ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

拡大モード[2023年1月4日(水)晴れ]

なんだかんだで1月2日から色々と作業をしていた。それでも、体感としてはかなり「休んだな〜」という満足感がある。去年の後半に感じていた、休みをとっても体力がマックスまで回復していないような感じが消えた。というより正月休みを経て回復したことで、凝り固まった疲れがあったことに気づいた。なんでそんなふうに根源的な回復ができたのかはわからないけど、体が軽くて、1日に思考し行動できる総量が増えた気がする。心機一転、さっぱりした気持ち。

午前中は原稿の執筆。最初の1000文字くらいは順調だったのだけど、その先から少しずつぶれてきた。テーマのことと自分の個人的なことをどのように絡めていくかバランスが難しい原稿で、個人的なことを増やせばいくらでも書けるがそういうことではない気がする。しばらく格闘したあと諦めて、途中からは流れとか順番とかを無視して、とりあえず思いついたことを書いていくようにシフトした。今日の自分にできるのはここまで。あとは明日以降の自分に任せよう。

 

お昼は冷凍うどんにSEIYUの「あえるだけ和風パスタ 山椒風味」をあえて食べる。はじめて食べたがオイルに山椒の風味がしっかり効いていておいしかった。恋人が年末に手に入れてきたちょっといいチーズを焼いてくれる。「焦げの部分がおいしい」と言うと、「だと思って多い方をあげたんだよ」と少しおどけて言っていた。

午後は編集的な仕事や日記書き、ためていたメッセージの返信など諸連絡。ブログの日記を書こうとして、うまくいかなくてやめてしまう。最近はEvernoteにつけている日記はどんどん長くなっているのだけど、なぜかブログに書く用に見直すとすぐにつまづいてしまう。破綻があるように感じられたり、論理展開がしっくりこなかったり、自分にしか通じないような気がしたりして、文章をこねくりまわしているうちにやる気が萎んでしまうのだ。(日記の時制を無視するが)今書いているこの文章もそうで、些細な感覚を説明するのに文章を書いては消しを繰り返している。

 

夕方に軽く筋トレ。プール通いを続けるうちに少しずつ肩幅が広くなってきたのだが、そうすると水泳では鍛えられない下半身や腹筋が気になってきた。お腹の肉も落としたい。ということで、年始から膝コロとスクワットをすることにしている。

そのあとプールへ。平泳ぎ込みで2600m泳ぐ。去年は行ける時間さえあれば泳いでいたが、今年は基本週2としたい。移動時間も含めると3時間くらい使うし、その時間があるなら本や映画に充てたい気持ちが大きくなってきたのだった。おそらくどうにも体が動かしたくなる日もあると思うのだけど、そういう時にごまかすために筋トレをはじめたようなところもある。

 

プールを出ると月が明るかった。磨かれた外階段に丸い光がぼんやりと反射している。数秒眺めたあと、その光源がただの街灯であると気づくのだけど、取り違えるほどには眩しい月だった。

SEIYUで豆板醤、にんにくチューブ、アルミホイルなど購入し帰宅。夕飯はカオマンガイ。豆板醤とにんにくチューブも使いながらスイートチリソースを作る。

 

先日はじめたポッドキャストのカバーアートがみのるんから届いたので、Anchor経由で設定。「いつも使っているアプリ上に表示されるとテンション上がる!」と、二人できゃっきゃする。

カバーアートは『いちなが』の表紙が写った写真を使ってデザインしてもらった。書店で「あっこれ、ポッドキャストで見た!」となって手に取ってくれたりしないかな、という算段。色んな意味で甘い気もするけど(そもそもポッドキャストのチャンネルをはじめたことがどれほどの露出になるのか? そんなふうに手に取ってもらえるものなのか?)、でも素晴らしい装画だと思っているから、目に触れる機会を少しでも増やすことには意味があると思っている。売れたい。

 

夜は『香山哲のプロジェクト発酵記』を読みはじめた。今年は何か日記以外で文章を継続的に書くプロジェクトがしたいので、参考になりそう。まずは一回通読して、そのあと自分のプロジェクト作りのサブテキスト的に順番に沿って進めてみようと思っている。

本の中に、「プロジェクトを進める中でアイデアを拡大することと収縮することを繰り返している」といったことが書かれていた。ろくろを回して壺を作るイラストが添えられていて、壺の口に手を当てて広げるのが「拡大」、それが広がりすぎて破綻しないように壺の真ん中ら辺を押さえて形を整えるのが「収縮」。わかりやすい。それでいうと、アイデアや文章がうまくまとまらなくてなんだか破綻していると感じてしまっているここ最近の私は、体全体を使って「拡大」期にいると捉えればいいのかもしれない。そうすれば少しは気が楽になるし、新年に拡大モードというのも景気がいい感じ。筋トレしたりプールを週2までと決めたり、ポッドキャストはじめたり、こういうのも拡大の一種かもしれない。体力がマックスまで回復したおかげもあるか。そのうち収縮期がやってくるだろうから、今は多少とっちらかっていてもいいことにしよう。

日記を書いて[2022年12月31日(土)晴れ]

晦日と元日は作業らしい作業をせずに過ごそうと決めていた。朝は遅めに起きて、布団にくるまりながら電子書籍で蜂飼耳訳の『方丈記』を読む。お腹が空いてきたので餅を食べようと思う。先日母親から届いたのし餅を開封。すでに切ってあるので、切れ目に沿って割っていく。大きなものを2つ鍋に入れて茹で、残りの餅は冷凍庫へ。茹でた餅には納豆を上にかけて食べた。

 

午前中は引き続き読書。『方丈記』を読み終え、先日Tac's Knotで買った大塚隆史『二人で生きる技術 幸せになるためのパートナーシップ』を読みはじめる。大塚さんが「僕のライフストーリーを縦糸に、パートナーシップに関することを横糸に、一枚の布を織り上げるように作った」という本。

今読んでいる第一講では、大塚さんが幼少期から半生を振り返っている。大塚さんは1948年生まれなので、1960年代に10代を過ごしていることになる。LGBTQ+の権利獲得運動のもっとも大きな転換点と言われるストーンウォール・インの反乱が1969年6月。それ以前を生きた人の言葉をこうしてまとまったかたちで読めるのはすごいな……と、まだ数十ページしか読んでいないけれど静かに感銘を受ける。しかもそれが「歴史の証言」のような大きなものではなくて、「誰かと生きていく」ことを模索する、小さな視点のまま綴られているのがすごくいい。自分が生まれるよりもずっと昔のことを想像する時に抜け落ちてしまいがちな体温のようなものが伝わってきて、こうした素朴さを抱えた人がきっとたくさん生きていたんだろうと思える。穏やかで明るい語り口も素敵。年末年始にじっくり読み進めたい。

 

お昼ご飯は家にさっと食べられるものがない。お腹が空いたと言いつつ面倒臭がって何もせずにいると、恋人がレタスと卵のチャーハンを作ってくれた。昨日恋人が年末年始用に作っていた筑前煮も出てくる(私はなますと角煮を作ったが、今回の昼ごはんには出ず)。おいしく食べる。そのあとはなんだか眠くなり、1時間ほど昼寝……自堕落だなあと思うが、こうして過ごすのも今日と明日だけ。自分で自分を許す。起きてまた『二人で生きる技術』を読み進めていく。

夕方には今年最後の買い出しのため近所のSEIYUへ。大晦日〜三が日にどんなものを食べるかを考えて、足りない食材や袋麺などを買う。レタスは売り切れていたが、それ以外のものは揃った。こんな年の瀬ギリギリに買い出しに行っても野菜とか肉とかが手に入るのは、ギリギリまで働いている人がいるから。スーパーの店員さんや物流の人、生産者の人たちに改めて感謝する。

SEIYUはセルフレジで、恋人と手分けして会計作業を行う。私はバーコードを読み取り、恋人が袋に詰めていく。袋詰めが苦手だからこの割り振りなのだが、だからといってバーコードの読み取りが得意なわけでもない。カップ麺をくるくると3回転させたあとようやく側面ではなくふたにバーコードがあるのを発見したり、「(読み取った商品は)台に置いて」と言われているのに何度も手渡ししようとしたりとおぼつかない。しかしなんらかのペア競技のようで楽しくもあった。

 

買い出し中にライターのKさんから、「二子玉川蔦屋家電でめっちゃいいところに置かれてたよ!」と『いちなが』が面陳されている写真が届いていた。発売から2ヶ月が経ったが、まだこうして展開してくれる書店があることに感謝。

「2020年から今年の日記です」とキャッチーな紹介ができるのも今日まで。今年がはじまった時には自分が本を出すとは思っていなかった。夏ごろから出版に向けて動きはじめて10月末に出版、その後も色々とイベントを開催していただくなど、下半期の活動の軸は間違いなく『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい』だった。

出版するまでは本を出すことがゴールのように思えていたけど、いざ出してみるとむしろ「あっ、ここからがはじまりだったんですね」と感じる。山を越えたらまた次の山、というような。

そんなにたくさん売れたり話題になったりしているわけではないものの、出版したことでライターとしての自分の状況は明らかに変わりつつある。これまでなかったタイプの原稿の依頼も舞い込んできているし、意図的に舵を切ってもいる。来年は変化の大きい一年になりそう。引き続き『いちなが』を売っていきながら、次の展開も考えていきたい。でもそういうだけじゃなくて、もっとすごい文章を書きたいな、と純粋に思っている。

 

日記はいつも翌日に書いているのだけど、今年は大晦日のうちに書いておきたいと思った。そうしないと締まらない気がした。今は恋人が予約していた回転寿司を受け取りに行っているところ。もうすぐ日記を書き終える私は、頭の片隅で年越しそばの準備のことを考えている。

コミュニティ[2022年12月24日(土)晴れ]

クリスマスイブ。家にちょうどいい食べ物がなく、恋人を起こして駅前のパン屋へモーニングを食べに行く。パン屋の隣には月替わりで色々なお店が出店するショップがあるのだけど、今月はアンナミラーズが入っているのでオープン前から長蛇の列ができている。お店の前だけでは並びきれないので、飛び地のように少し離れた場所にもう一つ列が作られているほど。人気なんだね、と言いながらパン屋へ入る。食べ終えて出ると、行列はさらに長くなっていた。

 

恋人が昼から出かけるというので、本を読んだり日記を書いたりしながら家に一人になるのを待つ。一人になりたかったのは新しくはじめるポッドキャストの収録をするため。一人で喋るのは気恥ずかしく、隣の部屋であっても人がいたら落ち着かないような気がしていたのだった。

恋人を見送り、朝パン屋で買っておいたあんドーナツを食べて収録。どんなトーンで話せばいいか掴めず、最初の挨拶を何度かやり直す。その後も何度か、途中まで話しては録音を消去してやり直した。音源はトリミングできるので、うまく喋れなかったらその部分だけ削って使える部分は生かせばいいのだけど、編集作業をしたことがないからすごく面倒なのではないかと思ってしまって、トリミングするくらいなら喋り直せばいいや、と判断していた。しかし繰り返し同じことを話していると飽きてくるし、喋りの鮮度も落ちそう。そもそもラフにやりたいと思っていたのに、人からすれば大差ないような些細なこだわりにまた終始してしまっている……そんな自分を無視できなくなり、もういいや、と思ってばーっと最後まで話した。収録はこれでおしまいということにして、編集作業へ。

編集は最低限にする。Anchor(ポッドキャスト編集用のアプリ)を触ってみて、編集作業そのものは慣れたら大変ではなさそうだったのだけど、具体的な負担というより、「細かいことは気にしない」というマインドに持っていくことが大事だと感じたため。聞き返してみると、その場の思いつきで話している箇所は声がいきいきしている。やっぱり考えすぎてもいけないんだろう。私はなにごともつい準備してのぞんでしまうけど、準備すればするほど不自由になることもある。「正解」が設定されてしまうからだ。そうではなくて、もっと即興的なやりとりを楽しめるようになりたい。多少気になるところがあっても形にする。それを続けていくうちに、ちょっとずつ上達していく。そんなふうに取り組みたいのだと思う。

 

編集を終え、あとは番組自体の登録や概要のテキストを考えたら完成。作業していたらお昼を食べ損ねてしまったので、何か食べてから続きをしようと思っていたら恋人が帰宅。キッチンで何か作りはじめたので、それをもらうことにする。鶏肉とごぼうの甘辛炒め。甘味がしっかりあって、塩気も引き立っておいしい。私が作るときはつい砂糖やみりんを控えめにキリッとした味にしてしまうので、これは彼だから作れた味。同じ調味料を使っていても仕上がりが全然違うのが面白いと思う。食後にポッドキャストの作業の続きを終えて、あとは読書。

 

17時過ぎに恋人と新宿へ。今日は二丁目にあるaktaで映画『ウィークエンズ』の上映会があって、友人たちと観に行く約束をしていたのだった。『ウィークエンズ』はG-voiceという、韓国で活動するゲイのコーラスグループを追ったドキュメンタリー。G-voiceの活動やメンバーの等身大の語りを追っていたカメラは、次第に韓国のクィアへのヘイトの現状、労働組合との連帯などを通して「声を上げる」ことの意味を映し出す。

私が映画を見るのは10月に渋谷PARCOで行われた「道をつくる」以来2度目。だから内容はだいたいわかっていたのだけど、G-voiceの活動やゲイとしての自分自身について語る人たちの姿は何度見てもチャーミングだし、結婚式で起きるトラブルなどは展開を知っているからこそドキドキした。プライドパレードの進路を座り込みで妨害したり、「die die die!!!(死ね、死ね、死ね!!!)」と言いながらパレードに向かってきたり、ヘイト団体の苛烈さにはやっぱりびびる。直球のヘイトが飛んでくるので対抗するアクティビズムも力強く、その姿からは多くを学ぶ。

 

終映後にはloneliness booksの潟見さん、字幕翻訳を担当した植田祐介さんのトークもあった。映画は2016年ごろまでのことだが、その後の6年ほどで韓国のLGBTQ+シーンはどのような変化があったかという話で、「パレードは韓国の各地で開催されるようになったが、地方ではパレードを開催してもヘイト団体のほうが人数が多いくらいだ」と植田さんが言っていたのが印象に残った。同性愛嫌悪の宗教保守の存在の大きさに改めて考え込んでしまう。人口が少ない地方でパレードで歩くと、誰か知り合いに見つかってしまう可能性が高いし、一人に見つかればすぐにコミュニティ全体に情報がまわってしまうかもしれない。当事者がいないわけではなく、リスクが大きすぎて可視化やカミングアウトが難しい現実がある。

地方で性的マイノリティとして生きることの難しさは韓国に限ったことではない。先日、植田さんは山形ではじめて開催されたプライドパレードに参加したそうだが、そこでもやはり参加したくてもできない当事者がたくさんいたという。植田さんは「そういう当事者を守る意味でも、地方のパレードに足を運ばないとと思っているんですけどね」とも話していた。

 

恋人、M、Aと入った三丁目の池林房でも、こうした地方と性的マイノリティの話になる。九州出身のMは、先日帰省してたくさんの親戚に会ったとき、「あなた誰でしたっけ? というような距離感の人でも、二言目には『結婚は?』と聞いてくる」と言っていた。そうした社会でカミングアウトをする大変さは、東京で暮らしていて、親もすでに知っている自分からするとなかなか想像できない。『いちなが』を読んだ地方の性的マイノリティの方々は、私の日記を読んでどう感じるのだろうと思う。社会的にはまだまだ差別がたくさんあるが、それでも自分は恵まれているほう。その恵まれている状態が、自分だけのものではなく当たり前になるようにできることを続けていかなくちゃと思う。

池林房でお腹を満たしたらTac's Knotへ(今日『ウィークエンズ』を見た人は2杯目無料とのことだった)。月曜日にも行ったので、偶然だけど今週2回目になった。一杯目はおすすめされた栗のリキュールのミルク割り。ローズマリーがのっていてクリスマスっぽい。

店内には潟見さんや植田さんもいて、映画のことなど色々話した。ソウルのクィアパレード、来年は行ってみたい。

 

今年はなんだかコミュニティで過ごすクリスマスという感じでよかったな。恋人と二人とか、親しい友達だけと過ごすのとはまた違ったあたたかい気持ちでいられたし、その気持ちを持ち寄れた気がする。

駅まで向かう帰り道、Tac's Knotでは席が離れてしまったAと少し話す。酔っ払っていてちょっと記憶が怪しいのだけど、占いができるAが来年はどんな時代になるかを話していた。曰く、2020年から風の時代(情報や知性などかたちのないものが重視される時代)と言われていたが、2022年までは過渡期みたいなもので、本格的にはじまるのは来年から。資本力や権力にしがみついている人たちがいよいよ大変になっていくでしょう、とのこと。その中で、「ちゃむは自分でこれって決めるというより、流されるみたいに進んだ方が思ってもみない未来へ辿り着けるよ」と言われる。まさに今、私の来年の仕事の予定はそのように誰かからの面白そうな提案で埋まりはじめているのだ。言い当てられたようで怖くて吹き出してしまった。だけど明るい兆しが見えた。

寒そうですね[2022年12月21日(水)晴れ]

気圧のせいで眠くて眠くて仕方がない。9時半から定例のミーティングがあるのでなんとかその10分前に起きる。本当はカメラオフで出たいのだけど、先週もオフにしていたので2週連続はなんか言われそうだと思い、急いで寝ぐせだけ水で整える。洗面所は寒く、水は冷たい。よく考えてみれば別に「今週もカメラオフですね」と言われたところで別に問題はないし、そうしてカメラオフでOKな雰囲気を醸成していったほうが色々と好都合な気はするのだけど、つい既存のルールに合わせてしまう。ザ・部屋着という感じのフリースを着て出たら「寒そうですね」と言われた。

 

そのあとは少し身支度して、明後日の三鷹UNITÉでのトークイベントの打ち合わせを椋本さんと。なぜか17時からだと思い込んでいて、椋本さんからZoomのURLが送られてきたあと確認したら11時からだったので焦った。イベントの進め方など、本当は今日の日中に考えようと思っていたのだ。ろくに準備できていないままとりあえずZoomに参加したが、椋本さんとお互いの本の感想を言い合っていたら話が膨らみ、「今のイベントで話した方がよかったかも」「これはイベント当日に取っておきましょう」が連発。かなり楽しみになってきた。私はこれまでのイベントは実はけっこう準備してのぞんでいて、何を話すかをばーっと書き出したりしていたのだけど、意外とそれをしなくてもいけるのでは? という気分になる。これまでのイベントでそれをしてきた&話してきた蓄積も生きているのだろうか。とはいえ、おそらく打ち合わせで簡単にメモした内容をもとに多少は準備をすることになると思うのだけど(慎重派なので)。準備しすぎもよくないから、余白を残しつつざっくりやろう。

 

打ち合わせを終えたらもうお昼。家に食べ物がないし、気分転換に外で作業しようと思って出かける。本当は東中野ミスドで飲茶とドーナツを食べたい気分だったのだが、間が悪くて総武線が15分ほど待たないとやってこない。面倒になって、8分ほどで次が来る中央線で中野まで行くことにした。駅前のケンタッキーへ。セルフレジが導入されていて、おっ、と思う。セルフレジは人と話さなくていいのが気楽で、実はけっこう好きだ。食べたらスタバへ移動してコーヒーを頼んで仕事。チェーン店好きだな自分。味や店員さんの対応に予想外のことがほぼなく安定しているのが理由だと思う。思想的にはなるべく個人店を応援したい気持ちが強いのに、せかせかしているとついチェーン店に足を運んでしまうし、無機的なセルフレジを気楽でいいなとか思ってしまう。そんな自分に気持ち悪さを覚えながら、でもみんな大なり小なりこういう矛盾を抱えているものなんじゃないのかな。どうなんだろう。そして矛盾するどちらの気持ちも抱えたまま、この場所で堪えて立っていたいと思う。

原稿は数時間ほどでなんとなく形になってきた。スタバは暖房が効きすぎていて、途中で頭が痛くなってくる。新鮮な空気を吸いたくなって外へ。空気が冷たくて生き返る。

家に戻って炊飯をセット。プールへ行き、2300メートル泳いだ。プールへ行くごとに平泳ぎが上達している手応えがあって楽しい。前は25メートル泳いだだけで息が上がっていたけど、今は50メートルは止まらず泳げるようになってきた。

帰ってきてぼーっとしていると恋人も帰宅。思ったよりも早かったので、冷凍してあったカツオのたたきの解凍ができていない。常温で放置しておき、その間にスープとサラダ、カツオのたれを作る。いつもは大葉、みょうが、にんにく、しょうがなどの薬味をのせて食べるが、今日は韓国風にする。なぜならみょうがが引くほど高いから。今日行ったスーパーでは1パック3個入りで258円だった。夏には100円とかだったことを知っているので、とても買う気になれない。

少し表面がやわらかくなってきたので、やや薄めにカットしていく。が、切れたというだけでまだ全然凍っている。皿に広げてしばらくさらに放置。お腹が空いているらしい恋人が「ドライヤーでも当ててみる?」と言うけど、生ぬるくなったら絶対においしくないので反対する。少し凍っているくらいでいいじゃんと考える私と、ぬるくてもちゃんと解凍されているほうがいいと考える恋人の間にある、些細なずれ。最近はこうしたずれが妙に引っかかってしまう。

 

Mさんが「すっごい面白かった」と貸してくれた日記の本を読み進める。自分の人恋しさに対して素直に行動している様子がうらやましい。

東京に似合うのは冬[2022年12月15日(木)晴れ]

朝8時半から丸の内で取材。神田で乗り換えて京浜東北線で有楽町へ。少し早めに着いたので、取材先の場所を確認してあたりをぐるっと一周する。歴史がありそうな建物や、まだ開いていないアパレルショップの大きなウインドウを眺める。角を曲がると、遠くに皇居の内堀が見えた。

 

取材は先方がしっかり事前準備をしてくださっていて、事前に資料も共有いただいていたこともありいい内容になったと思う。専門性のあるジャンルながら自分に深い知識があるわけではなく不安だったので、スムーズに終わってよかった。建物の前でスタッフの皆さんと別れ、私は近くのスタバで数時間ほど仕事。お昼時になって、次の予定のため席を立つ。

有楽町駅へ向かう途中、交差点のそばにあった銀杏並木が明るすぎるほどの黄色で、雲一つない青空に映えていた。まぶしいとさえ感じて目を細めたくなるのだけど、発光しているわけではないからその必要はない。太陽を直視しているみたいな不思議な気持ちになる。信号が変わって、視線を戻して歩き出す。

 

山手線で渋谷まで出て、井の頭線に乗り換えて駒場東大前へ。西口から出ると見覚えのある景色が広がっていた。なんだっけ……きょろきょろしながら思い出そうとする。平成初期頃のデザインらしきマクドナルドのプラスチックの看板が目に入って、それを見ているうちに記憶がつながった。高校生の頃だ。私はこのへんの高校に通っていたのだけど、駒場東大前は私が利用しているのとは違うもう一つの最寄駅だったのだった。駒場東大前を利用している友達といるのが楽しくて、放課後にこのマクドナルドで過ごしたこともある。駒場東大前といえばいつの頃からか東口にある駒場アゴラ劇場の印象に置き換わっていて、すっかり忘れていた。

そうして歩き出すと道にも見覚えがあり、懐かしい。閑静な(多分)高級住宅街で、高層ビルがないから空が開けている。この道をまっすぐ行って曲がるとたしかフレッシュネスバーガーの日本第一号店があって、それを通り過ぎて歩いていけば……と記憶を遡る。だけど記憶と同じ道筋はたどらず、途中で脇道に入る。今日の目的地は高校があった場所ではなく、日本近代文学館だから。

駒場公園は静かで、本格的な冬に向けて葉が少なくなった木々や、乾いた幹を見ながら進む。足元には玉砂利が敷かれていて、踏むたびに音がする。空が高い。思わずぼーっとしてしまう。予定を終え、帰りも再びぼーっとする。公園内に保存されている旧前田邸の建物を見るともなく眺めたりして、満足したら駒場東大前駅へ引き返す。
渋谷方面の電車に乗って神泉で下車。近くで戸田真琴さんの最後の写真展「supernova」が開催されていて、写真を撮影している飯田エリカさん(大学の同級生で今でも交流がある)も在廊しているというので。神泉駅から徒歩10分ほどだが、この駅もまた歩くのが楽しい。意外と坂が多くて起伏がある道、大使館、知らなかったけどおいしそうな店、大通り沿いの平たいデニーズ。街路樹。しげしげと眺めながら歩いていたら、気づくともうギャラリーに着いていた。

 

入ろうとするとすぐにエリカが気づいてくれ、「作家さんや〜」と言われる。本を出してからたまに言われるけど、なんか変な気分。だって私、日記書いていただけだし……。それに、そういう意味で言えばエリカのほうがよっぽど作家さんだ。写真集とかいっぱい撮ってるし。

入り口で話しているとちょうど戸田さんもやってきて、ちょっと挨拶。戸田さんは荷物を置きに行ったあとそのままファンの方とたくさんお話をされていたので、私は一人だったり、時々エリカと話したりしながら展示を見る。

戸田さんは1年前にAV女優を引退することを宣言した。エリカが撮っているのはAVとは違う、誰かの性欲のためではない戸田さんの写真なのだけど(私は戸田さんの出演しているAV作品を見ていないから、この言い方がAV女優としての戸田さんの仕事を矮小化していないといいなと思う)、それでも被写体としてこうして写るのはこれが最後なのだそう。

エリカが戸田さんをはじめて撮影したのは2017年で、5年間に撮ったあらゆる写真が展示されている。その写真はすべて来場者が自分の手で壁から剥がして、購入することができる(値段も自由)。写真は補充されないから、毎日少しずつ壁には空白が増えていく。

「初日はもっと隙間がなくてわーっと埋まってたんだけど、思ったより早いペースで減ってる」

空白を見ながらエリカが言う。壁に貼られた写真は大きさもばらばらで、いろんな紙に印刷されていて、時系列もランダム。「でも、思い出とか記憶とかって、こんなふうに頭の中に入ってるよね」という話をした。

今週の月曜に戸田さんとエリカのポッドキャストで私が出演したイベントの音声が配信になったことについても話す。昨日の日記に書いたように本を売るための方法を模索していたことで、「もしまた機会があったらぜひ読んで!」と若干押し強めに言ってしまった。それで嫌われたりする間柄でもないけれど、なんかちょっとだけ反省。

 

気づいたら1時間近く経っていた。ギャラリーを出て、日が暮れかけている神泉の街を引き返す。夕暮れの街もきれいで、行きに見かけた大使館に飾られたクリスマスのイルミネーションが輝いている。なんだか今日はたくさん歩いた。東京が好きだなと思う。私は好きな季節とか特にないのだけど、東京に似合うのは冬だ。空気が澄んで風が冷たくなると、この都会が持つ輪郭のシャープさが際立つように思う。

 

再び渋谷に出て、カフェで日記を書く。戦争が怖い話からはじまってどんどん長くなって、4000字くらいになってしまった。そのあといろんな渋谷の書店をめぐる。『いちなが』はあると思った店になく、ないと思った店にあった。そんなふうに、自分が知らないところで仕入れてくれている書店があり、買ってくれる人がいるのだろう。わかってはいるのだけど。

代々木公園のほうまで歩いて、せっかくだしとバスで帰ることにする。東京でバスに乗るのはいつもの街を違う視点で見られるから好きだ。今日もわくわくしながら外を眺めていたのだけど、途中で急にお腹が痛くなってくる。変なものを食べたわけではないのに、なぜ……気持ち悪い汗が額に浮かんできて、あ、これはまずい、と途中下車。初台だった。fuzkueの近くだ、などと思いながらトイレを探す。脂汗をかき、前屈みで小走りにうろついていても、冬の東京の美しさに心が弾んでいた。ドトールに入ってホットティーを頼み、トイレを借りる。間に合ったことに安堵。紅茶でお腹を労わりつつ、帰ってからやろうと思っていた仕事をここで片付けた。

 

ドトールを出て、もう一度バスに乗って今度こそ帰宅。車窓から眺めているのが楽しい。帰宅ラッシュで渋滞していてバスはなかなか動かなかったけど、それでもいっこうに構わなかった。

この感覚は重要[2022年12月14日(水)晴れ]

朝9時半から打ち合わせ。その少し前に起きて、コーヒーを淹れてニュースレターの準備。シャワーを浴びようと思ったけど面倒でやめてしまう。最近は脱衣所が寒くてシャワーを浴びるのが億劫になることが多い。浴びれば熱いとわかっていても、その手前の寒さを乗り越えられない。目を覚ますためにコーヒーをがぶがぶ飲む。

人前に出られる状況ではなかったのでカメラオフで打ち合わせ。そのあとまたニュースレターの執筆。いつも月の初めに送っているのだけど、今月はバタバタしていて遅くなってしまった。メインで書いたのは「戦争が怖い」という話。ここしばらく防衛費を確保するために増税する、というニュースをたくさん見る。たしかにこれだけみんな経済的に参っている中で増税なんてと思うけど、論点はそこなのか? 増税以前に、防衛力を強化すること、防衛費を対GDP比2%まで一気に増やすことへの不安が大きい。

防衛政策の基本方針をまとめた「安保3文書」は16日にも閣議決定される見通し。でも、「国家防衛戦略」(「防衛計画の大綱」と呼ばれる指針を名称変更したもの)には反撃能力の保有が明記される。反撃と言うとなんか正当な感じがするけれど、その内容を見てみると、これまでは相手国がミサイルを発射した際にそれを撃ち落とす(迎撃する)ことしかできなかったのを、危険があると判断したら基地を攻撃できるようにするというもの。反撃は「攻撃を防ぐのにやむをえない必要最小限度の自衛の措置」と言われているけど、実質的には「反撃」という建前で先制攻撃ができるようになってしまうんじゃないか……。

この防衛力強化の方針、ちゃんと理解を得られているんだろうか。この段階の議論がおざなりになっているというか、増税するかどうかの話にすり替えられているように感じる。それとも私が知らないうちに議論は尽くされた? たしかに、正直に言えば私も「平和ボケした日本人」で、選挙期間中に各党の政策を比較するときも安全保障や防衛のあり方を優先的には見ていなかった。どこかで大丈夫だろ、と楽観視していた節がある。だけど今変えられそうになっている方針って、そういう「大丈夫だろ」と思っている人たちにもしっかり理解を得ながら進めないといけないレベルの大転換では?

なにかのきっかけで戦争に突っ込んでいきそうな予感が胸を占める。ニュースレターでは「この日記が戦前の記録にならないといいなあ……」というようなことを書いた。現在を戦前にたとえるのは言葉は強すぎる気がして自分は避けてきたし、そういうたとえが使われた文章も距離を取って読むようにしていたけど、今回はかなり危機感を募らせている。本当に怖い。

 

お昼ご飯は昨日の夜に作ったカレーをかつお出汁でのばし、カレーうどんにする。醤油を少し垂らすと味が決まった。午後は明日の取材準備、日記書き、多和田葉子『太陽諸島』を読了。夕方からプールへ行き、今日は2100メートル泳いだ。

相変わらず平泳ぎを頑張っている。手はちゃんと水をかいて進んでいる感覚があるのだけど、足がうまく使えていない気がする。以前YouTubeで見た動画を思い出してみる。足を曲げる時にぐっとお尻に近づける、と言っていた。それから、足を上に上げすぎるとダメ、とも。試しに少し足の位置を低めにして泳いでみる。すると、水をちゃんと蹴れている手応えがあった。おお、と思う。ただ、ちゃんと蹴れているというだけで思ったほどは前に進まない。推進力が生まれないというか。難しい……。だけどこの感覚は重要な気がして、体が覚えるように少し連続して泳いでみる。

 

帰ってきて夕飯。カレーを温めて食べる。ヨーロッパ出張中の恋人からランチの写真が送られてきたので、自分もカレーを撮って送る。四角いジップロックのコンテナにご飯を詰めて保存していたのだけど、そのご飯をほぐさず皿にのせ、上からカレーをかけていた。「ご飯が四角くて面白い」とLINEの返信がある。同意見です。ずぼらなだけだがお子様ランチっぽさがある。納豆を混ぜて食べたよとLINEを送ったら、すぐに「納豆いいな」と返ってくる。ヨーロッパでは納豆はなかなか食べられない。

 

本『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい(いちなが)』の版元であるタバブックスから荷物が届いていたので開封。サインペン、本の特典のポストカード、日記のZINE『ティンダー・レモンケーキ・エフェクト』。ZINEは編集Mさんが「面白かったから感想聞きたいです!」と送ってくれたのだった。特典のポストカードは私が17日に吉祥寺のブックマンションでお店番&本の手売りをするので、それ用。サインペンは2本入っていて、私がサインの機会があるたびぎこちなく右往左往するからだろう。「やるぜサイン、カスカスになるまで……」と、Twitterに写真をアップ。

『いちなが』も気付けば発売から1ヶ月半。さまざまな書店でたくさんイベントをしてもらっているけれど、再び売れているのか自信がなくなってくる時期に突入している。書店に挨拶に行くと「売れてますよ」と言ってくれたりもするのだけど、新しい本は毎日どんどん刊行される。いつまでも目立つ場所に置いてもらえるわけでもないだろう。焦ってしまう。まだまだ売っていきたいけれど、自分がSNSで告知して届く範囲にはすでに届ききっているような気もする。誰かに取り上げてほしい。あと単純に感想を聞きたい。何かを作っている人は感想を食べて生きている。エゴサを一日に何度もしてしまう。頻繁にエゴサすればするほど新着がない画面を何度も見ることになる悪循環。それでも、発売直後よりもSNSで感想を見かける機会が増えている気がして、それはうれしいのだけど。長く売っていきたい、話題になってほしい、一人にとって大切な本になればそれでいい、大勢に知ってほしい。いろんな気持ちになる。

インタビューも発売直後に一回してもらったのみで、もちろんそれもうれしかったし貴重な機会だったのだけど、イベントで繰り返し話すうちに自分でも本への理解がだいぶ深まってきた気がするので、ここらでそろそろもう一度ちゃんと話したい。が、どうすればいいのやら。

ブックマンションのお店番で手売りをするのも、どうなのかなあと思っている。イベントの機会に買ってくれる人もいるからやったほうがいいのだろうが、書店で手に取ってもらった方が次につながる気もする。私が自分で打ったイベントでたくさん売れてもふーんという感じだけど、書店で売れたら「この本、よく動くから仕入れよう」と思ってもらえる気がするし。って、こんなの書店で働いたことない人間の想像なのだけど……すべてが手探りだ。

 

夜はドラマ『つくたべ』を最終話まで見る。そのあと、Netflixドラマの「Smiley」。バーで働くモテ筋ゲイのアレックスと建築家のアート系ゲイのブルーノ、1本の間違い電話からはじまるロムコム。ブルーノは「外見が冴えない」という設定で、ゲイアプリで見た目のいい男性に袖にされたり友人に「君じゃうまくいかないよ」と言われたりする。でも、ブルーノ(ミキ・エスパルベ)渋くて格好よくない……? 私が年上好きだから……? ブルーノの評価がドラマ内の登場人物とまったく共有できず、彼が見た目のせいでモテないという話になるたびつまづく。でもそれ以外はテンポ良く見られて楽しい。

時折映るサグラダ・ファミリアが印象的な街並みや、すごい早口に聞こえるスペイン語、ドラマを彩る音楽など、細かい部分が印象に残る。こうした細部や風土が、物語と自分自身をつなぎ合わせる時に大事だったりするんだよな。ゲイのロムコムはたしかに増えてきていて、他愛ないもの、中年期以降を描いたものなどその種類も多様化している。でも、簡単に「ゲイが出てくるドラマ増えてきたよね〜」と言うのは、ちょっと乱暴かもしれないと思った。だって異性愛のロムコムは映画産業があるすべての国で作られていると思うけど、同性愛のものはそうではない。同性愛者はどこにでもいるのに。

あと、私は「ゲイ」が描かれているか? という点を重視しているのかもしれないと思った。自分でも意外なのだけど、男性同士の恋愛ではなく、ゲイとしてのアイデンティティーを持った人の姿を見たいのだと思う。パク・サンヨンの『大都会の愛し方』が自分にとって大切な作品なのは、たとえばK-POPへの熱狂や女友達との関係構築のあり方、親との関係、差別の受け流し方などが複合的に描かれていたからだ。喜びも悲しみもある、その深い陰影のなかにこそ私は自分と近しい存在を見出すことができる。

そういう意味では『ぼくらのホームパーティー』はゲイであることをしっかりアイデンティティにした人物がたくさん出てきてよかった。あと、『ぼくらのホームパーティー』や『大都会の愛し方』と単純に並べることはできないが(人種的マイノリティとしての視点が描かれているため)安堂ホセ『ジャクソンひとり』もよかった。『ジャクソンひとり』は登場人物の話す言葉が感情を的確に、素早く掴んでいるのが印象的。描写も映像的で、その正確さが心地いい。身体的な、ノリながら読める小説だと思う。

物語のクライマックスの舞台は、固有名詞こそ伏せられているけれど新木場のageHaで行われていたゲイナイト「Shangri-La」だろう。あの空間の、誰に触れられていなくても何かに絡め取られている気分にさせる暗闇の濃さとそこを行き交う視線、声をかき消すダンスミュージック、いつまでも口の中に残るアルコール、大声と酒でヒリヒリしてくる喉、ハイになってくる頭。その記憶が残っていたから、最後の挑戦的な展開にはまさに体ごとのめりこむみたいにして読んだ。いや、「その記憶」がなくても十分楽しめるんだろうけど、でも小説の世界との近さはやっぱりあって、ニヤッとしながら読めて楽しかった。

 

明日は8時半に丸の内。早起きしないといけないので、ちゃんと起きれるか少し緊張しながら寝た。

暇をちゃんとやる[2022年12月9日(金)晴れ]

恋人が出張のため昨日から不在。私は今年の後半がかなり忙しかったので仕事をセーブしていて、しかしそんなに思い通りにコントロールできるものではなく、今週後半からようやくペースを緩めてもよくなってきた。今日も何時間もかかるような作業はしなくて大丈夫。

こまごまとしたメールやメッセージの返信。昼は昨日の残り物を食べて、13時から短い電話取材を1件。そのあとまたメールやメッセージの返信。一巡すると手持ち無沙汰になり、またメールボックスを見返す……座りの悪い自分に気づき、いつも仕事をしている時間に仕事がないと落ち着かないことをはっきりと自覚した。もうちょっと暇でありたいと言っているしいつも思っているが、暇になると意識をそちらへ持っていけないし時間も上手く使えない。せっかく時間に融通が効くフリーランスなのに。

そこまで認識してようやく「“暇”をちゃんとやろう」と気持ちを変えることができた。暇をやる、って矛盾ではある。でも、矛盾と感じるのは行為の時間中に「暇をやるぞ〜」と張り切っている状態をイメージするからであって、その手前のスイッチを切り替える段階で「暇をやるぞ〜」と思うのは効果があるのでは、と考える。帰宅して部屋着に着替えるみたいに。

とはいえそれだけではなく、「労働をしていない居心地の悪さに慣れよう!」と考えることで楽になっている節もある。それは暇な状態に慣れていくことをプロジェクト化、タスク化することなので、結局仕事と似たかたちをしたもので埋めて落ち着いているだけかもしれない。まあでも、それはいったん目をつぶってもいいことにしておく。どんなことにも慣らし期間はあるものだし、手段はなんであれ暇であることの居心地の悪さに慣れるという目的が達成されたら見える景色も変わっていると思うから。

 

多和田葉子『太陽諸島』を読みはじめる。1時間ほど読んだあと新宿のスポーツ用品店へ。今使っているスイムゴーグルのクッションが劣化し水が入り込むようになっていたし、曇り止めの効果もほぼなくなっていたため、新しいものを買いに。どれも同じに見える上に試着ができず、それでいてバリエーションがかなり豊富なので、選べなくて売り場で固まる。比較検討する基準を掴みきれないまま漫然と売り場で手に取ったり戻したりして、最終的にデザインがかっこよくて、スイムキャップの色と合いそうなNIKEのものにした。

東中野へ移動してミスドで『太陽諸島』の続きを読む。ハニーオールドファッションとエンゼルフレンチ。ドーナツを食べながらゆっくり読みたいのだけど、いつもうまくできない。最初の10分とかで食べてしまう。

『太陽諸島』は『地球にちりばめられて』、『星に仄めかされて』に続く三部作の最終作。一作目の『地球にちりばめられて』が出版されたのは2018年。主人公は留学中に母国の島国が消滅してしまった女性のHiruko。明言はされないのだけど、島国はおそらく日本で、消滅した原因は原発事故による汚染であることが読み取れる。そのため「震災後」が出発点にあったと思うのだけど、作品が執筆されている期間にコロナ禍になり、ロシアのウクライナ侵攻が発生し……と現実の方がどんどん変わっていき、それ以上の意味を持つものになっていった。

こんなに一つ一つの会話が現代の問題を下敷きにしたものだったか、と驚きながら読む。私は前2作でたくさんのことを読み取り損ねていたかもしれない。ドイツ人女性のノラが「最低限の労働条件が守られているフェアトレードの洋服を買うようにしているが、町を歩いていると服にナンパされるように店先の安い服を手に取ってしまう。買ったあとで児童労働、という言葉が浮かぶ」と考え事にふける場面がちょうど出てきた。自分のトートバッグの中に入っている新品のNIKEのスイムゴーグルを思い出す。Asics新疆ウイグル自治区産の綿花を使っているし、東京五輪のスポンサーでもあったのでなんとなく避けていた。でも、NIKEは大丈夫か……ぱっと検索すると社会学者のケイン樹里安さんが2020年にNIKEの広告(と、その日本社会での受け取られ方)を論じた記事が出てきて、発表当時に読んだその記事を再読する。

他にも、NIKEが発表している環境や社会への影響に関する報告をまとめた「インパクトレポート」に関する記事など。そのほか「NIKE ウイグル」「NIKE 労働」「NIKE 差別」などで調べてみて、目立った問題はなさそうなのでほっとした。上の記事にもある通り、かつてNIKEの委託先で行われていた児童労働が1996年に世界的に大きな問題になったことがあった。このことを契機に、社会や環境に対してクリーンであろうと努める同社の姿勢が築かれたようだ。

しかし突き詰めて考えれば、スイムゴーグルだって新品を買う必要はなかったのだと思う。クッションを取り替えたり曇り止めスプレーを使ったりして古いものを使い続けるほうが、環境にとっては負荷が少ない。でも、新しいものを買うことの楽しさ、便利さを知ってしまっている。息をするような自然さで新品を購入して古いものを捨ててしまう。

 

夕方までミスドにいて、家に帰って夕飯を作る。秋に恋人が出張で家を空けていた時は、仕事が忙しかったこともあって自炊がほとんどできなかった。今回はちゃんと自分で作りたい。辛いものが食べたくて麻婆豆腐。恋人がいる時は彼に合わせて絹の豆腐を使っているが、今日は自分しか食べないので木綿を使う。この水分が少ない、ぎゅっとした感じが好き。ダシダのスープ、サラダも作る。ドーナツでまだお腹が空かないので準備だけしておいて、映画『渚のシンドバッド』見る。橋口亮輔監督の1995年の作品。本当は『ハッシュ!』が見たかったのだけど、SVODで見つけられなかった。

男子高校生の伊藤は自分がゲイであることを隠していて、密かに友人の吉田に思いを寄せている。転校生の相原はそのことに気づき伊藤に接近するが、相原にもまた人に隠している秘密があった。

ゲイ映画としては、伊藤と吉田のやりとりの手探り感や、自分がゲイであることを受け入れる時のシニカルさが胸に迫る。伊藤がゲイだと父親にバレてしまったことで精神科に通うことになるシーンがあったりして、この時代の同性愛を取り巻く社会状況を垣間見ることもできる。

男子高校生のシャツ、体操着、グラウンドに線を引くローラー。冒頭のシーンから白色のまぶしさが印象に残る。その後もチョーク、吉田の家に伊藤が遊びにきた時に吉田が作る牛乳入りのカルピス、終盤に相原と伊藤が着ている洋服など印象的な場面で白色が登場するのが気になる。率直に純粋さの象徴のようにも思えるし、エロティックでもある。

白線ローラーを持った伊藤は熱中症で倒れてしまうし、吉田が手渡したカルピスは他の友人に勝手に飲まれてしまう。終盤に相原は自分が食べている白いアイスを吉田の赤いシャツに苛立ちながら押し付ける。白色のものに限らず他のものでもそうだけど、正しく手渡せない/受け取られない描写が連続していて、その描写が10代の不器用でぎこちないコミュニケーションを象徴していた。それを演じる役者たちの、あどけなさと大人らしさを行き来するような顔つきもよかった。

相原を演じているのは歌手デビュー前の浜崎あゆみ。相原は徹底して伊藤の側に立ち続ける人、同性愛をおかしなものとして扱おうとする人に対して時に攻撃的になりながらも抗う人なのだけど、歌手としての浜崎あゆみがある世代のゲイたちに特に愛されアイコン的な存在になっていることを思うと感慨深い。クィアの味方であることが宿命づけられているようにさえ感じてしまった。映画を見たあとはYくんが近所で飲んでいるというのでふらっと出かけたのだけど、その道では初期の浜崎あゆみを聴いていた。初期Ayu、冬に聴きたくなる。

 

Yくんがいたのは北海道のお酒を多く扱うゲイバー。がやがやとした喧騒や、視線が行き交う感じが久しぶりでちょっと楽しい。メロンのビール、花椒ウイスキーに漬け込んだリキュールのお酒がおいしかった。