ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

春の非現実[2022年3月8日(火)晴れ]

今週は比較的手がかかりそうな原稿の締め切りが2本あるのだけど、今日はそのどちらにも着手しない日。午前中に人の原稿を1本編集して、お昼ご飯はすっかりスタメン入りしたカレー納豆そば。そのあと、昨日の取材の文字起こし。15時からオンラインで打ち合わせをして、Zoomを切ってこまごまとしたメッセージの返信をしていたら17時だった。夕飯の買い物のために外へ出る。もう17時、という気持ちと、まだ外が明るい、という感慨が同時に湧く。週末の暖かさとは一転して、ダウンジャケットのファスナーを閉めていないと体が震えるようだけれど、週末に感じた空気のゆるみは変わらずそこにあった。3月だなあと思う。

 

スーパーへ行き、カオマンガイと麻婆豆腐の材料を買う。カレー納豆そばと同じく、現在の我が家のスタメンメニュー。毎週のように作っている気がするが、頭の中がいっぱいだと献立を考えるのが大変で、どうしても作り慣れたものに頼ってしまう。うっすらとうしろめたさを覚えながらも、「家の味」みたいなものはこうして作られていくのかもしれないと思う。誰かが好きだから(というだけ)ではなくて、手癖で繰り返されたものが定着していく。実家の食卓に頻繁に上ったぶりの照り焼きや丸茄子の味噌焼き、おでんなどもそうだったのかもしれない。他にもたくさんあったはずだけど、そのすべてを思い出すことはもうできない。

 

プールへ行こうと思っていたけど、食材をしまっていたらやる気が消えてしまった。そのためだけに電車に乗って行くのはやっぱり大変。冬の間ずっと工事をしていた徒歩圏内のプールの再開日がようやく決まり、来週にはそこで泳げる。なら今日無理して遠くまで行かなくてもいいや、と思ってしまった。

夕飯まで川上未映子『春のこわいもの』を読んで過ごす。タイトルに「こわいもの」と入っている通り、恐い感じの短編集。情念とも人智を超えたものともつかない、あるいはその両方でもあるようなこの恐さは川上未映子作品の真骨頂でもあって、短編集では一番好きかもしれない。

コロナのはじまりが描かれた連作で、だから春なのは偶然というか、「春だから」という理由だけで作品の季節が選ばれたわけではおそらくない。でも、自分の輪郭がわからなくなるような空気、夜のやわらかな暗さ、意識の混濁、時間の逆流、鮮やかな悪意みたいなものが連なって、春でしか成立しない作品になっている。

手紙、小説家、誹謗中傷など同じモチーフが別の作品に登場することはあるのだけど、それぞれ微妙に違っていて、同じ存在、同じできごととしては描かれていない。それでも小説家について書かれた文章を読めば、自然とその前に書かれていた小説家のことを思い出してしまうのであって、こういう連関のさせ方もあるのかと思った。「思い出すのに違う(かもしれない)」という描き方は蜃気楼のようで、やはり春めいているのだった。

コロナ自体は、舞台設定が2020年の春ということもあって「すべてをひっくり返してしまう何か」「徐々に日常に紛れ込んでくる不穏な何か」という以上の描かれ方はしていない。コロナとはなんなのか、という意味づけをしていないところがかえって新鮮だし、そこにこれが小説であることの必然性があるようにも思う。

そして、「すべてをひっくり返してしまうもの」ってマジックリアリズムの小説なんかでは見覚えがある気がするのだけど(読みながら若干村上春樹っぽいなと感じたのはそのせいなのかも)、それが現実に起こったことだというところに転倒がある。非現実と日常を融合させるマジックリアリズムはフィクションだからこそ成立するもののはずなのに、この短編集のマジックリアリズムっぽさは、世界中が体験した「現実」によってもたらされているのだ。

 

非現実的な現実というのはロシアのウクライナ侵攻も同じで、夕方に来ていたメールを返したあと少し調べる。今日のGoogleのトップページはさまざまな国の人の顔がずらっと並んだイラストで、戦争を受けてのリアクションなのかなと思っていたのだけど、ある時ふと国際女性デーだからだと気づいた。SNSを流れていったいくつかの記事を読んでみる。やがて炊飯器が壁の向こうで鳴り、白米が炊き上がる。パソコンを閉じキッチンへ向かう。

 

今日の新規陽性者数は8925人、現在の重症者数は67人、死者22人。