ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

遅れて届く[2021年5月29日(土)晴れ]

打ち合わせが終わってから恋人と出かける。5月はずっと慌ただしくて、恋人とデートするのは久しぶり。というか、そもそも街へ出かけるのが久しぶりかもしれない。

最近はずっと成人用おむつを使っていたのだけど、せっかくなので気分を上げたいと思って、今日は下着+患部にガーゼで出かけるつもりだった。しかし打ち合わせを終えてスウェットから履き替えようとした時、お尻に違和感が。ガーゼの位置が悪かったようで、下着が少し血で汚れている。患部を目視できないからガーゼをうまく貼るのが難しいのだ。今日は夜まで予定が詰まっているし、無事に過ごせるか自信がなくなってしまって、やっぱりおむつに履き替える。別に誰に見られるわけでもないのだけど、テンションと自己肯定感が爆下がり。便利さと安心感から積極的におむつを選択してきたつもりだったけど、万能ではないなと思う。

というか、排泄は普通にできるし一時的におむつを使っているだけの自分でさえこれだけ自己肯定感が下がるのだから、老化やなんらかの障害によってトイレでの排泄が難しくなり、おむつを履かざるをえなくなった人のつらさは相当なんじゃないかと感じる。その場合、終わりも見えないだろうし。と、これまでまったく知らなかった種類のつらさが少し想像できるようになる。

 

色々と行きたいところがあったので、二人とも少し気分がせかせかしていた。駅前のベックスコーヒーでハッシュドビーフを食べて原宿へ。乗り換えが面倒で、表参道まで歩いて行くことにする。天気が良くて、歩いていると汗ばんでくる。おむつは下着と比べて通気性が悪く、肌にくっついて気持ち悪い。やっぱり下着で来たかったな、と思う。そして恋人はさっきベックスコーヒーでアイスコーヒーを飲んだせいで急にお腹が痛くなったそうで、原宿駅から表参道に着くまでに3回くらいトイレに駆け込んでいた。そのたびに待たされる私。さんざんなふたり。

 

複数回のトイレ休憩を挟み、Spiralへたどり着く。5階の「Call」へ。Spiralは表参道に来たらふらっと立ち寄ることが多いけど、Callへ来たのははじめてだった。話には聞いていたけど、60〜70代くらい?のスタッフが接客している。こういったアパレルで年齢を重ねた方が接客をしていることってあまりないので新鮮。それだけが理由ではないかもしれないけど、若いスタッフだけの店よりも不思議と時間がゆったり流れているような、他にない空気感が生まれていた。

店内をぐるりと一周し、薄いポリエステル素材のポーチを買うことにする。グレーがかった銀色の地に白抜きで、馬や羊、鳩、裸の女性など様々な生き物が描かれているもの。コロナが落ち着いたら、これに靴下や肌着などのこまごましたものを入れて旅行に行きたい。当面はその機会はないけれど、予備のおむつを入れるのに重宝しそうだ。おむつおむつうるさいなと思われるかもしれないけれど、こういう小さなところでテンションを上げて自分を支えるのは大切。

 

新宿へ移動し、しばし恋人と別行動。恋人は数週間前に作ったメガネの度が合わなかったらしく、その調整へ。私はSteven Alanで、インスタで見て気になったアイスブルー色のパンツを試着。ルミネ10パーセントオフの日なので混んでいて、試着までに10分近く待つ。店内のソファに座って待っていたのだけど、体勢によっては患部が痛く、なんか悪化している気がして不安に。今日はこれから映画を見るのだけど……しかも濱口竜介監督の『親密さ』、つまり4時間超えの大作……。

ほしい色のサイズがなかったので別の色でサイズだけ確認。大丈夫そうなので取り寄せてもらう。なんだかあれもこれもと買っている気がするけれど、5月はほとんど出かけていないし、忙しかった分報酬もちょっと多く入ってきそうだし、まあたまにはいいだろう。

 

東中野に移動して、映画の時間になるまで近くのミスドで休憩と腹ごしらえ。飲茶を食べていると、一緒に見ようと誘っていたHも偶然店に入ってきた。空いていた隣の席に座り、少し話す。椅子が固くて患部が痛い。これはいよいよまずいかもしれんと思い、Hと恋人の会話そっちのけでネットで円座クッションを探して買った。早ければ明日には届くはず。

ミスドを出てポレポレ東中野へ向かう途中、Hに私の症状の話をすると「物書きの人は痔によくなるみたいね」とのこと。「朝井リョウもそれで入院していて、エッセイに書いたり病院の個室からラジオ放送したりしてたよ」という。ちょうど朝井リョウの『正欲』を読み始めたところだったので、探して読んでみよう。

 

そうして『親密さ』。映画の内容というより、生々しく記録されている震災直前の2011年の空気に心を奪われてしまった。

映画は韓国と北朝鮮による戦争が起こっている世界線の話だから、正確には記録と言うことはできない。でもその一点を除けばやっぱり2011年で、戦争や政治的なものを語ることへの冷笑的な距離の遠さも、Twitterが新しいものとして注目されはじめた期待感も、LINE以前のコミュニケーションの速度もすべて身に覚えがある。

なんていうか、この10年間で世界が負った傷のことを考えてしまった。東日本大震災ポストトゥルースの政治、コロナの世界的流行。それ抜きでは何も語れないほど世界のかたちを変えてしまった傷が、ここには(まだ)ない。でも、じゃあここに映っている世界が今よりもましかというとそんなことはなくて、この時代ならではの切実さをぎりぎりまで抱えていて、深いところで疲れている(しかも現実と違って戦争も起きている)。登場人物たちも時代の空気に(半分くらいは無自覚に)圧倒されながら、個人的なトラブルを生き抜こうとしている。

そのひりひりとした空気感に惹きつけられたから、個人的には第一部がとても良かった。(言葉を使って)相手の魂に触れることへの問いや倫理が熱を帯びて増殖していくような第二部も良かったけれど。

そしてごく短い第三部のラストシーンは圧巻だった。二人が若い頃何に情熱を傾けたかとか、恋がどうなったとか、今がどんな時代であるかとか、そういうすべてに支えられて輝くシーンではあるのだけど、同時にすべての個人的な生の軌道(や、その重なり)を等しく肯定しているように思える。ごく個人的な必然性に支えられているはずなのに、同時にその必然を失って普遍性に向かって滑っていくような素晴らしさがあった。あのシーンのための4時間半だったとさえ思ったし、生きることも電車のダイヤグラムが一瞬重なりあった誰かに夢中で合図を送る瞬間に支えられているのかもしれない。

 

映画が終わったのは23時過ぎ。映画館を出て、みんなでコンビニでお酒を買って、駅前で少しだけ話す。私の住んでいる町では駅前に人だかりができていると見回りの警官に注意されたりするのだけど、東中野はそういうことはないみたい。いろんなグループがそれぞれ少し離れた場所でぽつぽつと輪を作って、楽しそうに話していた。