ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

感情に飲み込まれずに[2022年2月25日(金)晴れ]

首の後ろが燃えているようで目が覚める。パーカーを着て寝たら、フードの裏に熱がこもってじんましんが出たようだった。首元や裾からあおいで空気を入れ替えようとしてみるけれど、なかなか良くならない。どうしようもなくて、寝室を抜けて廊下でパーカーを脱ぎ捨てる。暗くて冷たい廊下がすぐに体温を奪い、肌の上で星がはじけるような痒みも少しずつ収まっていった。熱が引いていくのに安心しながら、トイレに入る。蛍光灯がまぶしい。

 

目が冴えてしまって、ベッドに戻ってからスマホを見る。今は3時半過ぎ。Twitterを開くと、いつもは見かけないような人たちのつぶやきが流れていく。断続的に戦争の話も。昨日の日中にも調べたけれど、たどってまた調べてしまう。チェルノブイリ原発をロシアが占拠した、という報道も。

ニュースなどでよく聞く「保たれてきた国際秩序が壊れようとしている」という言葉を思い出して、気が重くなる。武力で他の国を侵略できる、それが黙認されてしまえば、ロシアと同様の行動をとる国も出てくる。日常を支えていたルールが書き換えられてしまう。その重大さに言葉を失いながら、たとえば2021年のアフガニスタン紛争の時と感じ方が大きく違うことに微妙な居心地の悪さを覚える。同じように人が人を攻撃して、血が流れ続けていたのに。

 

メディアの報道、ウクライナにいる人が撮影した映像、日本など他の国にいる人の心境の吐露、まったく関係のない話。それらがないまぜになってタイムラインを流れていく。情報を知ろうとしていても、関係ないもので気を紛らわそうとしても吐き気がした。眠ろうと何度か目を閉じてみたけれど胸がざわついて落ち着かず、またスマホを眺めるのを繰り返してしまう。気づいたら日が昇っていた。今日をちゃんと過ごすためにもう少し寝ないとと思って、ようやく目を閉じてうとうとする。30分くらいしてアラームが鳴った時にはかえって体が重くなっていた。勢いをつけて体を起こし、窓際で太陽を直視して無理やり目を覚まそうとする。シャワーを浴びてコーヒーを淹れ、仕事に取り掛かる。必須の作業が終わったら確定申告をしようと思っていたけど、とても無理だなと思った。数字の世界に没入するのはいい気分転換になりそうだったけど、自分の去年の稼ぎや今年払うことになる税金について知ることになるのは考えただけでうんざりした。

 

こんな日に限って、と言うのか、眠りの質を高めるプロダクトを紹介する短い原稿の締め切りが迫っている。スリープマスクの使い心地を試すためにベッドに横になる。気持ちいい。このまま意識を失いたい。

 

お昼ご飯は恋人と一緒にモスバーガーへ。玄関の鉄製のドアは毎年冬になると結露がひどくて、今日も内鍵を開ける時に手が濡れる。立て付けが悪くなってきているドアをぐっと力を込めて押すと、ぬるんだ空気が手に触れた。もっと寒いと思っていた。今年に入ってから一番春に近い日だ、と思う。

靴を履く恋人を待ちながら、隣のアパートとの間に広がる快晴を見上げる。雲ひとつない澄んだ静かな青空が、爆撃の空とつながっていることが脳裏をよぎる。12時過ぎのモスバーガーは閑散としていた。恋人は午後から出社だそうなので駅へ、私は期間限定のピスタチオシェイクを飲みながら家へ。

 

仕事が手につかなくて、SNSをまた見てしまう。同じように「仕事が手に付かない」とつぶやいている方がちらほら。現地にいる人のツイートが流れてきて、「(徴兵のために)18歳から60歳の男性は出国禁止になった」という情報に戦慄する。

危機の中心にいる人たちの感情が、ゼロ距離でなだれ込んできてしまう。これじゃどんな人でも心がもたないよ、と思った。感情に火をつけるような訴求力のある語りや映像ほど拡散されやすいし、拡散されていることそれ自体に神経を昂らせる作用があるし。

みんなが興奮している。中心地と私の生活が離れた場所にあることを、あえて意識してみる。つながっているのは確かだけど、SNSで見ているほど近くもないはずだ。それは他人事だと、対岸の火事なのだとその場凌ぎの安心を得るためじゃなくて、冷静になるためだ。

 

ウルストンクラフトも、ケアの倫理論者も、「情操」や「感情」(sensibility/emotion)という概念には極めて慎重である。ウルストンクラフトは、「機械的で本能的なセンセーション」と呼ぶ感情を人間が備えるべき感情と混同しないよう用心すべきだと強調している。(中略)「センセーション」は「血の巡りを速め」「心臓を、同情的な情動で鼓動させる」だけの感情であると説明し、「理性が深化させ、人間性(ヒューマニティ)の感情と正しく名づけている情動」とは区別すべきだと強調する。

小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』

 

最近読んだベンジャミン・クリッツァー『21世紀の道徳』では、「道徳」とはあたたかくアツいものだと思われがちだが、本来「つめたい」ものであるべきだ、という論が繰り返し強調されていた。ここでは、私たちの心の中に発生する「アツい」道徳的な感情は「オートモードの「直感」に属する」ものであり、「そうした感情に基づいた道徳とは身内びいきや不公正さを伴う」とされる。その上で、「世の中をより良くするためには直感ではなくマニュアルモードの「理性」に基づいた判断が必要とされる」としている。*1

 

寄り添うということを、分解して考える必要がある。SNSに投稿されるセンセーショナルな語りは私たちの直感を刺激して、理性的でいられなくさせる。その刺激に突き動かされるだけでは不十分で、間違えるリスクを(冷静な時よりもたくさん)孕んでいるし、情動の熱が引いてしまえば関心を失うかもしれない。何より、その前に心が壊れてしまうかもしれない。そうなったら、何か支援をしたり考えたりすることも難しくなってしまうはず。

悲惨な映像が映し出す光景は現実に起こっていることだけど、私の身に直接降りかかっていることじゃない。その距離を適切に、具体的に思い浮かべてみる。考えるのはそれからでいいし、やばいかも、と思った時に一人一人の命や人生が危機にさらされている瞬間を見ないようにすることは、問題から目を逸らすことを必ずしも意味しない。感情に飲み込まれずに心を使う方法は絶対にある。大丈夫。

 

夕方からの予定がキャンセルになり、プールで1700メートル泳ぐ。帰ってきて、水曜日に作っておいた角煮の残りを恋人と食べる。夜、少し時間があったので、2人で街をうろついた。近所の店で、はじめて見かけたヴィーガンのサワーグミを買ってみる。恐竜のかたちのカラフルなグミ。

 

今日の新規陽性者数は11125人、現在の重症者数は79人、死者23人。

*1:『21世紀の道徳』では「ケアや共感をふくめた道徳的な感情とは所詮はオートモードの「直感」に属する」と書かれている。ここでいうケアはウルストンクラフトの「センセーション」に基づくもののことで、「人間性(ヒューマニティ)の感情と正しく名づけている情動」は、マニュアルモードの「理性」に近いものと言える。実際、「共感やケアの営みを複雑なものとして描けば描くほど、それは理性的な営みに近づいてしまう」とある。この一文は、共感やケアに基づくタイプの倫理学は「理性や原則という発想を放棄して感情や具体性にこだわる」ものという文脈で書かれたものなので否定的なニュアンスを帯びているけれど……。