ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

2020年3月19日(木)晴れのち雨

 朝から重めの原稿を書く日にしようと先週から決めていたのだけど、月曜日に連絡があって、12時半から取材の予定が入ってしまっていた。集中して一気に仕上げたい性格なので、こうなるともうギアが入らない。「朝早起きしても昼には中断しちゃうし、取材後からやってもどうせ終わらないし……」と思ってしまう。それでも頑張ってやってみるかどうか、朝起きた時の気分で決めようと思っていたのだけど、案の定全然気が乗らなかった。まあだいたいわかってはいた。結局その原稿はあきらめ、休日にまわすことに。代わりに休日にやろうと思っていたこまごまとした仕事を片付けたり、最近落ち込みがちな自分の精神状態をケアしたりすることにする。

 フリーランスになってもう少しで1年が経つけれど、(締め切りや予定さえ守れば)突発的に休めるのはとても楽だと感じる。感覚としては「いつでも休める」ことよりも「いつ働いてもいい」ことのほうが、自分を楽にしているように思う。平日と土日の価値が同じで、火曜日にやる仕事を水曜日にやるみたいに金曜日の仕事を日曜日にできたりすることで、小さな後ろめたさを感じたり、定められた枠組みの中でできない自分を責めたりせずに済むのだ。

 

 午前は休日のように過ごした。昼から有楽町で取材。山手線に乗ってなんとなくディスプレイを見ていたら「高輪ゲートウェイ」の表示があった。山手線の他のものと比べるとかなり長いこの駅名だが、こうして並んでいるのを見ると違和感は感じなかった。

 他の駅名に比べるとかなり長いし、もっと全体のバランスを損なうものだと思っていた。だけど案外普通で、特にデザイン的に苦慮したふうでもなく収まって見える。駅名の反対運動も見ていたし、自分自身、特に良い駅名だとは思わないから、もっと抵抗感があるような気がしていたのだけど……この肩すかしな感じを、どう処理していいのか少し困った。

 高輪ゲートウェイ駅は、今は駅員のAIの男女差が話題を呼んでいる。リアルな3Dの男性、アニメ絵でプライベートな質問にも答える女性という2台の駅員AIが置かれていて、ジェンダーバイアスがかかっているのでは、というものだ。少し調べていると、この件についてJR東日本に取材をした記事が挙がっていた。

 記事によれば、2台のAIはそれぞれ製造元が違い、現在試験的に導入している。たまたま男女が一台ずつになっただけで、特に意図したわけではない。批判は把握している、とのこと。うーん、利用者からすれば製造元が違うとか知らないよという感じだし、2台を試験的に並べたときにどう見えるか考えないことが、バイアスに無自覚ということではないかと思う。

 「たまたまそうなった」というのは、止める人がいなかった、ということでもあるだろう。もともとがジェンダー平等ではない社会では、誰かが意識していないとバイアスのかかったものが世に出てしまう。たまたまだろうと意識的にだろうと、そうなってしまう前に止めることが重要なのだ。もちろん、それはこれからはじめる人にとっては大変なことなのだと思うけれど。これまで自分が当たり前だと感じていたことを疑うのは、最初はうまくできないし、気を抜くとなんとなく慣習に流されてしまうから。私も多分、気づかずに見過ごしてしまっているバイアスがたくさんあるのだろうと思う。

 

 取材を終え、有楽町のあたりをぶらつく。たまたま前を通りがかった「micro FOOD&IDEA market」というカフェが空いていたので入る。昼食をとるつもりはなかったけど、ランチメニューのしらす丼がおいしそうだったので食べることに。久しぶりにしらすを食べたのでテンションが上がったが、食後にちまちま仕事のメールをチェックしたり、家族のLINEに飛んでくる母の心配と愚痴が混ざったようなものを読んだりしていたらすぐに胸のあたりが重くなってくる。ニュースも当然明るいものはなくて、コロナウイルスのことも日に日に事態が深刻化している。世界の外出禁止令のニュースなどを見ているとこんな街中をぶらついていて大丈夫なのかなと思う。

 自分がかかるかどうかではなく自分がうつしてしまわないかを基準に動くことが大切、という言説を最近よく見かける。たしかにそうだなあと思う半面、私の疑心暗鬼になりがちで加害者意識の強い性格とその行動指針は相性が良すぎる(悪すぎる、ともいう)気もしていて、ある程度は意識的にオフにしておかないとストレスをためこんでしまいそうだ。密閉空間、人の密度が濃い、近距離での会話。この3つが重なる場所はさすがに避けようと思いつつ、本音は久しぶりにクラブとか行きたい。

 人と会うくらいはいいかなと思って友人を誘ってみるも、花粉症がひどいらしくNG。「週刊文春読んで心が死ぬ思い」とのこと。読まなきゃと思うけど、知り合いが総じて大ダメージをくらっているので、読むのが怖い。

 

 夕方どうしても我慢できず、最寄駅でマクドナルドを食べた。私はストレスが溜まっていると過食に走る傾向がある。社会人1年目のときも生活リズムが狂ったことと仕事のストレスで体重が一気に増えた。当時はどうしようもなかったが、今はストレスで食べてしまうのだと自覚しているので少しはマシだと思いたい。関連性を自分で把握していれば、多少食べすぎる日があっても仕方ないと思えるし、逆にやたらと食べ過ぎてしまう時はストレスがたまっているのだと気づいて、他の方法で解消することもできるから。今日も原因がわかっていたので、あまり罪悪感を感じずに済んだ。

 

 家で少し本を読み、恋人が帰ってきてから近所の居酒屋へ。二人とも酒を飲みたい気分だった。マクドナルドを食べてから2時間くらいしか経っていないけど、全然食べられる。おでんをつまみながら、株価が下がっているというコロナビールを飲んだ。

 「明日でついにワニくん死んじゃうよ」と恋人。「リプライ欄をみると考察している人がたくさんいて、ネズミ君は死を知ってるんじゃないかって説があるんだよね」と教えてくれるが、個人的にはそういう伏線が張り巡らされていたらちょっと嫌だな、と思ってしまう。私だってこの日記を書いたあと、コンビニに出かける道中で事故にあって死ぬかもしれない。そういう人生のストーリーとは一切関係なく、突然不条理にやってくるものが死だと思うし、陰謀めいたものがないからこそ、『100日後に死ぬワニ』で描かれるささやかな楽しい日々の積み重ねにそれぞれが自分の生活を投影できるのではないかと思う。もしかしたら私も死まであと100日切っているのかもしれないし、それは誰にもわからない。

 隣の席に座っていた男女はずっと食べ物をおいしいおいしいとはしゃぎながら食べていた。こういうお客さんはお店の人から喜ばれるだろうなあと思っていたら、彼らが帰るとき、店主の方から「店先のかごにあるミカン、よかったら持っていってください」と声をかけられていた。

 私と恋人は陰気な話ばかりしていたけれど、帰り際には同じように「ミカン、よかったら持っていって」と言われた。小ぶりな黄色いミカンをトートバッグに入れて、いつの間にか降り出した雨に濡れて帰る。