ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

幽霊のように聞く[2020年10月17日(土)雨]

5時ごろ目が覚めると体が熱く、首筋のリンパが腫れていた。昨日、疲れていたのにプールに行って、そのあと恋人と居酒屋で少し飲んだのが良くなかったのかもしれない。疲れが溜まるとリンパが腫れて、高熱が出ることがたまにある。20代前半の頃までは二ヵ月に一回くらいの頻度でそうなっていたけど、ここ数年はなったことがなかったのでちょっと油断していた。

保冷剤をハンカチで包み、腫れたリンパに当てる。そこまでひどくないものであれば、これだけで鎮静化できるはず。少し落ち着くまでソファで過ごして、小さな保冷剤が溶けてぬるくなった頃にまたベッドに戻った。外が少し明るくなっていた。

 

適当な時間に目が覚めて、横たわったままリンパを触る。ぼこっと盛り上がっていた首筋がなだらかな状態に戻っていて、どうやら無事に腫れはひいたようだ。ベッドから起きて、うがいをしてから冷たい水を飲んだ。この週末は仕事をしなければいけないけど、今日は無理しないようにしようと思う。

家に食材が全然なかったので、恋人と一緒に駅前のパン屋へ。白いパンにフィッシュフライを挟んだものと、同じく白いパンにフライドチキンと野菜を挟んだものを二つ買う。似たようなものを買ってしまったけど、揚げ物と野菜が食べたかった。どちらも個包装になっていて、裏側のラベルに栄養表示が記載されていたのだけど、二つのカロリーを合計すると1000kcalくらいあった。朝から食べ過ぎの気もするが「今日は体調を整えるのが最優先だし、食べたいってことは体が求めてるってことだから……」と言い訳。実際、食べたらめちゃくちゃ元気になった気がする。

 

家に帰ったら洗濯をして、少し仕事と読書。15時半から朝カルオンラインで岸政彦さんの「積極的に受け身になる─生活史調査で聞くこと、聞かないこと」。岸さんが専門としている社会学の生活史調査で、どんな風に相手の話を聞いているのか、どんなことを聞くのか、持ち物やアポ取りの仕方など、抽象的な心構えからかなり具体的なことまでを話す90分(延長して実質2時間)。

聞きながら、社会学、および生活史の聞き取り調査と、ライターやジャーナリストの取材、当事者研究などにおける語りのエンパワメントは、それぞれまったく別のベクトルのことなんだなと改めて思う。もちろん重なるところもあるのだけど、むやみに援用することで本質が壊れてしまう部分があって、岸さんはそのことに対してとても慎重に見えた。

生活史の語りを聞くことは、答えを探すことより次の問いを探すことの成分が大きい(ことがあってもいい)のかもしれない。誰の人生もその人に固有のものだから、話を聞くことは必ず新しい発見だ。だからそれを断片的にであれ共有してもらえるのはそれだけですごいことで、それは無駄にはならない。まず岸さんにとっての「生活史調査で聞くこと」はそのことに裏打ちされていると感じた。だからたとえば沖縄戦について話を聞きに行ったのに、相手がまったく関係ない話ばかりをしても、本当のことを話してくれなくても、そこから(すぐにではなくても)問いが立ち上がったり、全体に連なる何かが見つかればそれでOKになるのだろう。

その広い視野は、ライターが一回の取材で原稿を書かなければならないような場合とはやっぱりやり方や心持ちが違ってくる。そのやり方はちょっとうらやましかった。もちろん、だからこそ大きな方向性を見失わないようにしなければいけなかったり、進んだあとで引き返すのが難しかったり、特有の困難があると思うのだけど。

あと、これは生活史のやり方と言うよりは岸さん個人のスタンスのようだけど、聞き取りをする時に「人対人」にならないようにかなり気を付けているように感じた。そう思ったのは、後半の質疑応答で「調査対象者にとって、語りの体験がどんなものであってほしいと思っていますか」という質問に対して「考えないようにしてる」と答えたところ。そのあとには別の社会学者の方が論文で「語ることは相手にとってもカタルシスをともなうものだ」と書いたことに対して、否定的なことを言っていた。

当事者研究などでは「語ること」「言語化すること」で癒やしであったり、症状が回復したりということはよく言われるので、この視点はちょっと意外。ただ、それは「語ることで回復すること」を否定するというよりは、それを意識することで生活史の聞き取りが変質してしまう、そのことを警戒しているのかなと思う。でもそれはそうだよな。相手が癒やされることは、調査とは関係がないのだし。

岸さんにとっての聞き取りはちょっと幽霊のような立場というか、その語りの体験がその人の人生に影響しないような、エアーポケットのような体験になるように気を付けているように感じた。そしてそういう透明な立場だからこそ聞けることがあるし、「積極的に受け身になる」ということでもあるのだろう。そうして「人対人」になることを避けるけれど、本当に幽霊として話が聞けるわけではなく「人対人」になってしまうのは事実なので、その中で存在感をどう消しつつ、相手への敬意を示すか、みたいな話だったと思う。

 

聞き取りでは極力自分の話をしない、というのも面白かった。「盛り上がったり相手が聞いてくれてるように見えるかもしれないけど、それそういうふりしてるだけやで」みたいなこと言ってた。

ライターの取材などでは、「流れが止まったり、場の空気が固いときは自分の話をするといい」と言われていて(これももしかしたら心理療法などでの「カウンセラーがクライアントに自己開示をすることで話しやすくする」みたいなところから来ているんだろうか)、私もたまにやっていた。でも、振り返ってみるとたしかにあんまり成功したことは多くない。単純に私が下手なだけなのかな、と思っていたが、目が覚めた気分。人としての感想とか実感みたいなものは抑えて、もうちょっと「ひとつの角度」みたいなものに徹して質問する方がいいのかもしれない。

うーん、ただ人によってはもっと人間的なアプローチを好む人もいて、絶対的な正解というものはないんだけど。まあそれは相手が人である以上当たり前だろう。

 

寒いので夕飯はこの秋初めての鍋にした。