ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

連続性[2022年4月1日(金)雨のち晴れ]

窓の外から静かな雨の音が聞こえていた。昨日の夜、部屋で本を読んでいた時にも同じ音を聞いたことを思い出す。音の連続性の中で、昨日と今日が、三月と四月が地続きであることを理解する。

高校二年生の時まで春になるというのがどういうことなのかよくわかっていなくて、なんとなく雪が溶けるとか(小さい頃は豪雪の富山県に住んでいた)、桜が咲くとか、記号的なものだけで春の訪れを認識していた。それが覆ったのが高二の時で、バス停から家へと帰る坂道をのぼりながら、日差しのあたたかさや空気のゆるみ、景色が色を取り戻して見えることといった複合的な知覚によって、「春の中にいる」とはじめて実感したのだった。季節の解像度がぐんと高まって、それまで見過ごしていたものが一気に見えるようになるのは衝撃的な体験で、今でもよく覚えている。

こうした解像度が上がる体験は社会人一年目の頃にもあった。通勤ラッシュの朝、慢性的な遅延によってのろのろとしか動かない中央線の車窓から四ツ谷の土手を眺めていたら、黄色や紫の花がたくさん咲いていた。よく見ると、土手を覆う雑草も一つ一つ個性がある。それまで春といえば桜でピンク、みたいに単純なイメージを抱いていたけど、本当はもっとたくさんの色やかたちが押し寄せるような季節だったのだ。動かなくなってしまった電車の中でその荒々しさを目の当たりにして、雷に打たれたようになったことを覚えている。

そうして、私の春への理解は段階的に変化してきた。もうこんな風に電撃的に、それ以前と以後で別物になるような瞬間は訪れないんじゃないかと思っているけど、だからといって春への理解が確立できたわけではない。近年は点的ではなく線的というか、鮮やかな瞬間ではなく時間の中で季節への理解を深めていると思う。それはたとえば満開の桜ではなく蕾から花、そして葉桜へというプロセスに着目することだったり、三寒四温の周期に合わせて服装を調節することだったりする。だから今朝の冷たい雨も、それ自体は冬に似ていても、連続性の中で捉えれば春らしさの一部なのだった。

 

食欲が湧かず、何も食べないでコーヒーだけ淹れて仕事をはじめる。短い原稿を一本。途中でお腹が空いてきたのでコロッケを食パンにのせて食べる。食パンもコロッケも消費期限を数日過ぎていたが、鼻を近づけていけると判断。食パンの残りは袋ごと冷凍する。これだけだと味気ないかなと思ってスライサーでキャベツを千切りにしてのせると、一気にそれっぽくなった。消費期限は切れているが一手間はかける。雑さと丁寧さの共存。

夕方まで引き続き作業。原稿を一本編集して、仕事の資料を読み進める。それからプールへ。いつもよりも早い時間だったからか人がほとんどおらず、貸切のような時間帯もあった。快適だけど大して泳ぎが上手なわけでもないので気恥ずかしくもある。私が泳いでいないと監視員の人が虚空を見つめることになってしまうのではないかと思って、インターバルを短めにするなど落ち着かなかった。1700メートル。

 

一度家に戻って夕飯をどうしようか考える。今日は珍しく恋人がいないので、自分のことだけを考えればいい。夕飯の用意の必要も、約束も予定もない夜が久しぶりな気がして、どう過ごしていいのか迷う。せっかくだから外食したいけど食べたいものが特に思い浮かばず、時間も持て余してしまったので銭湯へ行くことに。道中、思っていたよりも気温が低くて体が冷えた。熱い湯船が心地いい。その心地よさに身を委ねるうち、これはビールだな、ということは居酒屋だな、恋人と一緒だとあまり行かないしそういう意味でも良いな、と方向性が定まっていった。

下駄箱から靴を取り出し、振り返ったら知り合いの編集者のSさんがちょうど入るところだった。「よく来るんですか」「たまーにですねー」といった雑談や、今進めている仕事の話を少しして別れる。金曜の夜の街はにぎやか。まん防が解除されて10日ほどだけど、感染が再拡大しているとニュースで聞いた。

 

今日の新規陽性者数は7982人、現在の重症者数は30人、死者9人。

 

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4月10日に下北沢のBONUS TRACKで開催される「日記祭」に出展します。私はこれまでに作った日記ZINEに加えて、『四月の一週間とちょっと(仮)』という新作も持っていく予定。(仮)まで含めて正式タイトルです。ブース番号は7番。今日の日記や開催日直前までの日記をまとめようと思っているので、お時間のある人はぜひ! トークイベントもおもしろそうです。