ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

空席[2022年4月3日(日)雨]

お昼から荻窪へ。今作っている日記は表紙をリソグラフで印刷するので、中野活版印刷店で試し刷りをしてもらう。これまでの日記でもデザインをお願いしているみのるんが何パターンかデータを用意してくれて、薄い緑と濃い緑、二種類の紙に試し刷り。紙とインクのいろんな組み合わせを比較する。途中リソグラフの説明もしてもらい、みのるんは興味深そうに聞いていた。私は詳しいことはわからないけど、なんとなく仕組みを把握して、なるほど〜と思う。自分たちでセルフプリントするのも楽しそう。
データよりもずっと華やかな色合いと、印刷面の絶妙な表情にはしゃぐ。紙の色は薄い方が良さそうだねと、二人とも意見が一致した。インクはこの試し刷りをもとに、みのるんがもう一度持ち帰って調整してくれる。私は私で本文の制作を頑張ろう。

それから『表現の不自由展・東京2022』を見るため国立へ移動。完全入れ替え制のため、駅前のサイゼリヤで時間を潰す。みのるんは一時間早い回を予約していたので先に出て、私は同じ回を見る予定のなかのさんと赤坂さんを待つ。到着した赤坂さんから「この街、はじめて来たけど雰囲気いいですね〜」とLINE。私は取材で去年来たことがある。国立には大学がたくさんあって、街並みはドイツの学園都市ゲッティンゲンをモデルにしているという、その時に話を聞いたことを思い出す。そういえば、このサイゼリヤも若者ばかりだ。いくつかのテーブルからはにぎやかな韓国語も聞こえる。学校とかがあるのだろうか。
二人と合流して、バスでくにたち市民芸術小ホールへ。大通りの両脇に植えられた桜並木が綺麗。昼よりも強い雨の中、傘を差して会場へ向かう。付近には警察が配備され、入り口では空港にあるような金属探知機のゲートをくぐり、液体や傘などはギャラリー内に持ち込めないようになっているなど警戒態勢だった。初日となった昨日は保守団体によるデモや街宣車も来たそうだけど、今日は見当たらず。会場に入れば静かで、誰もが熱心に作品を見て、解説を読んでいた。
なんらかの検閲・規制を受けて展示を拒否された作品たちが並ぶ。制作時に作者が込めた意図(①)と展示を拒否されたことで生じた意味(②)、その二つが作品の上で重なり合っている。この展示は②によって作品が集められていて、それゆえにセンセーショナルに思えるのだけど、実際に作品と向き合って①の意図を手繰り寄せようとしてみれば、どれもすごく純粋で素朴。だからこそなぜこれが規制されるのか、皮肉ではなく率直に不思議だった。
展示を拒否された理由はさまざまだけど、行政や施設の職員側の忖度によるものが案外多かった。激しい拒否反応や明確な意志を持った検閲で取り下げになったものが多いと勝手に思っていたから、少し意外。でも言われてみれば、それこそ日本的な不自由かもしれない。空気を読んだなんとなくの自主規制。真綿で首を絞めるような息苦しさに、作品と作家は正面から鉄球を撃ち込むみたいに抵抗する。漠然とした「空気」の存在が炙り出され、自分自身も少なからずその空気を内面化していることに気づかされる。
キム・ソギョンとキム・ウンソンの《平和の少女像》も展示されていた。見てみると少女の像が作品のすべてではなく、そばに置かれた一脚の椅子が重要だと気づく(椅子には自由に座ることもできる)。椅子に座ってみる。どんな顔でいればいいのか戸惑いながら、隣に座る少女像をこれまでと違う角度から眺める。実態としての存在が近くにあると、自分が持ち合わせていた概念的な理解がもろく、大した意味を持たないものに感じられた。
あいちトリエンナーレ2019で起こったトラブルの報道では、少女の像が映されることが多かったように記憶している(さらにクローズアップして、「顔」だけを映したものもあった)。でも、それは問題を少女(たち)に還元してしまうかもしれないし、空席にこそ目を向けるべきだったのだと思った。隣に座ってみること、誰かが座る姿を思い浮かべること。その時、胸に湧き上がるものは何か。

時間いっぱいかけて見て、再びバスで駅前へ戻る。みのるんと合流し、お店を探して雨の中を四人でうろうろ。ファミレス、チェーン店などが候補に挙がりつつ、結果的に雰囲気の良い小さな居酒屋に入ることができた。里芋の春巻きなど変わったメニューがあってどれもおいしい。九時くらいまで飲んで、早めに帰宅。駅で閉じた折りたたみ傘に桜の花びらが貼りついていた。この雨でだいぶ散ってしまうのかもしれない。

今日の新規陽性者数は7899人、現在の重症者数は31人、死者9人。


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先日もちょっと紹介しましたが、4月10日に下北沢のBONUS TRACKで開催される「日記祭」に出展します。イベントに合わせて『四月の一週間とちょっと(仮)』という新作を作っていて、ここ数日は毎日日記を書いてはいたものの、こちらには掲載していなかった。

収録している日記の期間は4月1日から8日+α(今日の日記も入ってます)、28ページ500円です。
色々とイベントもあるし、日記本を作っている人がたくさん集まるこれまでにないイベントなので、日記好きな方はお時間あればいらしてください〜。お待ちしています。
※少しだけになるかもしれませんが、日記本はそのうち通販もする予定です!

連続性[2022年4月1日(金)雨のち晴れ]

窓の外から静かな雨の音が聞こえていた。昨日の夜、部屋で本を読んでいた時にも同じ音を聞いたことを思い出す。音の連続性の中で、昨日と今日が、三月と四月が地続きであることを理解する。

高校二年生の時まで春になるというのがどういうことなのかよくわかっていなくて、なんとなく雪が溶けるとか(小さい頃は豪雪の富山県に住んでいた)、桜が咲くとか、記号的なものだけで春の訪れを認識していた。それが覆ったのが高二の時で、バス停から家へと帰る坂道をのぼりながら、日差しのあたたかさや空気のゆるみ、景色が色を取り戻して見えることといった複合的な知覚によって、「春の中にいる」とはじめて実感したのだった。季節の解像度がぐんと高まって、それまで見過ごしていたものが一気に見えるようになるのは衝撃的な体験で、今でもよく覚えている。

こうした解像度が上がる体験は社会人一年目の頃にもあった。通勤ラッシュの朝、慢性的な遅延によってのろのろとしか動かない中央線の車窓から四ツ谷の土手を眺めていたら、黄色や紫の花がたくさん咲いていた。よく見ると、土手を覆う雑草も一つ一つ個性がある。それまで春といえば桜でピンク、みたいに単純なイメージを抱いていたけど、本当はもっとたくさんの色やかたちが押し寄せるような季節だったのだ。動かなくなってしまった電車の中でその荒々しさを目の当たりにして、雷に打たれたようになったことを覚えている。

そうして、私の春への理解は段階的に変化してきた。もうこんな風に電撃的に、それ以前と以後で別物になるような瞬間は訪れないんじゃないかと思っているけど、だからといって春への理解が確立できたわけではない。近年は点的ではなく線的というか、鮮やかな瞬間ではなく時間の中で季節への理解を深めていると思う。それはたとえば満開の桜ではなく蕾から花、そして葉桜へというプロセスに着目することだったり、三寒四温の周期に合わせて服装を調節することだったりする。だから今朝の冷たい雨も、それ自体は冬に似ていても、連続性の中で捉えれば春らしさの一部なのだった。

 

食欲が湧かず、何も食べないでコーヒーだけ淹れて仕事をはじめる。短い原稿を一本。途中でお腹が空いてきたのでコロッケを食パンにのせて食べる。食パンもコロッケも消費期限を数日過ぎていたが、鼻を近づけていけると判断。食パンの残りは袋ごと冷凍する。これだけだと味気ないかなと思ってスライサーでキャベツを千切りにしてのせると、一気にそれっぽくなった。消費期限は切れているが一手間はかける。雑さと丁寧さの共存。

夕方まで引き続き作業。原稿を一本編集して、仕事の資料を読み進める。それからプールへ。いつもよりも早い時間だったからか人がほとんどおらず、貸切のような時間帯もあった。快適だけど大して泳ぎが上手なわけでもないので気恥ずかしくもある。私が泳いでいないと監視員の人が虚空を見つめることになってしまうのではないかと思って、インターバルを短めにするなど落ち着かなかった。1700メートル。

 

一度家に戻って夕飯をどうしようか考える。今日は珍しく恋人がいないので、自分のことだけを考えればいい。夕飯の用意の必要も、約束も予定もない夜が久しぶりな気がして、どう過ごしていいのか迷う。せっかくだから外食したいけど食べたいものが特に思い浮かばず、時間も持て余してしまったので銭湯へ行くことに。道中、思っていたよりも気温が低くて体が冷えた。熱い湯船が心地いい。その心地よさに身を委ねるうち、これはビールだな、ということは居酒屋だな、恋人と一緒だとあまり行かないしそういう意味でも良いな、と方向性が定まっていった。

下駄箱から靴を取り出し、振り返ったら知り合いの編集者のSさんがちょうど入るところだった。「よく来るんですか」「たまーにですねー」といった雑談や、今進めている仕事の話を少しして別れる。金曜の夜の街はにぎやか。まん防が解除されて10日ほどだけど、感染が再拡大しているとニュースで聞いた。

 

今日の新規陽性者数は7982人、現在の重症者数は30人、死者9人。

 

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4月10日に下北沢のBONUS TRACKで開催される「日記祭」に出展します。私はこれまでに作った日記ZINEに加えて、『四月の一週間とちょっと(仮)』という新作も持っていく予定。(仮)まで含めて正式タイトルです。ブース番号は7番。今日の日記や開催日直前までの日記をまとめようと思っているので、お時間のある人はぜひ! トークイベントもおもしろそうです。

わかる、歩く[2022年3月26日(土)曇り時々雨]

朝、ベッドの中で千葉雅也『現代思想入門』読み進め。評判は聞いていたけれど、たしかにこれはかなりすごい本。私は「今年ベスト」みたいなことを考えたり言うのが苦手なのだけど、今年出た本で誰かに一冊だけ勧めるとしたらこの本を勧めるのではないかと思う。まだ3月だけど、年末までずっとそうである予感がある。

自分には手に負えない気がして正直あまり体系的に学んではこなかった現代思想の哲学者たちの言葉が、大掴みではあるがちゃんと理解できる。千葉雅也さんの文章は腹落ち感があるというか、身体性をともなった「わかる」感覚が魅力だと思っているのだけど、その持ち味が存分に発揮されている。

難しい本が読めずに挫折することや、力不足かもと思って避けることは悔しいことで、その悔しさがより読むことを遠ざける。でもこの本では「わかる」という小さな成功体験を積み重ねていけるので、とにかく読んでいて楽しい。何かを理解し、世界の見え方が変化していくことの喜びがある。

もちろんこれだけですべてをわかった気にならないよう注意する必要はある。でも、わかった気にならず、でもだいたいわかっている、という態度は両立するだろう。この本の語り口自体が「必ずしもすべてわかっていなくても、話し始めることはできる」という明るさに裏付けられているものだし、そうした不完全さ、不明瞭な部分の捉え方は、実は現代思想の哲学者たちの思想ともリンクしている(もちろん、そこには千葉さんならではの解釈も含まれているのだと思うけど)。

それにしても私がぐるぐる考えて答えが出ないと思っていたことや、今日的なテーマだと思っていたこともすでにドゥルーズやらフーコーやらが考えていたんだな。自分が壮大な回り道をしていたことがはっきりするようで恥ずかしいのだけど、まあ反省はそこそこにして、次からちゃんと使っていけばいいと思う(ことにする)。

 

午前中に恋人と一緒に駅前のパン屋で朝食。私はそのまま電車に乗って、まず新宿の本屋で新刊をチェックする。電子書籍で読むことが多くなってしまって、大きな本屋に行くのも久しぶりだった。そうしていると12時で、まだお腹も空いていなかったのでプールへ。2100メートル泳いで、上がったあともあまり疲れていなかった。先日行った時は体が重くて1000メートルしか泳げなかったのでえらい違い。いつもは夕方だけど、昼に行ったのがよかったのかもしれない。早い時間のほうが明らかに疲れていなくて、たくさん元気に泳げる気がする。

 

それから代々木八幡へ移動。同じく新刊チェックのため、久しぶりにSPBSへ行ってみる。代々木八幡から渋谷駅へ向かう途中の「奥渋谷」と呼ばれているようなこの一帯、前はこんなに人が多かったかなと驚く。春らしい服装の若い人がとにかく多い。SPBSもかなり賑わっていた。しかしどんどん本のスペースが少なくなっている気がしないでもない。ちょっと寂しいなと思いつつ、自分も韓国の食器フェアみたいな一角で売られていたソジュ(韓国焼酎)グラスを手に取った。ムラサキ色の木蓮が2輪描かれていて、透明なお酒を注いだらきれいだろうなと思った。他にはリトルプレスや、オカヤイヅミ『いいとしを』など購入。

 

もう16時近かったけれど、なんとなくお昼ご飯を食べ損ねてしまっていた。文字通り店の外まで人が溢れているようなFUGLEN TOKYOや、「かかん」という鎌倉で人気の麻婆豆腐屋さんが4月にできるという張り紙を見ながら、駅のほうへ戻る。この時間だとランチは終わってしまっているし、意外なほどお腹が空いていなくて何が食べたいのかわからなかった。そのうち代々木上原駅にサブウェイがあったことを思い出し、代々木八幡を通り過ぎて上原まで歩く。去年の後半は通院のためによく来たなあと思い出して、少しだけ懐かしい。サブウェイでサンドだけさっと食べて家に帰る。よく歩いた一日だった。

 

今日の新規陽性者数は7440人、現在の重症者数は35人、死者18人。

重い日[2022年3月22日(火)雨時々雪]

毎日とにかく眠くて、夜は早く寝てしまうし朝もまったく起きられない。昨晩も24時前には寝たのに、今日は9時まで起きられなかった。突然真冬のような寒さが戻ってきて、日差しが弱々しいことも関係しているのだろうか。

 

適当な朝ごはんを食べて、少し時間が余ったので家のパソコンで仕事。週のはじめなので会社へ行く準備をする。行かなくてもよかったのだけど、先日の地震の時に「本棚が倒れた」という写真が社内の連絡用のメッセンジャーに届いていて、一応デスクの様子を見ておきたかった。

私は基本的に晴れ男なのだけど、会社へ行く日は雨だったりいつも以上に寒かったりすることが多いと思う。めんどくさいなあ、と思っていると雨が降るのだろうか。

 

会社では原稿を1本執筆。室内がやけに寒くて、窓の外を見ると雪が降っている。普通に過ごしているだけなのに体が震えた。電力が逼迫していることを受けて、誰かが暖房を弱めに設定していたのかもしれない。だけどその時は理由がわからず、とりあえずケトルでお湯を沸かして、熱いコーヒーや緑茶を淹れてしのいでいた。

夕方には会社を出て学芸大学へ。先日注文した名刺200枚を、平田印刷さんという小さな印刷所へ受け取りに行く。何年か前に友人が教えてくれた印刷所で、良心的な価格で活版印刷の名刺を作ってくれるところ。以前名刺をお願いした時は注文も受け取りも店頭に行く必要があった(と思う)けど、今回は注文はメールでできた。受け取りも郵送をお願いできたかもしれないけれど、この印刷所の素朴な雰囲気が好きで、せっかくだし足を運ぼうと思ったのだった。

約束の時間よりも少し早めに着いたので、SUNNY BOY BOOKSで時間を潰してから平田印刷へ。以前訪れた時は高齢のお父さんとお母さん、息子さんの3人がいらしたのだけど、今日は息子さんのみ。寒い日だから、一人だけで店番をしているのかもしれない。

以前注文したのはコロナ禍になる前だった。「コロナの影響、どうですか」と聞かれ、「直後は影響があったけど、最近はまた戻ってきました」などと答える。聞けば、平田印刷さんでは2020年の初頭にお父さんが怪我をしてしまい、色々とばたついているうちにコロナが来てしまったという。当時は本当に大変で、いつ閉めようかと考えてばかりいた。そう言われて、またお願いできてよかったですと伝える。「お客さんが来るたび、次は会えるかなって(思うんですよ)」。早口の、深刻さを感じさせないいつもの口調で言っていた。

コロナになってからオンラインで打ち合わせや取材をすることが多くて、名刺を渡す機会もぐっと減っているのだった。けっこう面倒くさがったり名刺入れを忘れたりしがちなのだけど、積極的に、でも大切に人に渡していこうと思う。

 

名刺を受け取ったあとは、学芸大学に来た時よく寄っていた定食屋に行くつもりでいた。平田印刷へ向かう途中にお店があったはずなのだけど見当たらず、帰り道にもう一度探してもわからない。Googleで調べたら去年閉店していた。そうなると自分が何を食べたいのかわからなくて、とりあえず帰ることにする。

 

電車では、radikoのタイムフリーでTBSラジオ特別番組「ロシアのウクライナ軍事侵攻~今、 何を考えればいいのか」。聞きながらSNSを見れば、ウクライナのニュースや電力逼迫のニュースが並ぶ。「ヤシマ作戦」の文字が流れていく。そういえば昔にも節電しなければいけないことがあったなと思い出す。その時はみんなけっこう盛り上がっていたし、自分も内心楽しんでいた記憶があるけど、今回はそういう気分にはなれなかった。

 

東京のまん防は今日から解除。今日の新規陽性者数は3533人、現在の重症者数は45人、死者4人。

そのもの、今[2022年3月13日(日)晴れ]

昨日の夜は久しぶりに外でお酒を飲んだので、やっぱり途中で起きてしまった。酔い覚ましにお茶を飲みながら、リビングの電気をつけずにスマホYouTubeを見る。途中で目が覚めてしまった時、いつも少しだけこのまま起きていようかという考えが頭をよぎる。だけどそれでは昨日と今日の境目を見失うような居心地の悪さがあって、結局いつも二度寝する。自分にとって睡眠はただ疲れをとるというだけでなく、気持ちに区切りをつける意味合いが大きいのかもしれない。朝がきちんと新しいものであるために、もう数時間の眠りが必要というか。

 

そうして起きたのは9時で、午前中に少し仕事やメールの返信など。11時から髪を切りに行く。久しぶりにばっさり切って、5〜7センチほど短くなっただろうか。少し前、恋人が「トリートメントの時に櫛を使って髪に馴染ませるとしっかり行き渡ってサラサラになる」と教えてくれたのだけど、これを実践するようになってから髪が変に浮くように立ってしまうのが改善された気がしている。硬質で、おそらく生え方のせいで寝ずに浮いてしまう自分の髪があまり好きではなかったのだけど、少し良くなったように感じるのだ。それで、ある程度の長さがある状態ではなく、短くしたらどうなるのか試してみたくなったのだった。

オーダーを伝えたあと、なんとなく誰かと話す気分ではなくて目を閉じる。鋭いハサミや硬いバリカンがやわらかい髪を整えていく、その音を聞きながら座っていた。30分もすればできあがり。余分な毛を洗い流したりブローしたりを終えたあと、切ってくれた人が「春から独立することになりまして」と言う。「多分次回のカットはいるけど、それが最後になると思います」とのこと。

この街に引っ越してきてからはほぼずっとこの人にお願いしていたので、なんだかんだでもう6年近く切ってもらっていることになる。最近はなんとなくその方が落ち着いたので目を閉じて黙って切ってもらうことが多くて、自然に今日もそうしていたけど、それならもっと積極的に話せばよかったな、と反射的に思う。それから少し遅れて、本当にそうなのかな、と思う。目を閉じている時に話しかけずにいてくれたことも一つのコミュニケーションで、たくさん話したから親しいというわけでは、この場合はない気がする。直接あれこれ話をしたわけではなくても、その人が離れることをさみしいと思えるのは、長い期間お世話になったからなのだろう。歳月によってのみ培われる感情もある。変にセンチメンタルで増幅させず、それまでの関係に適切なボリュームで寂しがりたい。

髪型はオーダー通りで気に入っているけれど、それでもやはり多少は浮いてしまう。髪質は変えられないのでどうしようもないのだろう。でも、短期的にはトリートメントの時に櫛を使う前、中長期的には学生の頃と比べると、その「浮き」は抑えられてきている。学生の頃と比べて良くなったのは、おそらく髪が細くなったせい。それは加齢によるものなので、このままどんどん痩せ細っていったらと思うとちょっと悲しいけど、少なくとも今はいい感じ。勢いが翳ってちょうどよくなることもあるのだなと思う。

 

一度家に帰って、恋人が作った焼きうどんを食べる。食後、少しゆっくりしたら一緒に電車に乗って下北沢へ。reloadの「GREAT BOOKS」で植本一子さんの写真展を見る。恋人も植本さんの日記や写真が好きなので、紹介できてうれしかった。展示は壁に写真をまとめて貼っているスペースが好きだった。ぼーっと全体を俯瞰することも、一枚一枚のエピソードを想像することもできる。植本さんは文章では迷いや怒り、弱さと向き合って書いていることが多いように思うけど、写真にはそうした感情はあまり写っていなくて、喜びや心強さを感じる。でも、どちらにも同じ温度が流れていると思う。
ギャラリーを出て、向かいのお茶屋さんで恋人と一緒に抹茶ソフトを買う。食べながら、「写真も、ギャラリーの奥にあったミツさんの手紙もよかったね」と話しながら駅へ向かう。

 

恋人は帰宅、私は駅のスタバで友人のHにLINEを返す。Hとの手紙のようなLINEは一時期途絶えていたが最近また復活していて、そしてどんどん長文化していく。書いたあと、なんとなく文字数をカウントしたら2000字以上あった。

話題は先週の反戦街宣、『POSE』のキャンディというキャラの扱い、『春原さんのこと』など。『春原さんのこと』について、短歌が原作という話をする中で「短歌とか俳句とかって要するに省略の文学だから、何が描かれているかではなく何が省略されているかに注目し、その点をキープしながら映画化することで原作を尊重した作品にできるのかなと思った」と書く。自分がそんな風に思っていたことに、書きながらはじめて気づいた。書くことは考えていることの出力ではなくて、それ自体が運動なのだと実感。そしてそういう新鮮な気づきは、たいてい書きはじめてしばらく経ってからじゃないとやってこない。漕ぎ出した時よりも少し息が上がってきた時のほうが自転車と一体化して感じられるのと似ているかもしれない。

 

そんな風に文章を書くことについて考えが広がるのは、おそらく文庫で管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』を読んでいるせい。本を読むこと、本の内容、翻訳、言葉、世界の文化などについて書かれているけど、何よりその文体に惚れ惚れする。ニッチかもしれないけど、「跳びまくる、狩りまくる、切りまくる、くりまくる、蹴りまくる、凝りまくる。いやあ、痛快な本だ」とか、「こっちに知識がなさすぎるので、何を受け止めているのかと言われると心もとないが、心はもともとない」とかの言葉遊びが好きだ。新しい言葉(と、その連なり)が生まれる時の跳ねるような喜びが文章に満ちている、あるいは喜びそのものになっていると感じる。管さんが読むことの楽しみや文化の面白さを綴る時、文の意味以上に文体が説得力を生んでいて、それは祝祭的ですらある。

 

夜はプールへ。2000m泳いで、施設を出ると暗い。日中の陽気につられて薄着をしてきたら肌寒かったけれど、もう凍えるほどではなかった。

 

今日の新規陽性者数は8131人、現在の重症者数は63人、死者9人。

春の非現実[2022年3月8日(火)晴れ]

今週は比較的手がかかりそうな原稿の締め切りが2本あるのだけど、今日はそのどちらにも着手しない日。午前中に人の原稿を1本編集して、お昼ご飯はすっかりスタメン入りしたカレー納豆そば。そのあと、昨日の取材の文字起こし。15時からオンラインで打ち合わせをして、Zoomを切ってこまごまとしたメッセージの返信をしていたら17時だった。夕飯の買い物のために外へ出る。もう17時、という気持ちと、まだ外が明るい、という感慨が同時に湧く。週末の暖かさとは一転して、ダウンジャケットのファスナーを閉めていないと体が震えるようだけれど、週末に感じた空気のゆるみは変わらずそこにあった。3月だなあと思う。

 

スーパーへ行き、カオマンガイと麻婆豆腐の材料を買う。カレー納豆そばと同じく、現在の我が家のスタメンメニュー。毎週のように作っている気がするが、頭の中がいっぱいだと献立を考えるのが大変で、どうしても作り慣れたものに頼ってしまう。うっすらとうしろめたさを覚えながらも、「家の味」みたいなものはこうして作られていくのかもしれないと思う。誰かが好きだから(というだけ)ではなくて、手癖で繰り返されたものが定着していく。実家の食卓に頻繁に上ったぶりの照り焼きや丸茄子の味噌焼き、おでんなどもそうだったのかもしれない。他にもたくさんあったはずだけど、そのすべてを思い出すことはもうできない。

 

プールへ行こうと思っていたけど、食材をしまっていたらやる気が消えてしまった。そのためだけに電車に乗って行くのはやっぱり大変。冬の間ずっと工事をしていた徒歩圏内のプールの再開日がようやく決まり、来週にはそこで泳げる。なら今日無理して遠くまで行かなくてもいいや、と思ってしまった。

夕飯まで川上未映子『春のこわいもの』を読んで過ごす。タイトルに「こわいもの」と入っている通り、恐い感じの短編集。情念とも人智を超えたものともつかない、あるいはその両方でもあるようなこの恐さは川上未映子作品の真骨頂でもあって、短編集では一番好きかもしれない。

コロナのはじまりが描かれた連作で、だから春なのは偶然というか、「春だから」という理由だけで作品の季節が選ばれたわけではおそらくない。でも、自分の輪郭がわからなくなるような空気、夜のやわらかな暗さ、意識の混濁、時間の逆流、鮮やかな悪意みたいなものが連なって、春でしか成立しない作品になっている。

手紙、小説家、誹謗中傷など同じモチーフが別の作品に登場することはあるのだけど、それぞれ微妙に違っていて、同じ存在、同じできごととしては描かれていない。それでも小説家について書かれた文章を読めば、自然とその前に書かれていた小説家のことを思い出してしまうのであって、こういう連関のさせ方もあるのかと思った。「思い出すのに違う(かもしれない)」という描き方は蜃気楼のようで、やはり春めいているのだった。

コロナ自体は、舞台設定が2020年の春ということもあって「すべてをひっくり返してしまう何か」「徐々に日常に紛れ込んでくる不穏な何か」という以上の描かれ方はしていない。コロナとはなんなのか、という意味づけをしていないところがかえって新鮮だし、そこにこれが小説であることの必然性があるようにも思う。

そして、「すべてをひっくり返してしまうもの」ってマジックリアリズムの小説なんかでは見覚えがある気がするのだけど(読みながら若干村上春樹っぽいなと感じたのはそのせいなのかも)、それが現実に起こったことだというところに転倒がある。非現実と日常を融合させるマジックリアリズムはフィクションだからこそ成立するもののはずなのに、この短編集のマジックリアリズムっぽさは、世界中が体験した「現実」によってもたらされているのだ。

 

非現実的な現実というのはロシアのウクライナ侵攻も同じで、夕方に来ていたメールを返したあと少し調べる。今日のGoogleのトップページはさまざまな国の人の顔がずらっと並んだイラストで、戦争を受けてのリアクションなのかなと思っていたのだけど、ある時ふと国際女性デーだからだと気づいた。SNSを流れていったいくつかの記事を読んでみる。やがて炊飯器が壁の向こうで鳴り、白米が炊き上がる。パソコンを閉じキッチンへ向かう。

 

今日の新規陽性者数は8925人、現在の重症者数は67人、死者22人。

苦手なこと[2022年3月3日(木)晴れ]

今日は確定申告の日。色々と仕事の連絡はくるけれど、お昼にまとめて返すことに決めて粛々と収入やら経費やらを打ち込んでいく。書いている文章のリズムがわからなくなるから普段は作業中に音楽を聴くことはしないのだけど、淡々と数字を打ち込んだり計算したりする確定申告の時はそれができるので楽しい。ロバート・グラスパーの『Black Radio Ⅲ』、Moonchildの『Starfruit』、ずっと真夜中でいいのに。のプレイリストなどを聴きながら作業する。

 

ひと段落ついたところで、お昼ご飯はラーメン。昨日カオマンガイを食べた時の鶏肉の茹で汁を取っておいたので、これにしょうゆやら胡椒やらを足してスープにした。茹で汁を無駄にしなかったことの満足感は大きいのだけど、味はもうちょっと工夫がほしい感じ。鶏肉を茹でただけでは出汁としては弱いのらしい。次回はかつおとかにぼしとか、他の出汁をブレンドしてみようと思う。急いで作ったゆで卵は殻がうまく剥けず不恰好に。でも、炒めたもやしと豚こまをのせたのは正解だった。

 

食べたらすぐ確定申告に戻る。残りの経費の入力や支払い調書との照合をして、ひとまず完了。しかし確定申告って何度やってもよくわからないというか、「俺ルール」で記入している部分が少なからずあるような気がしている。今のところ税務署から何か言われたことはないのでこれで問題ないんだろうと思っているけど、大した収入があるわけでもない人間のこまごまとした支出入をいちいち見てないという説も根強い。そしてなんか大丈夫っぽいと一度思ってしまうと、どんどん雑に、うかつになっていってしまうのが人間の性……いやいや、と思って気を引き締めたり、やっぱり緩んだりする。

性格や話し方のせいなのかしっかりした人間のように見られがちなのだけど、事務作業が全般的にかなり苦手で、着手するまでに時間がかかってしまう。特に自分でも不思議なほど苦手なのが「郵便物を開封する」こと。確定申告の時期に仕事した会社から続々と届く支払い調書なども開けずにずっと積んであって、一昨日くらいに気合を入れてようやく開封した。

あと、何か書類を郵送するのもかなり苦手で遅れがち。こっちは「(プリンターがないので)ネットプリントに登録する」「コンビニで印刷する」「用紙に必要事項を記入する」「封筒に宛名を書いて書類を入れる、切手を貼る」「ポストに投函する」と、プロセスが多いのでなんとなく仕方ないかなと多めに見ている。一つの行程をクリアするとなんとなく満足してしまってその日はもう作業を進めないので、完了するまでに5日くらいかかる(しかも最初の工程に着手するまでも長い)。

確定申告も書類は作成し終えて、あとは印刷して郵送するだけなのだけど、間違いなくしばらくこのまま寝かせると思う。そして期限ギリギリになってようやく動き出すのだろう。

 

確定申告を終えてどっと疲れたので少し休憩。恋人と雑談しながら夕飯のメニューを相談したかったが、オンラインで誰かと話していた。以前買ったdancyu2022年1月号の『新しい家中華』をぱらぱらと眺める。ちょうどいいものがなくて、結局過去に何度か作っているなすと厚揚げと挽肉の炒め煮にしようと決めた。

時計を見ると4時55分。先月末に健康保険料やらを支払うのを忘れていて、そのためのお金をおろしたかったのだけど、今から行ったらぎりぎり手数料がかかってしまうだろう。こうしてどんどん遅れていく……。

 

スーパーに買い出しに行って、戻ってきて食材を冷蔵庫にしまう。もう一度家を出て、プールへ。今日は1800メートル。カウンターアプリに「1800」と入力すると、数字が「3800」に増える。泳いだ距離の累計がわかるとモチベーションになるかと思って数日前に入れてみたのだけど、いつまで続くだろうか。こういうアプリ、定期的に使ってみるのだけどだいたい習慣化しないまま飽きてしまう。

 

帰ってきてすぐ夕飯の支度。例のなすの炒め煮、もやしのみそ汁。食後はソファに放ってあったdancyuを手に取り、再びぱらぱら眺める。清澄白河にある中華料理店「O2」のオーナーシェフによる、ミントを使った麻婆豆腐がおいしそう。ひき肉ではなく鳥もも肉を1.5センチ角に切って食感を出すとあり、へえ、と思う。それから、でもこれ作ったらなす料理が続いちゃうな、とも思った。

 

今日の新規陽性者数は12251人、現在の重症者数は70人、死者28人。