ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

心のプロセス[2020年10月7日(水)雨]

朝起きて、仕事をする前にTwitterをチェックしていたらトレンドに「謝罪拒否」の文字。足立区の白石正輝議員が「同性愛が広がれば足立区は滅んでしまう」と発言して批判を集めていたことの続報である。ここまでわかりやすい差別発言で批判を浴びた後は、形式上であれ謝罪をすることが大半だったので、久しぶりにストロングスタイルのやべえ奴の存在が顕在化したな……と思った。

私はこうした差別発言に不感症気味になってしまっているところがあり、「足立区が滅ぶ」発言もちょっと面白がってしまっていたのだけど、こうなってくるともう笑えない。形ばかりだったり、「誤解を招いたことをお詫びする」など実質謝っていない謝罪のスタイルだったりしても、何らかのポーズをとらせることはけっこう重要で、ひとまず事態を収めたり、今後の抑止力になったりする(許すこと、追求をやめることとは別のベクトルとして)。それすらないまま野放しにされているのは、今後同様の発言があった時に同じ論法で謝らない人を生む前例になりそうで、ちょっと怖い。

発言を色々と読んでみると、非難されるほど自分の非を認められなくなるというか、「批判を受けても考えを曲げない強い意志を持った男」というセルフイメージを強化していくタイプの人っぽくて心底嫌だなと思う。意志が強いことと頭が固いことをはき違えている。謝罪してほしいけど、可能性は薄そう。

とりあえず「バカな発言をした上に謝らないし学ぼうとしないのは、救いようのないバカな行為」というイメージになって、後に続く人が生まれなければそれで良いかな……という気がしている。うーん、これって分断を放置する行為で、諦めてしまっているだろうか。だけどここまで凝り固まっていて何重にも誤解や偏見がありそうな人に、一から説明するのは無理。

 

午前中から原稿、昨日の文字起こし、今後の取材日程の調整など。夕方から取材をして、その帰りに新宿へ。色々と読まないといけない本があるのだけど小説が読みたくて、新刊をチェックしがてら紀伊國屋書店へ行く。

今読みたいのは社会的なことから離れて、寂しさとかわかりあうことについて考えられるもの。それでいて文体は抑制されていそうなもの。なんとなく、犬のイラストの書影が印象的で気になっていたシーグリッド・ヌーネス『友だち』が良いんじゃないかと思い付く。検索してみたところ紀伊國屋にはなかったので、ブックファーストまで行って無事購入。

 

朝から慌ただしく働いたのでけっこう疲れていた。しかしちゃんと自炊をしようと、地元に戻って夕飯の買い出し。

前回の日記では自炊への拒否感を書いたけれど、それは日曜日にゆっくり料理をしたことでひとまず解消された。今日は豚ひき肉を使った料理を作ろうと考えていたのだけど、ひき肉は夕方になると売り切れてもうないことが多い。やはり今日もなかなか手に入らなくて、OKストア、SEIYUは売り切れ。三軒目に寄ったスーパーでようやく手に入れた。

それにしても、少し前の自分だったら今日くらい忙しい日であれば適当な外食ですませたのではないかと思う。疲れているのに三軒もスーパーをめぐってまで自炊をしようとしている自分が不思議だった。それだけ習慣化しているということなのだろうか。

なんとなく、世の中のワーキングマザー/ファザーの皆さんが仕事も家事も抱えてしまう気持ちが少しだけ想像できた気がする。といっても、子どもを育てる責任や「女性が家事をすべき」という圧力みたいなものは私にはないので、本当に微々たるものなのだけど。想像できたのはあくまでも「自分の中で何かが習慣化すると、できたらそれを続けたくなるし、達成できないと駄目な気がして、負担でも頑張り続けてしまう」という、心のプロセスのその部分だけだ。でも、無理をしてしまう人がどんな気持ちで頑張ろうとするのか、「無理しないでいい」と言われてもなかなかそうできないのはなぜか、自分の心を通して学べたように思う。

今日の献立は豚ひき肉とキャベツと厚揚げのみそ炒め、さやえんどうと卵のみそ汁、さつまいもご飯(昨日の残り)、キムチ納豆。

対等な立場で[2020年10月2日(金)晴れ]

朝、久しぶりに7時台に起きられた。短めの原稿を執筆しながら衣替えのため夏物のシャツや短パンを洗う。今日は秋らしいからっとした天気で気分がいい。洗濯物もすぐに乾きそう。

お昼は今日も「キューピー あえるパスタソース」のカルボナーラ。しかし二日連続で食べたこと、単純に量が少なかったことで気持ちもお腹も満たされず、今日はこのあと暴飲暴食に走ってしまった。ポテチを食べたり、中途半端な時間にレトルトのカレーとパックご飯を食べたり。

気づけばそろそろ夕飯を作らないといけない時間だったけど、今日は料理をする気にもなれない。献立が思いつかないし、そもそもスーパーまで出かけるのも面倒臭い。そしてそこにはなぜかただ疲れているとかいうだけではない、もっと根本の部分から湧き上がってくるような強い拒否感があって、キッチンに立つのも嫌だと感じてしまう。これまで自炊はセルフケアの一つとしてかなり有効な手段だったから、(自分に対して使う言葉ではないのだが)まるで人が変わったように受け付けなくなっている状況にかなり戸惑った。

 

そうしているうちに恋人から帰宅の連絡があり、LINEで夕飯について話す。こんな状況なので私は外で食べたく、よく行く焼き鳥屋の名を挙げると「お昼から揚げ定食だったからなあ」と渋られる。続けざまに色々と提案をしてもどれもしっくりこない様子。あれこれお店の名前を挙げた直後に「ごめんやっぱりなんか買って帰ります」と返信が来て、それを見た途端悲しさのような怒りのような感情が湧いてきてしまった。

続けて「ノンアル冷えてる?」とメッセージが来たのだが、それにも(毎回毎回それ聞くけど、朝に確認してから行けよ)と苛立つ。冷蔵庫を開けて「350」とだけ返信して、その缶を力を込めて投げつけた。といっても、冷蔵庫の目の前から庫内に向けて投げただけなので大した距離ではないし、手を離す直前に加減している。缶が割れて噴き出したら掃除が面倒だし、そういう取り返しがつかないことをするほど苛立つような問題ではないのも、頭のどこかでわかっていた。

缶を殴って八つ当たりしているうちに少しだけ冷静になり、自分の夕飯をどうしようか考えだす。生ビールと冷えたトマトが食べたかった。ビールは缶で代用できるかもしれないけれど、トマトは近所のスーパーでは常温で売られていることがほとんどなので、よく冷えたものを食べたいならやっぱり外で食べるしかない。「一人で鳥貴族行ってくるね」と恋人にLINEして、家を出る。

道中、帰り道の恋人と出くわす。「自分も行こうかな」と言われたのだけど、「でもさっき焼き鳥は嫌なんでしょ」と、感情を抑制しながらやや突き放すような態度で話す。こういう時に私は普通のトーンで理路整然と、でも頑なに拒否をする、というようなことをしてしまう。恋人は「わかった」と優しく頷き、家に向かって歩いていく。その背中を見ながら、良くない接し方をしてしまったと反省する。でも、一緒に家にいると感情をぶつけてしまいそうで、それをしないためにも一人になるという選択をとれたのはよかった。その心の動きをちゃんと言葉で説明できたら一番よかったと思うけれど、苛立っている時はなかなか難しい。

今回のことは喧嘩ですらなく完全に私の一人相撲だけど、こうして感情を躊躇する間もなくぶつけそうになるのは恋人に対してだけで、甘えているなあと思う。彼にとっては関係のない苛立ちをぶつけられたらたまったもんじゃないと思うし(自分だって同じことを何度もされたら、その人のことを信じられなくなっていくと思う)、私たちは対等な立場で、同じように殴られたら傷つく心を持っていることを忘れないようにしなくては。

 

鳥貴族では希望通り生ビールと冷やしトマト、それからささみわさび焼を食べながら、恋人に「謎にめっちゃイライラする〜なんだろ〜」とLINEし、あなたのせいではないことをそれとなく伝える。キウイブラザーズのスタンプが送られてきて、言葉はないけれど気持ちは伝わる。「OK!」と書かれたキウイブラザーズのスタンプで返信した。ささみわさび焼のわさびの量が多く、その刺激が冷静にさせてくれる。

 

くだらない話が聞きたくて、今日から配信されたジェーン・スー堀井美香ポッドキャストOver the sun』を聞く。実は夕方アイロンをかけながら一度聞いていたのだけど、今はこのラジオのテンションが一番合っているように感じておかわり聴取。二人の掛け合いのテンポの良さに、二回目でも笑ってしまう。「膣」って何回言ってるんだ。

こういう下ネタ含みのバカ話っておじさんの番組ではわりとある気がするけど、女性、特に中年と言われる40代以降だとあまりないような。こうした非対称性に意識的と思われる点も『ブックスマート』を思い出す*1

女優やモデルだと「いい女」路線に走りがちだし、女性お笑い芸人もちょっと違う。オアシズのお二人の存在とかはブレイクスルーだったと思うけど、本人が意図せずとも「笑い」の磁場で評価される芸人という仕事での振る舞いを、一般人が参考にするのはバランス感覚が難しい。その両極を行き来しつつ、バランスの取り方込みでロールモデルとして先頭を走ろうとしているのがジェーン・スーさんなんだと思う。

とはいえ、私は年齢的にも性別的にも「おばさん」を自称することはできないから、体感をともなう説得力ある言葉は言えず、外野からあれこれ言うだけなのだけど……そしてそれは往々にして偉そうになりがちで、そんなところももどかしいんだけど。

 

楽しい番組を聞きながらビールを飲んでいたらだいぶ気持ちが楽になった。お腹いっぱいのほろ酔いでアイスを買って、帰宅。すると恋人から「冷蔵庫にケーキあるよ」と言われる。この10月で一緒に暮らし始めて3年になるから、そのお祝いでケーキを買ってきてくれていたのだった。そのことも知らず、冷たく当たった2時間前の自分に後悔。

*1:『ブックスマート』は放送を聞きながら思い出していたのだけど、オリコンニュースの記事を見ていたらやっぱり意識していたらしい。良いですな〜。

思い切り壁を蹴る[2020年10月1日(木)晴れ]

昨日は早起きできたのだけど、今朝は寝坊気味に逆戻り。朝なかなか起きられないのは季節の変わり目だからなのか、それとも花粉症の薬を飲み始めたからなのか。花粉症の薬は一日朝夕と飲んでいて、朝に飲んだあと特に眠くなるわけではないから違うかもしれないのだけど、ちゃんと夕方に飲んだ日(飲み忘れることも多い)はより起きられないような気もする。思い込みかもしれないが。

 

仕事をしているといつもお世話になっている媒体から新規案件のメール。なんと「ラジオ特集を作るので、よかったら協力してもらえませんか?」とのこと! やったー! 色々面白い取材もできそうでテンションが上がる。10月はこの仕事に加えて色々と新しい案件が入ってきているし、作っているZINEの制作も大詰め。久しぶりに忙しくなりそう。

この日記でも時々書いているけれど、最近はラジオを聞くことが多い。昨日も取材の行き帰りで、日中の時間帯にお引越しした「荻上チキ・Session」を聞いていた。月曜日の第一回の放送をタイムフリーで聞いて、大友良英さん作のテーマソングが良い曲だなあと聴き入ったり、南部さんがはぴねすくらぶの通販で明太子をおすすめされている時の受け答えの感じの良さや合いの手のうまさに「勉強になるなあ」と感心したり。

そんな変化もありつつ報道番組としての確かさは健在で、10月1日からはじまるGoToトラベルの東京発着についても岩田健太郎さんをゲストに分かりやすく解説されていた。岩田さんいわく、政府の進めているGoTo解禁は「経済もあるから仕方ない」というようななあなあの妥協策で、具体的な工夫がみられないのが良くない、とのこと。では具体的な工夫とは何かといえば、それは混雑を避けることだと話していた。たとえば、人が集まりそうな人気のスポットを避ける、誰もが動きやすい祝日ではなく普段の土日や有給を活用して日程を組む、など。

調べてみると、JR東海などは「ずらし旅」と称して時間や移動手段をずらして混雑を避ける提案をしているみたい。本木雅弘さんが出演するCMもつい最近見た。こうした提案が周知されることで、経済と感染症対策の両立は可能になるのかも。私自身、旅行するのも自粛し続けるのも後ろめたいような気持ちでずっとモヤモヤしていたが、「ずらす」という現実的なアクションに落とし込んで提案されることで、胸につかえていたものが取れたような感覚がある。

 

日中は今日提出の原稿の最終調整や、来週の取材に向けた資料読み。合間に「キューピー あえるパスタソース」のカルボナーラを食べる。麺を茹でてあえるだけなので簡単で、最近よく一人の昼食に食べている。オーソドックスな味付けでおいしく、カルボナーラにはベーコン、ミートソースならひき肉など食感を足す素材が入っているのも良い。

ただ、やっぱりこれだけだと味気ないなあと感じてしまうことも。トマトでもなすでもなんでもいいけど、自分で炒めた野菜をプラスしたほうが満足度は高くなると思う。とはいえ、慌ただしい日などはかなり助けられているのも事実なのだけど。

 

夕方には仕事が片付き、斎藤環さんと與那覇潤さんによる『心を病んだらいけないの?―うつ病社会の処方箋―』を読み始める。「社会を変えられなかった現実に直面するとうつになってしまうから、予防医療のように反原発、反レイシズム、反安倍と、その時旬な”デモのお祭り”を渡り歩く人は多いと思う」とか、杉田水脈議員の「LGBTには生産性がない」発言と2016年の「保育園落ちた日本死ね」の流行は、それぞれの支持層は対立しているように見えるけれどどちらも標準的な家族のあり方にとらわれている点では同じとか、すごく面白い。後者の件についてはやや極端に感じるけど、一理あるなとも。

 

どんどん読み進めたかったが、今日はプールへ行こうと思っていた。満月が輝き金木犀の香りがただよう中、隣駅まで歩く。天気も良いし混んでいるかと思ったけれどそんなこともなくて、自分のペースで1.7キロ泳げた。

泳いでいて疲れてくると、「あと50メートル泳いだら休憩しよう」という考えがいつも頭に浮かぶのだけど、いざその距離を泳ぎきっても反射的にターンしてしまうから不思議だ。頭で考えていたことを体で振り切るように、思い切り壁を蹴る。それはものすごく小さなことなのだけど、自分で決めた限界を破り続ける行為でもあって、蹴伸びをするたびに少しずつ自己効力感が回復している気がする。

 

夜は昨日作った豚キムチ、サラダ、即席の韓国風わかめスープ。Twitterを見ながら、杉田水脈議員が「女性はいくらでもうそをつける」という発言を認めて自身のブログで謝罪したことを知る。謝罪といっても「不快に感じたならおわび申し上げる」という、ここ数年でやたら見かけるようになった暗にこちらの読解力のせいにするタイプの謝り方。本当に不誠実な人だな、と思う。

菅首相日本学術会議の新たな会員候補の任命を見送った、というニュースも。菅首相官房長官時代にNHKクローズアップ現代』に集団的自衛権に関する特集で出演した際、厳しい質問をしてきた番組キャスターを降板に追い込んだとも言われている。こういう圧力のかけ方をする人なんだな…ということを改めて突きつけられたようで恐ろしい。

よくぞ金曜日までたどり着きました[2020年9月25日(金)雨]

昨晩はプールに行った。台風12号温帯低気圧に変わったけれど多くの人は外出を控えたみたいで、プールもいつもと比べると人が少なかった。前が詰まっていたり後ろから急かされたりすることなく自分のペースを保って泳げるので快適。おかげでノンストップで1キロ泳ぐことができた。そのあとも少しウォーキングを挟みながら泳いで、今回の合計距離は1.6キロ。徐々に距離を長くしていけていて楽しい。

 

そうしてプールへ行ったので、眠りがとても深かった。筋肉痛はまだそこまでではないけれど体が重く、朝になってもなかなかベッドから出られない。そうしているうちにリビングから恋人が楽しそうに英語で話す声が聞こえる。彼が金曜の朝に受けているオンライン英会話だ。

いつもならこの英会話がはじまる時、私はすでに仕事をしていて、彼を起こすのが私の役目になりつつあるので、寝ながら聞くのは少し新鮮。恋人が熱を帯びた口調でたくさんしゃべった後「mmm…Sorry,a little bit “MOTTA”……”盛った”って英語でなんて言うんだ!?」と言いだしたので笑った。

 

英会話が間もなく終わるというタイミングでようやく起きて仕事。今日は仕事の資料読みが中心。

夕方、スーパーへ出かける際にradikoで「ジェーン・スー 生活は踊る」の金曜日最終回を聞く。堀井さんとスーさんの明るくタフなおしゃべりが大好きだったので終わってしまうのが寂しい。まあ、そのぶん第5週目は全部堀井さん回になったり、ポッドキャスト番組「Over the sun(略して”おばさん”)」がさっそく来週からスタートしたりして、このコンビの放送が聞けなくなるわけじゃない(むしろさらにパワフルになると思われる)のだけど。少ししんみりしながらオープニングトークを聴いていたら、一曲目にかかったのがドナ・サマーの「ラストダンス」。うわー、ぴったり! 金曜日はディスコソングがかかるのも好きだったんだよなあ。野菜売り場で思わず聞き入ってしまう。

その後の高橋芳朗さんの洋楽コラムは「花金ソング特集」。最後に選曲されたのがケイティ・ペリーの「ラスト・フライデー・ナイト(T.G.I.F)」だったのだけど、そこで高橋さんが「TGIF(Thanks God It’s Friday)の一番ベストな日本語訳は、スーさんが毎週リスナーのみなさんにかけていたねぎらいの言葉『よくぞ金曜日までたどり着きました』なんじゃないかと思う」と言っていたのがぐっときた。毎週金曜日の放送でスーさんが言う「お仕事中の方、病気療養、家事育児、はたまた介護中のみなみな様、よくぞ、よくぞ金曜日までたどり着きました! 本当にお疲れさん!」の言葉を支えに頑張っていた人も多いだろう。

「ラスト・フライデー・ナイト(T.G.I.F)」は「先週飲みすぎちゃったけど今週も飲むか」みたいな曲とのことだけど、「金曜だから朝まで飲むぞ!」みたいなこともできないこのコロナの状況。その切なさも込みで、今度は台所で豚汁を作りながら聞き入った。

「ACTION」も終わるし「荻上チキ・Session-22」も夕方にお引越しになるし、今期のTBSラジオは大改編。なんだか慣れるまで少し時間がかかりそう。豚汁を作り終え、恋人が帰ってくるまで「Session-22」の過去回をラジオクラウドで聞く。ようやく今の政治について知る気力が湧いてきて、ひとまず菅内閣の特集回を中心に聞く。菅首相は昔から「携帯料金の値下げ」にこだわっていたようだけど、今それを大きく政策として打ち上げることに違和感。インフラの値下げは重要かもしれないけど、調整に時間もかかりそうだし、もっと早急に取り組むべきことがいろいろあるのでは……。

 

夕飯は豚汁とブリの照り焼き。豚汁は多少めんどくさくても土つきのごぼうを使うとぐっと味がよくなる気がする。今日もかなりおいしくできた。

豚汁は野菜をたくさん入れたので、大きめの鍋で作っている。冷蔵庫に入れられる温度にするため、底に保冷剤を当てて鍋をかきまぜていると妙に落ち着く。かきまぜることに集中して無心になれたり、少しずつ温度が変わっていくのを感じたりできるのがいいのだろうか。鍋の側面が丸くてすべすべしているのも、不思議と動物を撫でているような気分になってくる。ステンレスなのに。

様々なメンタルケアに関する本を読んでも、きっと「大量に豚汁を作って冷やすためにかきまぜると精神が整います」とは書かれていない。そういう自分だけの落ち着く方法を見つけると、ああきっと自分は大丈夫だなと思う。もちろん、本に書かれた方法に有益なものもたくさんあるけれど、自分でやり方を発見し、体感を通して味わい、効果を認めるというプロセス自体になんらかの作用があるように思う。それは自炊とも重なるかもしれない。

動き続ける[2020年9月23日(水)曇り時々雨]

プライベートで使っているGmailのアドレスは、はじめてつきあった恋人とGoogle Calendarでスケジュールを共有するために作ったものだった。そのアドレスには「2010年9月」を意味するフレーズが使われていて、それは私たちが付き合い始めた月日を示している。ちょうど10年前だ。10年前といえば私は18歳の大学生で、消費税は5パーセントが当たり前だと思っていて、民主党政権だったけど政治には無関心で(当時の18歳は選挙権も持っていなかった)、そして恋人にまつわるフレーズをメールアドレスに入れてしまうタイプの人間だった。

その彼とは結局半年ほどで別れてしまった。電話で別れ話をしたあと、彼の家に置いてあるものを受け取りがてら最後に食事をすることになって、その日にちが2011年3月11日だった。

地震の混乱で予定はキャンセル。お互いの安否確認や情報共有のためにその後もしばらく連絡を取り続けていて、そんな経緯もあってか別れたあとも友達のような関係になっていたのだけど、いつの間にか疎遠になった。そして彼との連絡は途絶え、Google Calendarの共有も解除したが、アドレスは使い続けている。彼の名前などを入れたりしていたら絶対に使えなかったと思うけど、ただ記号的に日付が入っているだけだから、アドレスを見ていちいち彼を思い出すこともない。でも、今日はドライヤーで髪を乾かしながら、なんとなくそのことを思い出していた。

 

朝ご飯はワンタンスープ。昨日作った豚ひき肉とモロヘイヤのワンタンの残りを、即席で作った中華風スープに入れる。食べながらiPadで再校ゲラを確認した。

水曜日だけど連休明けなので、一応出社。15時半から秋葉原で取材をして、思いのほか早く終わったので駅ビルをうろつく。先週末から良いバケットハットがないか探している。バケットハット、アウトドア/スポーツブランドのイメージがあったのだけど、今年はもうちょっとエレガントな雰囲気のものがトレンドの印象。クラウンと呼ばれる頭の入る部分が深く、ひさしが下向きですっきりとしたフォルムのもの。ありそうで意外と見つからない。

あと、このタイプのバケットハットは顔の上部を隠すので、マスクをすると顔がほとんど見えず怪しくなる……。しばらくはマスクなしで出かけるのは厳しいだろうし、コロナが終わる頃にはこの帽子の流行も終わっていそうだし。ほしいけど躊躇してしまう。

 

駅ビル内の「エチオピア」でチキンカリーを食べ、会社に戻る。定時ちょっと過ぎまで仕事をして帰宅。

帰り道、先日は立ち読みで済ませた『BRUTUS』の「必要な服だけを。」というファッション特集を購入。具体的な着こなしやトレンドの話というよりは、抽象的な洋服についての価値観の話。先日は観念的な話が多そうだと思ってスルーしたのだけど、なんとなく読んでおいたほうがよさそう、と思って手に取った。

いろいろな人にこれからの/普段のファッションについてや最近買ったものなどを聞いているのだけど、その言葉やチョイスにはずばりファッションの現場にいる人じゃないからこその哲学が滲む。コロナや自粛による影響や価値観の変化も語られ、切り口にされているけれど、それが主軸になっていないのも良い。その人が情熱を注ぐもの、つまり人生がまずあり、人生の周縁に日常があり、日常の中に洋服選びやコロナによる生活の変化がある……くらいの距離感。写真家やミュージシャンなど、13組の表現者が一つのブランドの洋服で全身決めた写真とインタビューからなる特集が、写真も文章もよかった。

あと、特集の内容とは違う見せ方の話だけど、冒頭の「服との付き合い方は変わりますか?」という特集で、インタビューの全文はQRコードで飛ばしてウェブ上で公開しているのが面白かった。技術的には難しくないはずなのに意外と見かけたことがなくて斬新。雑誌をたくさん読むわけじゃないから、もしかしたら私が知らないだけでやっているメディアも多いかもしれないけど……。

 

BRUTUSを読みつつ、MとZINEについてLINEでやりとり。今回の日記のZINEはいかんせんページ数が多いのでそれだけでコストがかさんでしまい、紙媒体としての面白い仕掛けとか、凝った印刷とかまでは手が回らなそう。ただ、今日なんとなく新しいZINEのテーマを思いついて、そっちでは色々できるかもしれない。

新しいテーマというのは、以前考えて着手しかけていたものとは別物。中途半端にあれこれ手をつけたみたいになっているのがうしろめたいけれど……まあモチベーションがちゃんと持てるものをやるほうが良いはず。新しいテーマは日記を読み返しながら感じたことがもとになっている。動いている時のほうが、新しいアイデアが色々と浮かんでくるものなんだなと実感している。

不安の輪郭[2020年9月21日(月)曇り]

ここ数日窓を開けて眠るようになったのだけど、朝起きた時に花粉症の症状が出る。春の花粉症は高校生の頃からあるけれど、ついに秋花粉も来たかと憂うつ。実は昨年から症状が出ていた気がするのだけど、そこまでひどくなかったので「これは秋花粉ではない」と自分に言い聞かせていた。

目のかゆみと鼻水がどうしようもないので、春に処方されて残っていたフェキソフェナジンと小青竜湯を飲む。フェキソフェナジンは病院に行って薬をもらいたいが、今週は少し忙しくてなかなか行けなそう。とりあえず駅前へ行き、アレルビ(フェキソフェナジン=アレグラのジェネリック)を2週間分買った。ジェネリックとはいえ薬局で処方してもらうほうがずっと安いので、どこかでタイミングを見つけて行きたい。コロナのこともあって、病院に行くこと自体が少し不安ではあるけれど。でも、こういうのも医療機関で働いている人からしてみればあまり良い気はしない考えだろうか。

 

薬局の帰り、本屋でBRUTUSとPOPEYEのファッション特集を立ち読み。今日は恋人と久しぶりにデート。秋服を見たいと話していたので参考に手に取ったのだけど、BRUTUSは観念的な話が多く、POPEYEは丁寧だけどあまり心が躍らなかった。

一度家に帰って、少し仕事をしたあと二人で新宿におでかけ。恋人が最近買った秋服を着ようか迷っているので、「涼しかったけど、長袖はまだ暑いかも」とアドバイス。私は今年着るのは最後かな、と思いながら、紫の半袖シャツを着た。この時期、例年だったら夏服に飽き飽きしていて、少しくらい暑くても秋服を着たがったと思うのだけど、今年はむしろ夏服を着足りないまま夏が去ってしまった印象がある。

 

予約していた店でピザを食べる。変わったメニューが食べたく、ほうれん草チーズのソースにサラミがのったピザを頼む。恋人はきのこやベーコン、半熟玉子などがのったピザ。シェアして食べたのだけど恋人が私の頼んだピザの味を気に入ったらしく、「あなたが選ぶメニューって当たりのこと多いよね」と言われる。私もそう思う。ただ、王道ではなくて変化球を頼みがちなので、なんか邪道かなと思って落ち込むこととかもある。

 

それからNEWoMANとか、ユニクロとか色々。良いなと思うものはたくさんあったが、序盤にユニクロで買ったことで、買い物欲が満たされてしまった感がある。なんか、手軽なところで満足してしまって本当の快楽にたどり着けない自分の人間性を垣間見たような気がする……。自分の欲望に対して私はまだまだ臆病だ。その姿は一見、自分が欲望を手なずけているように映るかもしれなくて、そのイメージで自分を欺くことも可能だろうけど、そうではない。何かに自分が飼い慣らされているだけだ。分不相応な何かを選んで、だけどそれによって奮い立たされるようなことがしたいと、心のどこかで思っている。

地元に戻ってからも近所の古着屋を二人で物色。かなりたくさん出歩いた。最後に近所のOKストアで夕飯の材料を買って帰宅。

このOKストアは少し前まで一組につき一人しか入れないようにするなど、店内の混雑緩和のために色々と対策をしていたのだけど、今日は恋人と二人で入っても特に何も言われなかった。今日は色々なお店に行ったけど、入り口にあるアルコールスプレーもうっかり使い忘れてしまうことがあったし、やっぱりどんどん気が緩んできているなあと感じる。そして、気が緩んでいることに対して何も思わなくなってきているとも。関連のニュースも一時期に比べたら熱心に追わなくなったし、東京の感染者数の推移も把握していない。なんとなく、こういうぼんやりとした意識のまま生活していくことになるのだろうか。

 

……そんな風に思っていた矢先、かなり身近な知り合いから「先日コロナ陽性になった」と連絡があった。えええええ!?と思わず声が出てしまうほど驚いた。すでに回復しているとのことなので安心したけれど、油断していたところだったのでショックが大きい。

実はこれまで「知り合いの知り合い」とか、「友達の職場が入っているビルで」とかがもっとも近い感染例で、直接顔を知っている人が陽性になったのははじめてだったのだ。話を聞くと、40度近い高熱が出ていたりなかなかしんどそう。さらに具体的な症状以上に、外出禁止や仕事、学校、家族など周囲への影響が大きいらしく、むしろそれに翻弄されたと言っていた。うーむ。

聞いていると、陽性になったところで薬があるわけでもないし、よほど重症化しない限りは自宅療養で、具体的なケアは手薄っぽい。その一方で本人の外出禁止、濃厚接触者の外出自粛(まったく外出できないわけではないけど、学校や職場への出勤はPCR検査を受けて陰性と判断されるまでの数日間は控えるしかない。飲食店や小売業だと営業停止も?)、社会的スティグマなど、被るリスクばかりが大きい。

SNSを見ていると「PCR検査を受けたくても受けられない」人の話はよく見るのだけど、これだと「コロナかもな」と思いつつもあえて検査を受けない、という判断をする人も増えてきそう。

 

なんか世間的には大丈夫な空気になっているけれど、特に状況が改善されているわけではないのだ。体験者の話を色々と聞かせてもらって、私としても再び気を引き締めないとなと感じた。一方で、知り合いが感染したことで(そしてかなり大変な思いをしつつもすでに回復していることで)、どこかこのウイルスの輪郭を捉えられたようにも感じている。知り合いの体験談を聞いて追体験したことで、不安が際限なく広がるような怖がり方から、身体性(というある種の限界)をともなった警戒へ移行できる気がする、というか。それは心構えみたいなもので、実際の行動がどう変化するかはまだわからないのだけど……。

生産的ではない過ごし方の3つのレベル[2020年9月17日(木)曇り]

秋鮭を朝から焼く。昨日の夕飯はシチューと鮭のムニエルにするつもりだったのだけど、恋人の仕事が忙しく、待っていたら23時過ぎになってしまった。夜も遅いので軽めにしたく、ムニエルはスキップ。代わりにそれぞれの昼食用に鮭の幽庵焼きを作ることに。調味料に漬け込んでいる間に日記を書いた。

 

昼までに原稿の修正対応をして、鮭、白米、インスタントのスープ春雨で昼食。食べている途中で電話がかかってきて、そういえばUQWiMAXから長期契約者向けのプラン変更やポケットWi-Fiの機種変更の案内の電話を、今日の昼にもらう予定だったのを思い出す。スピーカーモードかつこまめにこちらの音声をミュートして、食べながら電話。めちゃくちゃ偉そうだな……と思いつつ、対応してくれている方に気づかれなければ大丈夫だろうと静かに食べる。啜って食べるスープ春雨に苦戦した。

案内してくれた内容はどれも良さそうだったので、言われた通りに契約内容を変更。最近UQ mobileに機種変更したためセット割も適用されるそうで、携帯料金もちょっと安くなった。

 

昼過ぎからは急ぎの仕事がなく、そしてやる気も起きず、ひたすらにだらだらと過ごしてしまった。時間がある時は料理を作ることが多いけれど、昨晩のシチューが冷蔵庫を圧迫していて作り置きを入れる余裕がない。プールも昨日行ったため、筋肉痛で今日は行けず。日記の整理とか、企画のリサーチとか、やることはあるのだけどついサボってしまった。

私には「平日は生産的な活動をする(お金を稼ぐ)もの」という感覚が染みついてしまっているらしく、今日みたいに過ごすと自分がとても駄目な人間のように感じる。オンオフの区切りがなくなりがちなフリーランス、モードを切り替えられる外的な要因があるのは必ずしも悪いことではないけれど、縛られると苦しいのが難しい。

そして生産的ではない行動にもいくつかの段階があって、それによって後ろめたさも違ってくるなと思う。レベル1は「直接的にはお金を生み出さないが、自分の土壌を耕している状態」。私の場合は読書とか、映画を見るとか、日記を書くとかがこれにあたると思う。

レベル2が「お金を生み出さず土壌も耕していないが、割り切って休めている状態」。疲れがたまっていて、休んで心身を回復させた方が良いなと感じている時がこれに当たる。で、最後のレベル3が「何もできていない上に、その自分を許せていない状態」。今日の日中はこれで、後ろめたさレベル、自分のことを駄目人間だと思うレベルではマックス。この状態だと休んでいるようで、かえって精神的にダメージを受けることになりがちである。

レベル2と3の違いは要するに「納得して休めているか」という気持ちの問題である。だから精神を安定させる上では一見レベル3をどれだけレベル2に引き下げるか、あるいは頑張ってレベル1に持っていくか、が要になってくるように見えるけれど、レベル1、2は結局「生産性のための休息」だ。だからそれだけになってしまうのは、休むことまで生産性に回収されているようで、なんだかなあという気持ちもある。

ということは、3の状態が重要なのだろうか。居心地の悪さを感じつつ、「そんな時もあるかも」と受容しようとすることで、ちょっと距離を取れるというか。

「生産性の呪い」みたいな表現をよく聞く。この言い方だと生産性そのものが悪いように感じられるかもしれないのだけど、私は必ずしもそうではないと感じている。問題は生産性と自分の主従関係が逆転していないかどうか、だと思うのだ。一分一秒たりとも無駄にしない気持ちで生活していて、その基準をクリアできない自分を良くないと感じるなら生産性が主になっている。逆に、生産的な時もあれば、そうではない時もある、という態度でいれば、主体を自分に取り戻せるかもしれない。レベル3はその取り戻すきっかけになり得る。

なんだかんだ理屈をこねてみたけど私は何もできない自分に傷ついているので、現状呪われているのだと思う。ただ、自分が縛られていることに気づくのは、動きを制限され、糸が肌に食い込むのを感じた時だ。だからまあ、そんな日があってもいいのではないでしょうか。最終的にはもうちょっとカジュアルにレベル3状態の自分を許せるようになれたら楽かもしれないけど、そこは人生において生産性をどれだけ重視するかによって変わるので、必ずしもすごく楽にならなくてもいい、とは思う。

 

これは振り返って書きながら考えたことなので、過ごしていた当初は悲しい気持ちでいっぱい。17時からオンライン会議があったのだけど、これがなかったら今日一日ずっと自分は駄目な人間だと落ち込みながら何もできなかったと思う。切り替えられてよかった。予定があるのは大事だ。

はじめて関わる媒体の企画会議だったのだけど、以前から好きでよく読んでいたのでとてもうれしい。普段なら企画会議はみんなで集まって、終わったら飲み会になることが多いといいう。でも今回はオンラインなので飲み会はなく、終了後に20分ほど雑談したくらい。オンラインは移動の手間や時間がかからないのは楽だけど、こういう時にちょっと寂しいなと感じる。必要なこと以外をやりにくいというか、「直接的な仕事ではないが、関係性の土壌を耕す状態」を作りにくいというか。