっかちになってしまって、ますます身動きがとれなくなってしまう。ものごとがとても複雑で膨大に思えて、途方に暮れてしまう。そんなことが、自分にはあった。

だけどパレードを歩くうちに、シュプレヒコールで繰り返されるようなシンプルなことを了解していればまずは大丈夫なんじゃないか、そう思えるようになっていった。それは「まずは」でしかないけれど、この「まずは」が確かなものであれば、間違えることがあってもこまめに道を引き返せるのではないかと思う。

私はシンプルな主張をするための自信を、理論で裏付けようとしていたのかもしれないと思った(ここで主張そのものを、ではないことに注意してほしい。トランス女性は女性、トランス男性は男性。ノンバイナリーはノンバイナリー。それが自明であることは揺るがない。)。だけど「パレードに行って、一緒に歩いた」という体験も、十分な裏付けになるのだ。前や隣や後ろを一緒に歩いたこと、「トランスジェンダーの権利は人権だ」と叫ぶ声の響き、大きな声は出せずとも口にしたこと。シンプルなメッセージに、体を使った実感で重さを宿すことだってできる。

よく知らないことがあった時、今はインターネットで調べるのが一番手軽な行動だと思う。でも、インターネットではかえって複雑に思えてしまうこと、情報がたくさんあるからこそ必要なものを上手に取り出せないこともある。直接パレードに参加するのはハードルが高く感じるかもしれないけれど、体感的に大掴みできるので、そのほうがいい場合もあるのだと思う。

もちろんパレードにはさまざまな事情で来るのが難しい人がいて、参加することだけが連帯ではない。というか、声を上げてその存在を忘れずにいなければいけないのはパレードの日だけじゃなくて、むしろ日々の生活でこそ連帯が求められるのだから、参加することが偉いとかそういう話ではまったくない。でも、可能ならこのマーチが来年以降も続いて、多くの人に参加する機会があるといいと思った。そして最終的にはマーチが必要ない世の中になるといい。

それにしても、私にもトランスジェンダーの知人は何人かいるのだけど、その人たちと話したりご飯を食べたりすることともまた違った体験だった。知った気になってはいけないな。知り続けよう。

都庁前から新宿駅新宿二丁目の手前まで行って歌舞伎町、西新宿の「LOVE」のオブジェと新宿をぐるっと一周するルートで、1時間半ほどかけて歩いた。再び新宿中央公園に戻ってきた時が3時過ぎ。閉会式まではまだまだ時間があったし、Wさんとちょっとお茶することに。

 

三井ビルのロイヤルホストを目指したが満席で入れなかったので、近くのフレッシュネスバーガーへ。椅子に座るとどっと疲れが出た。最初はWさんや、たまたま近くにいたKさんと話したりもしていたのだけど、だんだんそれもなくなって歩くことに集中していた。フロートからのスピーチを聞いたり、沿道の視線に気づいたらプラカードを見えるように掲げたり、ヘイターが心ない言葉をぶつけたりしてこないようにと祈ったり、そういうことにすごく集中していた。

甘いレモネードで喉を潤す。疲れていて頭が働かないのか、Wさんと話していても最初の方はうまく言葉が出てこないことがもどかしかった。「デモやパレードの爽快感の一つは車道を歩けることだよね。普段は禁じられている規範を超えるところにまず解放感がある」というような話をされ、今これを書きながらすごくわかるのだけど、その時はぼんやりした返事しかできなかった。

 

パレードに参加しながら考えていたこと、昨日の私のイベントのこと、本が出てみてどうか、という話などをする。後半で椎名林檎の話になり、なぜ丸の内サディスティックがあれだけ人気なのか、という話に。あれこれ考えながら「報酬は入社後平行線でという歌い出しとか、性的なことを連想させる歌詞とかが、中学生くらいの時にはじめて聞いた自分には大人っぽく思えた」という話をしたら腑に落ちていた。大人っぽく格好つけられる音楽だから格好いいという視点は、椎名林檎と同世代のWさんにはあまりわからない感覚のよう。私と同様の感覚を現在の10代、20代も抱いているのではないか、というような話で落ち着く。

その流れで私は「『長く短い祭』という曲の大サビで『一寸 一寸女盛りを如何しやう』というラインがあり、溜めた上に転調までするのが馬鹿っぽくて魅力的だ」という話をする。この曲および最近の椎名林檎にはマドンナやビヨンセなどのスーパースターへの憧れが垣間見えて、「長く短い祭」のこの部分はそういう「スターの過剰さ」をうまく演出できていると思う。ただ、今改めて考えると、それはあくまでも「演出」なんだよな。この話をする前に、WさんはマドンナのInstagramのアカウントを見せてくれたのだけど、投稿のほぼすべてがセルフィーでサムネイルには自身の顔のアップが並んでいた。Wさんによればしかも投稿はすべてエロティックなものなのらしい。この元気すぎる感じ、てらいのなさには本物は違うと言わざるをえない。椎名林檎はそのへんのバランス感覚が実はけっこう常識的なのだと思う。まあ、計算とわかった上でも自分は「一寸 一寸女盛りを如何しやう」の景気が良すぎる馬鹿っぽさにアガるのだけど。

 

18時くらいまで話して帰宅。感想をくださった方にメールを返信。さらによく一緒に仕事をしていた方からも「出版おめでとうございます、イベント見ました、実は昔のZINEも持っています」という連絡をいただき、そ、そうだったのか! と驚きつつうれしい気持ちで返信。夕飯は恋人と近所のお店でそば。