ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

感情に飲み込まれずに[2022年2月25日(金)晴れ]

首の後ろが燃えているようで目が覚める。パーカーを着て寝たら、フードの裏に熱がこもってじんましんが出たようだった。首元や裾からあおいで空気を入れ替えようとしてみるけれど、なかなか良くならない。どうしようもなくて、寝室を抜けて廊下でパーカーを脱ぎ捨てる。暗くて冷たい廊下がすぐに体温を奪い、肌の上で星がはじけるような痒みも少しずつ収まっていった。熱が引いていくのに安心しながら、トイレに入る。蛍光灯がまぶしい。

 

目が冴えてしまって、ベッドに戻ってからスマホを見る。今は3時半過ぎ。Twitterを開くと、いつもは見かけないような人たちのつぶやきが流れていく。断続的に戦争の話も。昨日の日中にも調べたけれど、たどってまた調べてしまう。チェルノブイリ原発をロシアが占拠した、という報道も。

ニュースなどでよく聞く「保たれてきた国際秩序が壊れようとしている」という言葉を思い出して、気が重くなる。武力で他の国を侵略できる、それが黙認されてしまえば、ロシアと同様の行動をとる国も出てくる。日常を支えていたルールが書き換えられてしまう。その重大さに言葉を失いながら、たとえば2021年のアフガニスタン紛争の時と感じ方が大きく違うことに微妙な居心地の悪さを覚える。同じように人が人を攻撃して、血が流れ続けていたのに。

 

メディアの報道、ウクライナにいる人が撮影した映像、日本など他の国にいる人の心境の吐露、まったく関係のない話。それらがないまぜになってタイムラインを流れていく。情報を知ろうとしていても、関係ないもので気を紛らわそうとしても吐き気がした。眠ろうと何度か目を閉じてみたけれど胸がざわついて落ち着かず、またスマホを眺めるのを繰り返してしまう。気づいたら日が昇っていた。今日をちゃんと過ごすためにもう少し寝ないとと思って、ようやく目を閉じてうとうとする。30分くらいしてアラームが鳴った時にはかえって体が重くなっていた。勢いをつけて体を起こし、窓際で太陽を直視して無理やり目を覚まそうとする。シャワーを浴びてコーヒーを淹れ、仕事に取り掛かる。必須の作業が終わったら確定申告をしようと思っていたけど、とても無理だなと思った。数字の世界に没入するのはいい気分転換になりそうだったけど、自分の去年の稼ぎや今年払うことになる税金について知ることになるのは考えただけでうんざりした。

 

こんな日に限って、と言うのか、眠りの質を高めるプロダクトを紹介する短い原稿の締め切りが迫っている。スリープマスクの使い心地を試すためにベッドに横になる。気持ちいい。このまま意識を失いたい。

 

お昼ご飯は恋人と一緒にモスバーガーへ。玄関の鉄製のドアは毎年冬になると結露がひどくて、今日も内鍵を開ける時に手が濡れる。立て付けが悪くなってきているドアをぐっと力を込めて押すと、ぬるんだ空気が手に触れた。もっと寒いと思っていた。今年に入ってから一番春に近い日だ、と思う。

靴を履く恋人を待ちながら、隣のアパートとの間に広がる快晴を見上げる。雲ひとつない澄んだ静かな青空が、爆撃の空とつながっていることが脳裏をよぎる。12時過ぎのモスバーガーは閑散としていた。恋人は午後から出社だそうなので駅へ、私は期間限定のピスタチオシェイクを飲みながら家へ。

 

仕事が手につかなくて、SNSをまた見てしまう。同じように「仕事が手に付かない」とつぶやいている方がちらほら。現地にいる人のツイートが流れてきて、「(徴兵のために)18歳から60歳の男性は出国禁止になった」という情報に戦慄する。

危機の中心にいる人たちの感情が、ゼロ距離でなだれ込んできてしまう。これじゃどんな人でも心がもたないよ、と思った。感情に火をつけるような訴求力のある語りや映像ほど拡散されやすいし、拡散されていることそれ自体に神経を昂らせる作用があるし。

みんなが興奮している。中心地と私の生活が離れた場所にあることを、あえて意識してみる。つながっているのは確かだけど、SNSで見ているほど近くもないはずだ。それは他人事だと、対岸の火事なのだとその場凌ぎの安心を得るためじゃなくて、冷静になるためだ。

 

ウルストンクラフトも、ケアの倫理論者も、「情操」や「感情」(sensibility/emotion)という概念には極めて慎重である。ウルストンクラフトは、「機械的で本能的なセンセーション」と呼ぶ感情を人間が備えるべき感情と混同しないよう用心すべきだと強調している。(中略)「センセーション」は「血の巡りを速め」「心臓を、同情的な情動で鼓動させる」だけの感情であると説明し、「理性が深化させ、人間性(ヒューマニティ)の感情と正しく名づけている情動」とは区別すべきだと強調する。

小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』

 

最近読んだベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳』では、「道徳」とはあたたかくアツいものだと思われがちだが、本来「つめたい」ものであるべきだ、という論が繰り返し強調されていた。ここでは、私たちの心の中に発生する「アツい」道徳的な感情は「オートモードの「直感」に属する」ものであり、「そうした感情に基づいた道徳とは身内びいきや不公正さを伴う」とされる。その上で、「世の中をより良くするためには直感ではなくマニュアルモードの「理性」に基づいた判断が必要とされる」としている。*1

 

寄り添うということを、分解して考える必要がある。SNSに投稿されるセンセーショナルな語りは私たちの直感を刺激して、理性的でいられなくさせる。その刺激に突き動かされるだけでは不十分で、間違えるリスクを(冷静な時よりもたくさん)孕んでいるし、情動の熱が引いてしまえば関心を失うかもしれない。何より、その前に心が壊れてしまうかもしれない。そうなったら、何か支援をしたり考えたりすることも難しくなってしまうはず。

悲惨な映像が映し出す光景は現実に起こっていることだけど、私の身に直接降りかかっていることじゃない。その距離を適切に、具体的に思い浮かべてみる。考えるのはそれからでいいし、やばいかも、と思った時に一人一人の命や人生が危機にさらされている瞬間を見ないようにすることは、問題から目を逸らすことを必ずしも意味しない。感情に飲み込まれずに心を使う方法は絶対にある。大丈夫。

 

夕方からの予定がキャンセルになり、プールで1700メートル泳ぐ。帰ってきて、水曜日に作っておいた角煮の残りを恋人と食べる。夜、少し時間があったので、2人で街をうろついた。近所の店で、はじめて見かけたヴィーガンのサワーグミを買ってみる。恐竜のかたちのカラフルなグミ。

 

今日の新規陽性者数は11125人、現在の重症者数は79人、死者23人。

*1:『21世紀の道徳』では「ケアや共感をふくめた道徳的な感情とは所詮はオートモードの「直感」に属する」と書かれている。ここでいうケアはウルストンクラフトの「センセーション」に基づくもののことで、「人間性(ヒューマニティ)の感情と正しく名づけている情動」は、マニュアルモードの「理性」に近いものと言える。実際、「共感やケアの営みを複雑なものとして描けば描くほど、それは理性的な営みに近づいてしまう」とある。この一文は、共感やケアに基づくタイプの倫理学は「理性や原則という発想を放棄して感情や具体性にこだわる」ものという文脈で書かれたものなので否定的なニュアンスを帯びているけれど……。

フィーヴァー[2022年2月20日(日)晴れ]

2月がもう20日も経ったことにおののき、あと一週間ほどで2022年の6分の1が終わることにおののく。2月は28日までしかないから、ジャンプするみたいに3月はいきなりやってくるだろう。怖いような、待ち遠しいような気持ちでいる。

金曜日の夜から首のリンパ節が腫れていた。発熱や風邪症状はないのだけど、体がだるい。昨日はユージーン・スタジオ展に行った以外はゆっくり過ごしたから、少し回復した気がしていたのだけど、起きた時の体調は決して良いとは言えなかった。特に左側のリンパ節が熱を持っている気がする。冷えピタを半分に切って貼った。

恋人が焼いてくれたチーズトーストを食べ、そのあとすぐベッドに戻った。今日の作業ははたくさん手を動かすものではなくて、ぐるぐると考えて糸口を見つけるようなもの。だから横になりながらでもできると思ったのだけど、案の定すぐに寝てしまう。起きたら正午近かった。

体調が悪いだけではなくて、精神的にも元気がない。SNSを見ていたらバリバリ仕事している人の投稿が流れてきて落ち込む。その合間に低気圧で死にそうになっている人のつぶやきが流れてきて、私の不調も気圧のせいかもしれないと思う。真偽は不明だけど、そういうことにしようと思う。体のだるさに苛立ったり進まない仕事に落ち込みそうになったりするたび、これは気圧のせいだから、と言い聞かせる。何度か繰り返していたら、だんだん考えずにいられるようになった。スイッチを切ったみたいに、痛みを感じる回路に電流が走らなくなった。

 

ずっと寝ている私を恋人も心配してくれている。「そろそろお昼食べようかな」「お腹空いた?」「んー、空いたってわけではないけど……」ぼんやりした頭で中途半端な受け答えをしていると、「食べないと次に進めない?」と、こちらの考えを正確に汲み取ってくる。私の習慣を把握している人との会話。「食事でモードを切り替えている」と具体的に言ったことはなかった気がするけど、長く一緒に暮らしていればなんとなく分かるのだろう。言い当てられる心地よさを反芻しながら、昨日の鍋の残りにうどんを入れて食べる。

 

気分を切り替え、ようやくパソコンを開いて少し作業。数時間仕事したら『POSE』を見る。今日はシーズン2のエピソード9と最終話。今月末の配信終了までに見切れるだろうかなんて思っていたけど、もう一周できるくらいのペースで見終えてしまった。

ボールやコミュニティの中の話だったシーズン1に対し、シーズン2ではキャラクター達が社会に出ていく。理解のない社会と対峙するため、コミュニティ間の結束はさらに強い。1よりさらにドラマチックで面白く、夢中になって見た。エピソード9は主人公たちが猛暑のニューヨークを離れてビーチへ出かける、ボーナスステージのような楽しい回。「免許証は雑貨屋で買った」というエレクトラのひどい運転でビーチを目指すシーンが最高だった。白人たちが鳴らすクラクションは、大音量のカーステに合わせて歌う彼女たちの耳には届かない。

その幸せな瞬間から季節がめぐった最終話は暗いシーンからはじまるのだけど、最後には輝く瞬間があった。影が深いほど、スポットライトは眩しさを増す。フロアで光を集める数分間に、本物のライフがある。

あと、シーズン2では(ゲイ)男性と(トランス)女性たちの間に微妙な溝が描かれていて、「LGBTQ+」で一括りにしない描き方がリアルでハードだなあと思っていたのだけど、それを「他者の靴を履く」ような演出で乗り越えようとするのもよかった。

 

夕飯は何かを作る気力がなく、脂っこいものが食べたくて宅配ピザを頼んだ。「今日はこんなだけど、普段の自分はけっこうちゃんと自炊してるし……」と、自分を甘やかす。オーダーしたチョレギサラダに水菜を混ぜて笠増しした。リンパはまだ腫れている。

 

今日の新規陽性者数は12935人、現在の重症者数は87人、死者17人。

泳ぎ方[2022年2月15日(火)晴れ]

眠りが深くて起きられず、ベッドから出たのは9時。肉体的には疲れていなかったのだけど、やっぱり緊張していたんだなあと、昨晩のことを思い出す。1年ほど前にゲストで出たポッドキャスト「戸田真琴と飯田エリカの保健室」の公開収録イベントがあって、それに呼んでもらったのだった。

戸田さんも飯田さんもこうしたイベントには慣れていてトークも超安定しているので、私は大船に乗った気持ちで特に不安はなかった。立場的にも、運良くでかいクルーズ船に乗り込めた一般人みたいな感じ……しかし不安はなくても人前に出るのはそれなりに緊張する。しかも場所が阿佐ヶ谷ロフトA。イベントが終わって、あの長尾謙一郎さんと大橋裕之さんによる壁画の前でみんなで撮影をする時、スタッフで普段は編集者やライターをしている長谷川さんが「いっぱしのライターになったみたいだ」と言っていて、本当にそうだなと思った。

去年ラジオに出たこともそうだけど、自分には分不相応なんじゃないかと思うような案件が時々舞い込んでくる。しかしまあ、こういう「自分なんかがいいのかな?」と思うような機会を(見た目だけでも)胸を張って引き受けることが大切なのだろう。こういう性格なので、私はいつでも「自分なんかが……」と不安になると思う。だけど動き続けていれば、「不安にならずにすむこと」も増えていくのかもしれない。

 

寝過ごしてしまったので、シャワーを浴びずに仕事をはじめる。朝起きれなかった日はそうやって時間の遅れを取り戻そうとするのだけど、そうするとたいていうまく頭が働かない。今朝も(浴びた方がいいんだろうな)と思いながら、なんとなくいけそうな気がしてスキップして、案の定全然原稿が進まなかった。ルーティンが自分にとって大切なのをよくわかっているはずなのに、焦るとみずから壊してしまう。

 

お昼はSEIYUのご飯にかけて食べるユッケジャンでさっと済ます。そのあとは仕事をして、夕方からプールへ。1800メートル泳ぐ。ただ、今回は長く泳ぐだけではなく、時々50メートルや100メートルを全力で泳ぐのも取り入れてみた。運動して汗をかくと背中がちくちくとかゆくなるのだけど、プールだと同時に水で冷やされるからあまりひどくならない。最初は全力で泳いだら症状がどうなるか、試しにやってみただけだったのだけど、息が上がる感覚が思った以上に気持ちよかった。それに、泳ぎ方の選択肢が広がるのは良いことのように思う。飽きずに続けられる。ペースの調整だけじゃなくて、新しい泳ぎ方も習得できたらもっと良いのだろうけど。平泳ぎや背泳ぎ、できる人に教えてほしいなと思いながらも思っているだけだ。

帰ってきてカオマンガイを作る。茹でた直後の鶏胸肉はしっとりしていておいしかった。鶏肉の茹で汁で作ったスープが好きだなあと思う。おいしいし、なんか得した気分になるので。

 

夜はNetflixで『POSE』。80〜90年代のニューヨークを舞台にボール・カルチャーを通じて当時のLGBTQコミュニティを描いたドラマ。製作総指揮は『ノーマル・ハート』『ボーイズ・イン・ザ・バンド』の(『Glee』の、とかのほうがわかりやすいか)ライアン・マーフィー。「ハリウッドを目指して活動するトランスジェンダーの俳優たちに機会を提供したい」という彼の意志があり、総勢50名以上のトランスジェンダー俳優を起用している。

2月28日でNetflixでの配信が終了してしまうそうで、2話まで見て視聴が止まっていたのを続きからまた見はじめた。今回改めて見ていると、なんで途中でやめてしまったのかわからないほど夢中になっている。ボールのきらびやかな世界も、悲しみの影が濃い一人ひとりの人生にも心を動かされる。ブランカの気高さはもちろん、エレクトラというコミュニティの絶対女王的なキャラクターの存在感が群を抜いている。衣装も言動も派手なエレクトラは、物語の中盤で「完璧な身体」を手に入れるために性別適合手術を受ける。しかし、そのことで彼女はパトロンに見放されてしまう。

性別適合手術を受けたらただの女と変わらない」として、価値を見出さなくなる男たちがいる。それは自分の望む体を手に入れたいという女性たちの願いとしばしば衝突する。エンジェルというトランス女性のキャラクターが恋愛をするスタンについても、「シーメール」のポルノに興奮した過去が描かれる。

スタンはエンジェルを性的な対象としてだけではなく、人として尊重しようとしているところが見える(結果的にうまくはいかないのだけど)から、エレクトラのケースとは少し違う。でも、そのままならない欲望がスタンに背負わされていることで、より苦く複雑な気持ちになってしまうというか……。

しかもそうやってパトロンに見放されることは、金銭的なサポートが得られなくなることを意味する。実際、エレクトラは豪華な生活から坂道を転がり落ちるようにホームレスになる。エレクトラに限らず、登場人物たちは一歩道を踏み外せば体やドラッグを売って稼ぐ生活に逆戻りしてしまう。そのことは、彼女ら彼らが置かれている状況の厳しさと、ハウスと呼ばれるコミュニティのつながりの大切さを同時に照らし出す。

今日はシーズン1をラストまで。クライマックスはもはや少年ジャンプか? と思うような胸熱展開もあり、結末はなんとなく予想できても手に汗握った。明日から見るシーズン2も楽しみ。そしてドラマはシーズン3まで製作されているのだけど、ネトフリで配信の望みはほぼ絶たれたわけで、日本で見られる日は来るのだろうか……なんとなく、製作元のFOXが自社の系列のサブスクで配信するため引き上げたのではないかと踏んでいるけれど。しかしネトフリはライアン・マーフィーの作品を多く配信してるので、それらと一緒に見られることは大きなメリットだったのではないかと思うので、やはり残念。

 

今日の新規陽性者数は15525人、現在の重症者数は77人、死者16人。

閾値[2022年2月10日(木)雨や雪]

朝、電気ケトルで湯を沸かそうとして何度もブレーカーが落ちる。この部屋は駅から近いし間取りも気に入っているけど、冬によくブレーカーが落ちることが難点。もう5年以上住んでいるのでなんとなく一度に使える電力は把握していて、ケトルやレンジを使うときはいつも気をつけているのだけど、今日はそれでもダメ。マンション全体の電力消費が増えているからなのだろうか。雪の予報だから、みんな暖房をつけて部屋にこもっているのかもしれなかった。

 

電力の消費量を減らそうと、自室ではなくリビングで恋人と一緒に作業する。明日が締め切りの原稿を書いて、そのあともう少し先の締め切りの原稿をラフに書く。お昼ご飯はねぎ、ほうれん草、ツナのうどん。恋人が転職してリモートワークが増えて以来、お昼ご飯がどんどんちゃんとしたものになっていっている。

今でもレトルトご飯にいなばのタイカレーとか、魚肉ソーセージだけとかのこともあるから、正確には「そういう日もある」というくらいだけど、少なくとも以前はもっと雑だった。昼から包丁を使ったり、2種類以上の野菜を合わせたりすることは滅多になかった。今ではなんなら付け合わせにスープとサラダまで用意していることすらあり、そういうときは(ランチセットかよ)と内心自分につっこんでいる。

 

食べたあとは夕方までまた仕事。途中で少しサボって、YouTubeBTSの動画などを見る。先月から、汗をかくと背中を無数の針でいっせいにつつかれたような痒みが走るようになった。同様の症状はこれまでにもあったけど、もはや別物と言いたいくらいに強くなっていて、症状が出るとじっとしていられない。幸いシャツの裾をぱたぱたとあおいで背中の熱を逃してやればすぐに収まるから生活に支障はないのだけど、体を動かすときにはいつ症状が出るか無意識に気にしてしまっていて、地味にストレスなのだった。

少し調べると、コリン性じんましんというものらしい。この病名を検索すると「BTSのメンバーのVもそうである」という記事がたくさんヒットして、そうなんだ、と思ったのだった。BTS、曲や活動はなんとなく追っているもののメンバーまでは認識できていなかった。ひとまずVがどの人かはわかるようになった。

 

出かけなくていいようにいろいろと食べ物を買い込んでいたはずが、夕方から整骨院なのを忘れていたのだった。みぞれのようなぐしゃぐしゃとした雪が、積もるというより溜まっていて、足元も悪いし、メガネが曇って視界も悪い。メレルのモアブ2を履いていったら、整骨院の人に「トレッキングとかされるんですか」と聞かれ、なんとなくあいまいな返事をする。

施術の途中、状態確認のため肩を大きくまわす。整骨院の人は私の肩甲骨のあたりに手を当てている。

 

「どうですか?」

「少しまわしづらいんですけど、昨日久しぶりにプールに行ったのでその筋肉痛があるのかもしれません」

「あ、やっぱり。やけに緊張が強いなと思ったんですよ」

 

筋肉を使ったことで緊張しているのであれば問題ないですからね、と言って、整骨院の人は引き続き施術してくれる。こんなふうに、この人たちは少し触っただけで体の持ち主である私と同じかそれ以上の情報を受け取っていて、そのことに毎回驚く。この人たちの受け取る力もすごいし、それだけ雄弁に何かを語っているらしい私の体もすごい、気がする。

家の前の坂道で滑らないように気をつけながら帰った。足の筋肉の感じを意識しながら。

 

恋人はまだ仕事をしていて、モニターを真剣に見つめている。後ろからちょっかいを出して、少し話す。ディスプレイの右下を指さして「うやゆき、だって。へー」と言うので見たら「雨や雪」だった。「あめやゆき、だよ」と返すと声をあげて笑う。淡雪とか霧雨みたいな言葉だと思ったのらしい。

 

今日の新規陽性者数は18891人、現在の重症者数は64人、死者13人。

フィックス・ユー[2022年2月6日(日)晴れ]

最近なんだか元気が出ない。毎日それなりにやりがいも楽しいこともあるはずなのに、ぼーっとしているとそのすべてが遠くなっていき、辛いことしかないように思えてくる。こんな平坦な実感の言葉も月曜日の朝に浮かんできたもので、日記の時制である日曜日はただ漠然と苦しかった。気持ちを言葉にして、手に取れるものにできるまではとても摩耗する。汚れた空気の中にいるようだと感じる。

 

6時に目が覚めたのだけどまだ寝ていたくて、次にはっと目が覚めたら9時だった。今日は7時に起きて、朝から文字起こしをやる予定だった。本当なら今頃終わっていただろうかと違う世界線に思いを馳せながら、プランBを考える。今日は暇なんだし、そんなに朝早くからやる必要なんてなかったのだという思いが胸に広がりはじめる。負け惜しみや正当化ではなくて、本当にそう感じている。どうしてこんなものにせき立てられていたんだろうと、動かなくなった強迫観念を前に思う。動いている時にはおそろしくて直視できなかった大きな機械が、停止したら案外造りがチープだった時みたいに冷静。

 

午前中はゆっくりしようと思って、恋人と一緒にパン屋へ。このパン屋は一時期ラインナップを減らしていたのだけど、久しぶりに来てみたら棚に所狭しとパンが並んでいて、見切り品コーナーも充実(これは開店してすぐだからだろう)。目移りしながら甘いパンを二つ、おかず系のパンを一つ選んだ。それから、向かいにあるスーパーで昼と夜の買い出し。帰ってきてコーヒーを淹れて、恋人と一緒に食べた。

 

コーヒーの残りを啜りながら文字起こし。デスクに座ってちゃんとやる気力がなかったので、ベッドで壁にもたれて作業する。終わってから、2日分の日記を書く。しんどい時はつらいことがあろうとなかろうと過去を思い出して言葉にするのがつらく、薄目で駆けぬけるようにして書くことになる。その時に省略されるのはだいたい心のことだ。何時にどこに行った、何をしたとかの動作は比較的つらくならないので、骨組みだけ立ち上げるみたいにそれらを書いてお茶を濁す。でも、昨日見た『ブロークバック・マウンテン』(2005)のことは1000字くらい書くことになった。北丸雄二さんの『愛と差別と友情とLGBTQ+』を読んでから自分のゲイとしてのアイデンティティに火がついた感じがあり、その流れでゲイ映画をいろいろ見たり、あとで見るためのリストに書き出したりしている。

 

恋人が作ってくれたパスタを食べて、昼過ぎから映画。今日は『ゴッズ・オウン・カントリー』(2017)。イギリス・ヨークシャーにある家族経営の小さな牧場で働く青年ジョニーは、連日の吐くほどの飲酒で孤独を紛らわせながら暮らしていた。ある日ジョニーは牛の競売で出会った男と視線を交わしあい、行きずりのセックスに及ぶ。男の尻に唾を吐きかけ、独りよがりに欲望を解消し、帰ってくると一頭の牛が死産していた。彼が出産に立ち会えなかったことで、助かったはずの牛が命を落としたのだった。

その牧場に、ルーマニア移民のゲオルゲが羊の出産シーズンの手伝いのためにやってくる。最初はゲオルゲのことを(悪意を込めて)「ジプシー」と呼んでいたジョニーだが、ゲオルゲの羊たちへのやさしい眼差しに、これまで感じたことのない気持ちを抱くようになっていく。

孤独な男たち、季節労働、羊。明確に『ブロークバック・マウンテン』を下敷きにしている(だから私も続けて見たのだけど)。特に冒頭、ジョニーがセックスをしたあとで牛が死産するシーンは、『ブロークバック・マウンテン』でイニスとジャックがはじめてセックスをした夜に羊が狼にやられて死ぬこととまったく同じで、オマージュであることをみずからに刻印するようだ。

ただ、『ブロークバック・マウンテン』がどの道を行っても袋小路から出られなかった途絶の物語だったのに対し、『ゴッズ・オウン・カントリー』は「修復」を描く。

ブロークバック・マウンテン』で羊たちは死に、嵐に惑う存在だったが、『ゴッズ・オウン・カントリー』の二人は羊たちの出産を手伝う。仮死状態で生まれてきた羊が、ゲオルゲの優しい手つきによって息を吹き返すシーンもある。悲劇的な軌道はそうして書き換えられる。

ゲオルゲの優しさはジョニーの魂も癒やしていく。まだ関係がぎこちない時、二人が牧場の壊れた石垣を積み直す場面がある。作業中、ジョニーが手のひらを怪我するのだけど、ゲオルゲは「感染症になるぞ」と言って、自分の唾で汚れを洗おうとする。傷を治そうとする。その時、ジョニーにとってはセックスで自分が気持ちよくなるため以外の意味がなかった「唾を吐く」という行為に、新しい意味が付与される。孤独な袋小路が書き換えられていく。

さらに物語はクライマックスに向けて、いくつもの修復を、あるいはその予感を描いていく。その積み重ねは、破滅的な恋愛ばかりが描かれてきたゲイ映画の歴史そのものを修復するかのようだった。

移民労働者のゲオルゲが酒場であからさまな排斥を受けたり、ブレグジット時代の問題も織り込まれていて、決して未来が明るいとは言えない。でも、ぼろぼろの道の中にも希望があると思えた。

 

夜は夕飯を作る気分になれず、うだうだとしていると恋人が作ると言ってくれた。献立は考えていたので、ソファに寝そべりながら工程を指示。今日は昼も夜も恋人がご飯を作ってくれた。

 

今日の新規陽性者数は17526人、現在の重症者数は45人、死者5人。

天秤[2022年2月2日(水)晴れ]

凪のように仕事がない一日。予定していた取材のスケジュールがいくつか変更になったことや、1月末締め切りの原稿を無事に出し終えたことで、今週はけっこう余裕がありそう。午前中に短い原稿だけ片付ける。

 

お昼を食べて、それから『ノーマル・ハート』。1980年代、HIVが流行しはじめたニューヨークのゲイコミュニティを描いた物語。北丸雄二さんの『愛と差別と友情とLGBTQ+』を読んで見なければと思っていた作品で、最近加入したU-NEXTで独占配信していた。

当時はHIVへの有効な対策が確立されておらず、偏見も今よりずっと根強い。友人や恋人が次々発症していく中で、政府や公的機関からまともな支援も受けられず、「HIVはゲイを浄化する」と書いたカードを掲げたアンチゲイのデモ隊に「帰れ」コールを浴びせられたりする。その間にも病気は進行して、大切な人たちが弱っていく。

ジャーナリストのネッドはあの手この手を使って支援や理解を得ようと奔走するのだけど、強硬手段や独断的な行動も多くて仲間たちから疎まれている。仲間たちはゲイであることを隠して生きているから、波風を立てるネッドのやり方が合わない。みんながみんなネッドのようなタフさを持ち合わせているわけではないし*1、ゲイであることを隠して思うように動けないのは(この時代であればなおのこと)仕方ないと思う。私自身もバランサー寄りだから、ネッドとはそりが合わないだろうとも。

物語はネッド(原作者であり、アクティビストのラリー・クレイマーがモデル)を主役に進んでいくけれど、誰のやり方が正しい、という描かれ方はしない。というか、そういう一面的な描き方は「できない」というほうが正しいのかもしれない。世間からの無関心や反発が強すぎて、どのやり方でもまともな活路を見いだせないから。それぐらい出口がない時代だった。

 

発症したゲイの患者を診る女性医師・エマの立場も切ない。冒頭、エマがゲイたちの集会に出向いて「命のためにセックスを控えて」と伝えるシーンがある。自分たちのセックスや愛のために戦ってきたゲイたちからすれば到底受け入れられず、彼女の要求は笑って退けられる。でも、エマ自身がポリオウイルスのサバイバーで、病気で命を落とす/体の自由が効かなくなる怖さを身をもって知っている。結局その場ではまったく相手にされず、エマは車椅子を操作して会場を後にする。

 

「最悪なのはセックスを恐れて自尊心まで失うことだ」。冒頭のこのシーンでは、エマの訴えにゲイの一人がそう返す。ウイルスによって命を落とすかもしれなくても、ゲイたちはセックスをやめなかった。それは彼らが「ただ単に淫らだった」からではない。「愛」のような、異性愛者にとって理解しやすいもののためでもない。淫らで、奔放であることが自由と尊厳に結びついていて、「ライフ」の一部を構成していたからなのだった。

このやりとりでは、どうしても現在のコロナ禍のことが脳裏をよぎる。安全であること、命を落とすかもしれないリスクをとにかく遠ざけることが最優先とされるけど、それは果たして「生きて」いることになるのか。

 

生の実感が損なわれることに対して、以前よりもずっと慎重になっている。最近読んだ記事や本も、無限に増殖する不安を断ち切ること、リスクを適切に見つめて生きることの重要性を指し示している。昨日から読みはじめた磯野真穂さん『他者と生きる』もそうだし、國分功一郎さん×千葉雅也さん『言語が消滅する前に』でも「(右派・左派ではなく)絶対安心・安全という側と、リスクと共に生きていくことに人間的意味を見いだす側の分割線がいま引かれている」という指摘があった。

それから医師の大脇幸志郎さんによる朝日新聞の連載『ちょっと不健康でいこう』では、1月に『「生きるとはリスクを冒して楽しむこと」危なくても風呂に入る私たち』という文章が掲載されていた。有料記事で途中までしか読めないかもだけどタイトルが主張のすべてで、(主に高齢者の)入浴にはリスクがあるけど、それでも私たちは楽しみのために風呂に浸かるでしょう、という内容。

 

デルタ株の流行の時、自分は安全を最重要視していたから、その反動もあるのだと思う。デルタと比べてオミクロンのほうが症状が軽いと言われていることも(意識的には症状の軽重に判断を委ねていないけど、無意識下では)あるかも。

もちろんコロナにかからず過ごせる方がいいのは確かだから、たとえば数ヶ月先でも構わないような飲み会などはなるべく延期している。でも、今しかできないことなのであれば、リスクがあってもやったほうがいいと思っている。

それは気にせず出歩くということではない。自分の天秤が錆びないようにする、載せるべき重りを間違えないよう扱いに慣れておく、ということだ。

 

今日の新規陽性者数は21576人、現在の重症者数は30人、死者6人。

*1:劇中でも、ネッドが「誰もが君みたいに強いわけじゃない」と諭されるシーンがある。それに対して、ネッドは「僕は弱さが怖いんだ」というような回答をするのだけど

自分にとって[2022年1月27日(木)晴れ]

15時の打ち合わせまでにいくつかの仕事を終わらせたい。朝から原稿の仕上げ作業。今回、いつもよりも一回多く仕上げの作業をすることにしてみた。原稿を提出した時に「淡々としている」と言われることがよくあり、それは自分の弱いところだなあと感じていたため。いつもの仕上げでは文章の破綻をなくして読みやすくすることを意識していたのだけど、破綻がなく滑らかな文章には抑揚がないというデメリットもある。なので仕上げ2では、丁寧すぎる接続詞や目的語を省いたり、説明的になりすぎているところに手を加えたりしてみる。

この時、頭の中にはジェンガのイメージが浮かんでいて、どの言葉なら引き抜いても崩れないのか、そして全体に緊張感を加えることができるのかを考えている。まだ慣れないから控えめだしおぼつかないけど、少しずつ大胆な省略や跳躍ができるようになりたい。

 

そのあとは原稿の編集をしたり、会議のための企画をまとめたり、明日の取材の質問項目を考えたり。15時から2時間企画会議で、終わってからはスーパーで夕飯の買い出し。

昨日からS&Bのパクチーのチューブを探しているのだけど、なかなか見つからない。昨日はOKストア、今日はSEIYUに行ったのだけど、どちらのスーパーにもなかった。スパイスコーナーに行くとS&Bの商品が棚を占領する勢いでずらっと並んでいて、「ホースラディッシュ」「もみじおろし」など、けっこうニッチなものはあるのにパクチーだけがないのだ。

でもきっとどこかにあるはずと思って、駅前のもう一つのスーパーに(パクチーチューブのためだけに)足を運ぶ。まっすぐスパイスコーナーに向かって、S&Bの袋、ビン、チューブが並んでいる棚を隅から隅まで見る。2巡くらいしたけど、やっぱりなかった。公式サイトには情報がないけど、もしかして生産終了してしまったのか……諦め切れないような気持ちで後ろを振り返ると、アジアンスパイスのコーナーに「パクチー」の文字を発見。なぜかこの商品だけS&Bコーナーとは離れて置かれていたのだった。

もしかしたらOKストアやSEIYUでも、S&Bコーナーに属さない場所に置かれていたのかもしれない。でも、わさび、にんにく、紅しょうが、ホースラディッシュとかが同じコーナーに並んでいるなら、パクチーもあっていいしそこに並んでいた方がわかりやすいんじゃないか、と思う。無事に手に入ったからもういいけど。

パクチーチューブを探し求めていたのは、最近シェントウジャン(鹹豆漿)にはまっているため。台湾の朝食で、酢、ザーサイ、干しエビなどを入れて作る豆乳スープ。パクチーは仕上げの段階でラー油と一緒に入れる。なくてもいいのかもしれないけど自分にとっては必要で、でも生のパクチーだと常備しにくいからチューブが理想的だった。このレシピをベースに作っていて(今気づいたけどレシピのサイトもS&B)、朝からまな板を使いたくないのでザーサイは切らずにそのまま、万能ねぎは入れない、パンはトースターで焼いた食パンにバターを塗ったもの、など適宜アレンジしている。

 

帰ってきてまた仕事して、夕飯は鳥のささみともやし、ニラの柚子胡椒炒め。2日前に大鍋で作った具沢山の豚汁が全然減らなくて頼もしい。夜はNetflixで『フレンズ』。1年半ほど前に何話か見て、ゲイを笑ったりする空気(それは作品固有のものというより、そういう時代だったのだと思う)が微妙につらくてやめてしまったのだけど、ふと思い出して視聴を再開した。そうしたら、ハマってしまった。先週から見始めて、すでにシーズン2を見終えようとしているところ。おかげで読書や他の見たい映画が全然消化できていない。

面白さよりも前に反応としての笑いがあるような空気はシットコム特有だと感じる。発言のほぼすべてが笑いの装置に組み込まれているので、その中でゲイの話題、容姿や体型をいじる話題が出ると身構えてしまう。でも、それはそれとして受け流しながら、別の場面でたくさん笑っている。馬鹿な会話ばっかりしていていつも一緒な6人に親しみを覚えている。そうやってキャンセルしないでも大丈夫になったのは、大きな変化だ。"今後『フレンズ』は問題視されてしまうのか?"というi-Dの記事を読み返してみる。

 

今日の新規陽性者数は16538人、現在の重症者数は18人、死者3人。