ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

心のプロセス[2020年10月7日(水)雨]

朝起きて、仕事をする前にTwitterをチェックしていたらトレンドに「謝罪拒否」の文字。足立区の白石正輝議員が「同性愛が広がれば足立区は滅んでしまう」と発言して批判を集めていたことの続報である。ここまでわかりやすい差別発言で批判を浴びた後は、形式上であれ謝罪をすることが大半だったので、久しぶりにストロングスタイルのやべえ奴の存在が顕在化したな……と思った。

私はこうした差別発言に不感症気味になってしまっているところがあり、「足立区が滅ぶ」発言もちょっと面白がってしまっていたのだけど、こうなってくるともう笑えない。形ばかりだったり、「誤解を招いたことをお詫びする」など実質謝っていない謝罪のスタイルだったりしても、何らかのポーズをとらせることはけっこう重要で、ひとまず事態を収めたり、今後の抑止力になったりする(許すこと、追求をやめることとは別のベクトルとして)。それすらないまま野放しにされているのは、今後同様の発言があった時に同じ論法で謝らない人を生む前例になりそうで、ちょっと怖い。

発言を色々と読んでみると、非難されるほど自分の非を認められなくなるというか、「批判を受けても考えを曲げない強い意志を持った男」というセルフイメージを強化していくタイプの人っぽくて心底嫌だなと思う。意志が強いことと頭が固いことをはき違えている。謝罪してほしいけど、可能性は薄そう。

とりあえず「バカな発言をした上に謝らないし学ぼうとしないのは、救いようのないバカな行為」というイメージになって、後に続く人が生まれなければそれで良いかな……という気がしている。うーん、これって分断を放置する行為で、諦めてしまっているだろうか。だけどここまで凝り固まっていて何重にも誤解や偏見がありそうな人に、一から説明するのは無理。

 

午前中から原稿、昨日の文字起こし、今後の取材日程の調整など。夕方から取材をして、その帰りに新宿へ。色々と読まないといけない本があるのだけど小説が読みたくて、新刊をチェックしがてら紀伊國屋書店へ行く。

今読みたいのは社会的なことから離れて、寂しさとかわかりあうことについて考えられるもの。それでいて文体は抑制されていそうなもの。なんとなく、犬のイラストの書影が印象的で気になっていたシーグリッド・ヌーネス『友だち』が良いんじゃないかと思い付く。検索してみたところ紀伊國屋にはなかったので、ブックファーストまで行って無事購入。

 

朝から慌ただしく働いたのでけっこう疲れていた。しかしちゃんと自炊をしようと、地元に戻って夕飯の買い出し。

前回の日記では自炊への拒否感を書いたけれど、それは日曜日にゆっくり料理をしたことでひとまず解消された。今日は豚ひき肉を使った料理を作ろうと考えていたのだけど、ひき肉は夕方になると売り切れてもうないことが多い。やはり今日もなかなか手に入らなくて、OKストア、SEIYUは売り切れ。三軒目に寄ったスーパーでようやく手に入れた。

それにしても、少し前の自分だったら今日くらい忙しい日であれば適当な外食ですませたのではないかと思う。疲れているのに三軒もスーパーをめぐってまで自炊をしようとしている自分が不思議だった。それだけ習慣化しているということなのだろうか。

なんとなく、世の中のワーキングマザー/ファザーの皆さんが仕事も家事も抱えてしまう気持ちが少しだけ想像できた気がする。といっても、子どもを育てる責任や「女性が家事をすべき」という圧力みたいなものは私にはないので、本当に微々たるものなのだけど。想像できたのはあくまでも「自分の中で何かが習慣化すると、できたらそれを続けたくなるし、達成できないと駄目な気がして、負担でも頑張り続けてしまう」という、心のプロセスのその部分だけだ。でも、無理をしてしまう人がどんな気持ちで頑張ろうとするのか、「無理しないでいい」と言われてもなかなかそうできないのはなぜか、自分の心を通して学べたように思う。

今日の献立は豚ひき肉とキャベツと厚揚げのみそ炒め、さやえんどうと卵のみそ汁、さつまいもご飯(昨日の残り)、キムチ納豆。