ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

今じゃない[2021年10月30日(土)晴れ]

9時過ぎに起きて、朝から恋人と一緒に駅前のパン屋へ行き朝食。家に帰ってきて、何をするでもなくぼーっとする。少し本を読んだけど、内容が頭に入ってこない。10月は本当に本を読めなかった。それは忙しかったのもあるし、今読んでいる本がしっくりこないことも関係していた。

ある人の自伝なのだけど、日常におけるある一種の違和感が何度も繰り返され、読んでいて単調に感じてしまう。その違和感はその人のジャーナリスティックな視点の原動力になっているものだし、繰り返し繰り返し感じて、それを書き続けていること、その重さをちゃんと受け取りたいと思ってページをめくるのだけど、どうにもしんどくて前に進まなかった。6割ほど読んだところで、今は読むべきタイミングじゃなかったのかもしれないと感じはじめる。無理に通読するとかえって何も得られないような気がして、読むのをやめることにする。懸命な判断だと思うが、挫折の味もする。

 

12時過ぎごろ新宿へ行き、駅周辺のショッピングビルを色々とめぐる。8月頃から行くのを控えていたので(伊勢丹、ルミネなど新宿の百貨店、ショッピングビルは店員の感染情報を日々公開していたのだけど、8月は毎日、ほぼすべての施設で感染者が出ていた)すごく久しぶり。新宿二丁目のそばにあるACTUSでオガちゃんに水やりをするための霧吹きや、先日割ってしまった茶碗の代わりになるものを物色し、結局買わずに出る。

恋人と昼食を食べ、それぞれ別れて自分の見たい店を見る。いくつか気になる洋服はあったものの、なんとなく億劫で試着しなかった。そもそも接客を受けるのが苦手なことに加え、体が小さいのでセレクトショップに置いているようなブランドだと一番小さなサイズでも丈や袖が長いようなことが少なからずあり、その失敗体験が積み重なって回避しがちになっている。一番小さいサイズでも大きい、というのは、ブランドに拒否された気持ちになるし、店員さんも困らせてしまうしでけっこうしんどいのだ。

ジェーン・スーがラジオやポッドキャストで、日本ではXLでもギリギリだったけどアメリカに留学したら私の上に3サイズくらい展開があってすごく気が楽だった、とよく話している。全体的に大きめに作られているイメージがあるし、それでいうと私の場合はXSでも着られなかったりするのではないか。それとも、小さいサイズも展開が多いのだろうか。実際、西欧圏にも私と同じくらいの体格の男性はいるだろうし。でも、旅行記などを読んでいると男性用小便器の位置が高くてアジア人は用を足すのにちょっと苦労する、みたいな(コミカルな)描写を見ることもあって、どうなのかなと思ったり。

そういうサイズが合わないかもしれないストレスを考えるとユニクロの安心感が半端なく、つい行ってしまうのだった。でも、今日は特にほしいものがなかった。そうやって楽な買い物ばかりしていたらクローゼットの半分近くをユニクロが占めるようになってしまい、それはそれで違う…と思っていることも影響しているだろう。

 

恋人と合流しようと何度かLINEを送るも、既読がつかない。いそうな店をまわっていると接客を受けて試着している最中で、そのためにスマホを見ていなかったのだろう。コンプレックスを刺激されたようで一瞬むっとなりかけるが、それをこの人にぶつけるのは違うと気持ちを押し戻す。

恋人はまだ色々と見たい店があるようだったので、一人で先に帰宅。近所の古着屋でパタゴニアやノースフェイスのアウターを物色する。古着は一点もので、サイズがなくても「その時縁がなかった」と思うだけで済むから気楽だ。店員も塩対応気味のところが多いし。でも、今日は店が混んでいたので特に試着などせず見るだけにとどめた。スーパーで夕飯の材料を買う。

 

帰ってきて、iPhoneをiOS15にアップデートする。その間、iPadで『セックス・エデュケーション』シーズン3のエピソード1を見る。キャラクターみんな好きだけど、特にメイヴ、アダム、ジャスティンに幸せになってほしいと常に思っていて、彼らが登場するたび傷つけられることが起きないよう祈るような気持ちになる。エイミーのトラウマも絶対にいい方向に向かってほしい。

シーズン2ではなぜオーティスとオーラが付き合っているのかよくわからず(二人がお互いの何に惹かれているのかあんまりよくわからなかった。それは当て馬としてのメイヴの存在や、親との関係によって結託してしまったところもあるのだろうか)、メイヴとくっついてくれ〜と思いながら見ていたが、オーティスがどんどんろくでもない感じになっているので今はそう思わない。というか、もし今くっついてもすぐダメになる気がする。

キャラクターも、その関係性もどんどん変化していく。ブレブレってくらいにみんなブレまくるのだけど、「設定が」ブレているのではなくて、「キャラ自身の心が」ブレているのを捉えているのがすごい。アイデンティティを獲得していく時期。そのアイデンティティは性と密接に関わり合っているけれど、でもそれはごく一部で、まわりの人間とのコミュニケーションによって有害になったり無害化できたりする。

 

夕飯は昨日作ったナスとひきにくのトマト煮を、パスタにあえて食べる。あとはレタスとミニトマトのサラダ、スーパーで買った紙パック入りのパンプキンスープ。期せずしてハロウィン感。ニュースでは宣言解除後の街に人が戻ってきていることや、ハロウィンの渋谷の様子を、やや警戒感の強い調子で報道していて、昼間に買い物を楽しんだ身としてはやや責められている気持ちになる。でも、そのニュアンスの意味もすごくわかる。

 

いくつかの番組を流し見したあと、NHKで選挙特番をやっていたので見る。各党首の選挙戦に臨む姿を追ったドキュメントなのだけど、公約の内容よりも人柄を伝えるものが多く、これだけだと印象論になるなと思ってしまう。みんなコンビニやスーパーの惣菜を買って食べたり、ラジオ体操をしたりして、庶民の味方アピールをしている。あと、やたらと走ってる姿が映る。

今回の選挙、私はそれぞれの公約にはざっと目を通して、小選挙区は入れたい候補者がいるし、比例は自民党を落としたいという気持ちで野党第一党に入れる予定。

 

最高裁判官の国民審査については、SNSで「夫婦別姓を認めないのは合憲とした裁判官はこの人たちだ」と、それぞれの判決をマルバツで示した表がリツイートされてくるのをよく見るのだけど、ものすごく危うさを感じている。私も夫婦別姓は進めてほしいけど、そんな単純化して大丈夫か? 実際、公報誌を読むと長嶺安政、岡村和美の2名の裁判官は、違憲ではないものの民主主義的なプロセスによって夫婦別姓の議論がなされるべき、という判断をとっている。問題意識はあるが憲法の問題ではない、と判断することは十分ありえるはずで、それらも一緒くたにクロとしてしまっていいのか。

それから、堅田香緒里『生きるためのフェミニズム』という本の中で紹介されていたあるケースが印象に残っているというのもある。2021年3月に札幌の裁判所で「同性婚を認めないのは違憲」という画期的な判決を下した裁判官が、その2週間後に生活保護の減額決定の取り消しを求めた裁判で、原告の生活保護受給者の訴えを退けた、というものだ。私自身が同性婚訴訟の判決に舞い上がったから、知った時は冷や水を浴びせられた気分になった。

本の中では、これをネオリベラリズムは「パン(金)」には不寛容だが、「バラ(尊厳)」には寛容な態度を示すケースとして紹介している。それはつまり、体制の側がコストを引き受けないで済むかどうかによって、包摂されるマイノリティと排除されるマイノリティが生まれてしまう、ということだ。

今回の夫婦別姓の件を、この「パンかバラか」という論点で語れるかはケースバイケースだと思うけれど、でも、ある一点のみでその人の是非を判断すると、別の側面から見た時に大きな間違いにつながる可能性があることは確かだ。夫婦別姓と同じくらい大事にしている問題について、その人は自分とまったく違う価値観を持っているかもしれない。

恋人は公報誌を読みながら荻上チキ・Sessionを聞いていて、「ジャーナリストの江川紹子さんが『国民審査は点じゃなくて価値観を見た方がいい』って言ってたよ」と教えてくれた。

 

夜は時間があって、何を読もうか迷ったあと、kindle坂口恭平『土になる』を読みはじめる。コロナ禍で畑をはじめたことについて書かれているのだけど、土との対話の中に絵、音楽、建築、いのっちの電話など、彼が続けていた経験がすべて溶けていてすごい。最近また文章が書けないモードだったのだけど、ますます軽やかな坂口恭平の文章を読んでいると、自分もすらすら言葉が出てくるような気がする。

 

今日の新規陽性者数は23人、現在の重症者数は14人、死者5人。