ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

付和雷同の先[2020年12月9日(水)晴れ]

今日は予定が多い日。午後に取材へ行く前に一通り仕事を終わらせておきたかった。大きな作業は入れていないのだけど、なんだかんだで細かい仕事でばたばた。昼ご飯を食べるタイミングも逃し、13時過ぎに家を出て渋谷へ。

今日はある本の著者の方へのインタビューなのだけど、こういった取材を対面で行うのは久しぶりだ。iPhoneのカレンダーを見返してみると、おそらく2ヶ月ぶりくらい。この間も対面取材はあったのだけど、それらは相手の心に触れるものというより情報収集の側面が強いものだった*1。取材相手が何を感じたのかが大事になるような、気持ちを直接扱う取材はこちらも緊張する。微妙な間とか目線から相手の感情を読み取るべき場面も多いし、それを気にしながらロジカルに、方向性を保って進行していくことも大切だし、毎回うまくやれるか不安になりながら取材場所へ向かっている。

 

14時から取材。頭の回転が早く、ユーモアを持って世界を見ている方だった。楽しい取材だったけれど、「もっとあそこでこう聞けばよかったかも」と思うことも。歩きながらそんな風に悶々と考えていたが、渋谷駅で電車を待っている間に「できたかもしれないこと」を考えはじめると「できたこと」に目がいかなくなるのは私の悪い癖だな、と俯瞰で認知。減点法で自分を評価するとしても、残された得点のほうに目を向けるのを忘れないようにしたい。そのうえで、できなかったことはできなかったこととして次に生かせばいい。

 

家に帰って、昨日作ったカレーを遅めの昼として食べる。そのあと、さっきの取材を文字起こし。17時半からのオンライン打ち合わせまでに終わらせるために急いで作業する。17時28分とかかなりギリギリの時間に終わり、そのまま打ち合わせ。それから急ぎのメールだけ一通送って、写真家のMくんと飲むために出かける。

Mくんはずっと私を飲みに誘ってくれていたのだけど、コロナのこともあってなかなか遊べずにいた。文フリには来てくれたのだけどそんなに話せなかったので、こうしてゆっくり話すのは多分10ヶ月ぶりくらい。今夜もその10ヶ月前と同じお店で飲んだ。

「ウェブメディアのインタビュー記事に使う、取材に同行して撮影するような仕事が減った」とMくん。それは私自身も感じていて、オンラインで取材をするとZoomのスクリーンショットを使ったり、著名な人であればもらい写真で構成してしまうことが増えた。取材によっては、Zoomのスクショの方が時代性がにじむので積極的に使われていることもある。うーむと思いながらビールを飲んだ。

あとはMくんは私が今年のベストテンに入るくらいいいニュースだったと思っているある社会運動のレポート写真の撮影をしたそうで、その話を聞いて私が一人でテンション上がったり。

 

私は最近読んでよかった本のことを話して、上間陽子さんの『海をあげる』を挙げた。
この本の中に、辺野古埋め立ての是非を問う県民投票をめぐって、宜野湾市役所前で元SEALDsの元山仁士郎さんがハンガーストライキを行った話が出てくる。上間さんはその現場へ応援に行くのだが、自分だったらどうするだろうと考えたということをMくんに話した。

私はそうやって自分の生活や人生を削って何かを訴えようとしている人をみると、自分がもっとできるのに何もしていないような気持ちになってしまって、後ろめたくて応援に行くことさえできないのではないかと思う。そういう非常に弱腰なところが私にはある、というようなことを話した。Mくんは共感はしていなそうだったが、暗くならないように気を遣った声と表情で「へー!」と言って受け止めてくれていた。

 

ここからは具体的にMくんとそういう話をしたわけではなくて、先日別の友達と別の話をした時からなんとなく考えていて、書きながら思い出したことなのだけど、私は強い違和感や怒りに駆動されて社会に何かを抗議することって少ないんだよなあと思う。怒りを表明するのも苦手だし、空気を読むことに長けていて、多少違和感を感じても場のルールにけっこう適応できてしまう。一方で、何かに抗議する人の意見も、けっこうすぐに「わかる……」となる。

その過剰適応しがちな性格が、私はあまり好きではない。だからつい最近まで、そのコンプレックスを覆い隠すように当事者意識や主体性をしっかり持たないといけないと思い込んでいた。ただ、Mくんだったり、その別の友達だったりと話をする中で、なんか必ずしもそんなこともないのかもしれないと思うようになってきている。

適応できるのはロジックがわかるからだ。過剰適応してしまいながらも様々な抗議の声が聞こえる場所にい続ければ、現在の社会のマジョリティ性とマイノリティ性の両方の気持ちがわかるかもしれない。それはそれで他にない、社会を変える可能性を秘めた視座なのではないか。今の私は未熟だからまだ単なる付和雷同に陥っているところもあるかもしれないけれど、考えを深めていけばその要素をゼロに近づけていくこともできるのではないか。少なくとも今の私にとってはそれが自然だし、コンプレックスに思って矯正しようとしなければならないほど恥ずべき性質ではないのではないか。そんな風に思うようになった。

そう思えるようになったのは、怒りの表現の仕方や社会との向き合い方について、友人たちの考えを聞く機会があり、自分の考えを正直に言ったからだと思う。直接そのテーマでじっくり意見を交換したわけじゃないけれど、雑多で個別的な会話が蓄積して、レベルアップのように何かを獲得することもあるのだろう。

 

このお店は都からの時短営業の要請には応じていなくて、気付いたら日付が変わっていた。二人で帰り道を歩く。

私は飲み続けるとしゃっくりが止まらなくなることがあって、そうなるともう、けっこうダメ。普通に呼吸をするのも苦しいし、何か言葉を発しようとしてもひっく、ひっくと細切れになってしまうのでテンションが下がり、閉店、という感じになってしまう。この日も終盤からそんな感じで、Mくんにはちょっと悪いことをしたなと思った。Mくんは私よりもハイペースで飲んでいたはずだけどずっと元気で、途中で寄ったコンビニで私にほっとレモンを買ってくれ、「手出して」と言ったかと思うと大粒のラムネを私の手のひらいっぱいに注ぎ、さらに肉まんもちぎって半分くれた。ほんまに元気や……ラムネを食べ、ほっとレモンで体を温めながら歩いた。

*1:もちろん情報取集であっても取材相手は人なので、そこには心があるのだけど、自分自身のことを話すのか、それ以外のことを話すのかではやはり大きく違う