ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

そのもの、今[2022年3月13日(日)晴れ]

昨日の夜は久しぶりに外でお酒を飲んだので、やっぱり途中で起きてしまった。酔い覚ましにお茶を飲みながら、リビングの電気をつけずにスマホYouTubeを見る。途中で目が覚めてしまった時、いつも少しだけこのまま起きていようかという考えが頭をよぎる。だけどそれでは昨日と今日の境目を見失うような居心地の悪さがあって、結局いつも二度寝する。自分にとって睡眠はただ疲れをとるというだけでなく、気持ちに区切りをつける意味合いが大きいのかもしれない。朝がきちんと新しいものであるために、もう数時間の眠りが必要というか。

 

そうして起きたのは9時で、午前中に少し仕事やメールの返信など。11時から髪を切りに行く。久しぶりにばっさり切って、5〜7センチほど短くなっただろうか。少し前、恋人が「トリートメントの時に櫛を使って髪に馴染ませるとしっかり行き渡ってサラサラになる」と教えてくれたのだけど、これを実践するようになってから髪が変に浮くように立ってしまうのが改善された気がしている。硬質で、おそらく生え方のせいで寝ずに浮いてしまう自分の髪があまり好きではなかったのだけど、少し良くなったように感じるのだ。それで、ある程度の長さがある状態ではなく、短くしたらどうなるのか試してみたくなったのだった。

オーダーを伝えたあと、なんとなく誰かと話す気分ではなくて目を閉じる。鋭いハサミや硬いバリカンがやわらかい髪を整えていく、その音を聞きながら座っていた。30分もすればできあがり。余分な毛を洗い流したりブローしたりを終えたあと、切ってくれた人が「春から独立することになりまして」と言う。「多分次回のカットはいるけど、それが最後になると思います」とのこと。

この街に引っ越してきてからはほぼずっとこの人にお願いしていたので、なんだかんだでもう6年近く切ってもらっていることになる。最近はなんとなくその方が落ち着いたので目を閉じて黙って切ってもらうことが多くて、自然に今日もそうしていたけど、それならもっと積極的に話せばよかったな、と反射的に思う。それから少し遅れて、本当にそうなのかな、と思う。目を閉じている時に話しかけずにいてくれたことも一つのコミュニケーションで、たくさん話したから親しいというわけでは、この場合はない気がする。直接あれこれ話をしたわけではなくても、その人が離れることをさみしいと思えるのは、長い期間お世話になったからなのだろう。歳月によってのみ培われる感情もある。変にセンチメンタルで増幅させず、それまでの関係に適切なボリュームで寂しがりたい。

髪型はオーダー通りで気に入っているけれど、それでもやはり多少は浮いてしまう。髪質は変えられないのでどうしようもないのだろう。でも、短期的にはトリートメントの時に櫛を使う前、中長期的には学生の頃と比べると、その「浮き」は抑えられてきている。学生の頃と比べて良くなったのは、おそらく髪が細くなったせい。それは加齢によるものなので、このままどんどん痩せ細っていったらと思うとちょっと悲しいけど、少なくとも今はいい感じ。勢いが翳ってちょうどよくなることもあるのだなと思う。

 

一度家に帰って、恋人が作った焼きうどんを食べる。食後、少しゆっくりしたら一緒に電車に乗って下北沢へ。reloadの「GREAT BOOKS」で植本一子さんの写真展を見る。恋人も植本さんの日記や写真が好きなので、紹介できてうれしかった。展示は壁に写真をまとめて貼っているスペースが好きだった。ぼーっと全体を俯瞰することも、一枚一枚のエピソードを想像することもできる。植本さんは文章では迷いや怒り、弱さと向き合って書いていることが多いように思うけど、写真にはそうした感情はあまり写っていなくて、喜びや心強さを感じる。でも、どちらにも同じ温度が流れていると思う。
ギャラリーを出て、向かいのお茶屋さんで恋人と一緒に抹茶ソフトを買う。食べながら、「写真も、ギャラリーの奥にあったミツさんの手紙もよかったね」と話しながら駅へ向かう。

 

恋人は帰宅、私は駅のスタバで友人のHにLINEを返す。Hとの手紙のようなLINEは一時期途絶えていたが最近また復活していて、そしてどんどん長文化していく。書いたあと、なんとなく文字数をカウントしたら2000字以上あった。

話題は先週の反戦街宣、『POSE』のキャンディというキャラの扱い、『春原さんのこと』など。『春原さんのこと』について、短歌が原作という話をする中で「短歌とか俳句とかって要するに省略の文学だから、何が描かれているかではなく何が省略されているかに注目し、その点をキープしながら映画化することで原作を尊重した作品にできるのかなと思った」と書く。自分がそんな風に思っていたことに、書きながらはじめて気づいた。書くことは考えていることの出力ではなくて、それ自体が運動なのだと実感。そしてそういう新鮮な気づきは、たいてい書きはじめてしばらく経ってからじゃないとやってこない。漕ぎ出した時よりも少し息が上がってきた時のほうが自転車と一体化して感じられるのと似ているかもしれない。

 

そんな風に文章を書くことについて考えが広がるのは、おそらく文庫で管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』を読んでいるせい。本を読むこと、本の内容、翻訳、言葉、世界の文化などについて書かれているけど、何よりその文体に惚れ惚れする。ニッチかもしれないけど、「跳びまくる、狩りまくる、切りまくる、くりまくる、蹴りまくる、凝りまくる。いやあ、痛快な本だ」とか、「こっちに知識がなさすぎるので、何を受け止めているのかと言われると心もとないが、心はもともとない」とかの言葉遊びが好きだ。新しい言葉(と、その連なり)が生まれる時の跳ねるような喜びが文章に満ちている、あるいは喜びそのものになっていると感じる。管さんが読むことの楽しみや文化の面白さを綴る時、文の意味以上に文体が説得力を生んでいて、それは祝祭的ですらある。

 

夜はプールへ。2000m泳いで、施設を出ると暗い。日中の陽気につられて薄着をしてきたら肌寒かったけれど、もう凍えるほどではなかった。

 

今日の新規陽性者数は8131人、現在の重症者数は63人、死者9人。