ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

別の生き物[2022年4月28日(木)晴れ]

GW前ということもあって、朝から締め切り祭りの一日。といってもゼロから書くものはなくて、最終的な仕上げや修正などが中心。午前中は完成度7割ほどの原稿を2本仕上げて、日記を書く。お昼になったら二人分のトマトツナそうめんを作って食べ、午後は原稿の修正、初稿の確認、ややこしいデータの集計。気持ち的にはかなり余裕がなかったけど、思ったよりも手早く終わらせることができた。ほっとして、スーパーへ買い物へ行く。今日の夕飯で足りないものに加え、明日作ろうと思っている豚汁の材料も買う。明日は3回目のワクチン接種。元気がなくても食べやすいかなと思って、豚汁。

2回目の副反応がけっこうきつかったので、今回も重いかもしれないと想定し、土日は何も予定を入れないでいる。本を読んだり、ネトフリ見たりするくらいの元気はあるといいけれど。GW中に消化したい作品がけっこうある。

 

戻ってきて仕事したあと、田亀源五郎『ゲイ・カルチャーの未来へ』を読む。『弟の夫』最終巻が出た2017年の語り下ろし本で、木津毅さんがライター。ずっと積読になっていたけど、最近ゲイ関連の本をよく読んでいて、流れで手に取る。思ってた以上にあっけらかんとしていて、軸がしっかりしているのが語りから垣間見える。アジテーションではなくて「自分は自分、他人は他人」というスタンスが一貫している。ただ、社会問題やアクティビズムには敏感。それは社会が「みんなのもの」だからだろうか。それについて語るときも、「自分ごと」としてだけにならないような言葉が選ばれている。

「ポルノというものはそれがいかに私的な価値観に基づいているかが重要*1」「宗教画がどれだけ否定されても信仰があれば揺らがないように、ポルノも自分の欲情のメカニズムに基づいていたら『あなたがダメだと言っても、私が興奮するんだから仕方ないじゃないか』と批評を拒絶できる」「世間的にタブーかもしれないけど、フィクションの自立性を最大限尊重している」など、印象的な言葉がいろいろあった。特に「日本に同性婚の話題が入ってきた時、多くのゲイは『自分はどうするか』ばかりで、それが他のゲイにとってどんな意味を持つかを考えているように見えなかった。逆にノンケさんたちのほうが、最初から他人事なぶん客観的に物事を見ていたように思える」という指摘はそうかも、と思う。

フィクションの自立性に関しては、たとえばHIV/AIDSの時代に、作中の性描写でコンドームをつけるか? という話で「考えたけど、そもそもハードコアなSMとかタブーばっかり書いているんだし、そこもフィクションだと思ってコンドームはつけなかった」「自分の漫画を掲載しているゲイ雑誌側で注釈を入れることはあったし、そもそも別のページで啓蒙記事などがあったから、自分はフィクションの世界を構築することに専念した」といったことが書かれていた。ただ一方で、『弟の夫』に関しては「HIVを取り上げる気はなかった。この物語の枠で取り上げると、HIVはゲイの病で死に至るという時代に逆行した偏見を再生産してしまう」とも語っている。この考えに至ったのは、『弟の夫』は性的マイノリティを知らない読者が多い青年誌での連載だから=どの場所で表現を行うか、ということもあったのかもしれない(でもHIV=死というイメージは、ゲイメディアで連載するにしても古いか。だけどそのわりにHIVポジティブで普通に生活しているキャラクターって、あんまりフィクションで見たことがない気がする。そんなこともないのだろうか)。

最近はフィクションが現実世界に与える影響が取り沙汰されることが多くて、高い倫理観が要求されることも多い。ただ、「フィクションは現実の認識に影響を与える」というのと、「フィクションも現実である」というのは全然別の話なのだと思う。このへんは議論をする中で線引きがごちゃっとすることも多いし、それがOKかどうかは作中の文脈やゾーニングなどいろいろな要素が絡んでくるから一概には言えないのだけど、根幹にあるのは、読み手の倫理観を信頼できるかどうかという気がする。

さまざまな現実の事件を問題視すれば、信頼できない読み手の存在が浮かび上がり、倫理的でないフィクションは規制する方向へと流れるのだろう。でも、そうやって誰かが傷つく可能性に胸を痛めて、そうならない作品を作ろうと志す人と同じように、読み手との信頼関係の中で踏み込んだ表現を続ける人、それによってフィクションの自立性を保とうとする人も尊い、と思う。

 

あと、最初に書いた「自分ごと」だけにならないように、という点にも通じるのだけど、言葉選びが平易なのがいい。田亀さんのスタンスを、ライターの木津さんがうまく掬い取った成果でもあるのかもしれない。

言葉には意味やリズムと同様に、属性というか、色のようなものがあると思う。その色は語り手や書き手の色とつながり、お互いを染め合う。専門用語やスラング、ネットミームを思い浮かべるとわかりやすくて、「この言葉を使うからこのクラスタ」というのは、やっぱりある。

そしてそうなってしまうと、自分と同じクラスタには響くけど、そうではない人は話の内容をじっくり点検する前にシャッターを下ろしてしまうというようなことが起こる。何かを問題視していて変えたいと思うから言葉にしているのに、届く可能性を自ら潰してしまう。そうならないように、私も自分なりに気をつけるようにしているのだけど(込み入った話になるほどうまくいかないことも多いけど)、田亀さんのこの語りもクラスタ化されないものになっている。あえてそうしているのかもしれないけど、あっけらかんとした語りや考え方から察するに、「感性がそうさせている」という印象。

フラットな(という認識もバイアスを免れ得ないけれど……まあ、出来うる限りの客観的に見る努力はしているつもり)言葉を自然に選べる人は、時代に流されないというか、潮流の中に身を置いても自分で考えることを手放さない人に多いと思う*2。自分の声を聞き続け何よりも大事にする人。これを書きながら私は複数の人のことを思い浮かべていて、そういう人をナチュラルな芸術家だなあと思ったりする。ナチュラルであることがそうでないことよりも優位というわけではないけど。

 

夜はプールへ。4ヶ月近くに及んだ近所のプールの修理が4月になってようやく終わり、代わりに通っていたところからホームへ戻ってきた。ホームのプールは代わりのところよりも水深が浅く、そのせいなのか泳ぐのがかなり楽。水圧が低いからなのだろうか。

最近、もっと上手に泳げるようになりたいと思ってYouTube動画を見たりしていたのだけど、その試行錯誤の中で、体のバランスを崩さないことが何よりも大事だということがわかった。たとえば、前方を見るのではなく、まっすぐ泳げていると信じて首は下に向ける。バタ足は推進力としてではなく、下半身のバランスを取るための尾鰭のようなイメージで、腰から下を一つのパーツとして考える。息継ぎは体勢が崩れやすい(崩すとそれまでできていた推進力を失うし、立て直しにも時間がかかる)ので、極力動きを小さく、回数を減らす。これらを意識するようになったら、ぐっと泳ぐのが早くなった。25メートルプールの対岸にタッチするとき、それまで自分と一体化していた水の流れが体を追い越すのがわかる。この流れに乗れていたんだな、とわかる。その感覚が、自分が水の中の生き物になったように感じられて楽しいのだった。

 

心地よい疲労感とともに帰宅。出かける前に作っておいたなす、厚揚げ、挽肉の和風炒め煮。冷凍庫から発掘された枝豆も入れてみたが、もっと入れてもよかったかもしれない。

 

今日の新規陽性者数は5394人、現在の重症者数は13人、死者4人。

*1:以前AV監督の二村ヒトシさんだったかが、以前は一人の監督の変態性によって一点突破するような画期的な作品が作られることがあったが、会議によって売れる作品が分析され、作られるようになった結果勢いを失った…みたいな話をされていたのと重なるかもしれない

*2:ちなみに自分なんかは書くことを仕事にしているから言葉の使い方に意識的になった結果気づいたというだけで、かなり時代に流されまくり

お店番[2022年4月23日(土)晴れ]

今日は3ヶ月ぶりに吉祥寺ブックマンションの店番の日。期せずして渋谷では東京レインボープライド(TRP)を開催しているということで、直前に自分もなんかやろう、と思って、LGBTジェンダー〜社会運動関連の本(私物)でさらっと読めるものを並べることにした。午前中にざっと読み返して、関連するところにふせんを貼る。

 

本を持っていこうと思ったのはTRPにポジティブな気持ちで連動しているからではなくて、VOGUE Japanで公開された団体の共同代表によるインタビューが当事者を中心に話題になっていたのを見たことが大きい。

主に批判されているのは、TRPがひたすら「ハッピー」な「フェス」であることを全面に打ち出していることに対する「「私たちに人権を」というアプローチをとると身構えてしまう人もいて、当事者を取り巻く環境を変えるためにやっているのに、ややもすると当事者と非当事者の分断を生みかねない。でも、ハッピーな要素には人を巻き込む力があります。」という発言と、「(TRPがはじまった)2012年ごろまではLGBTコミュニティの連帯はなかった」というところ。

後者に関しては単純に歴史を遡ればそんなことはなかろう、とわかる。前者については、一見良いことっぽいのだけど、人権=LGBTQ+の人たちが直面している課題や日常の中の不安、危機を訴えることなしに、私たちってハッピー、という雰囲気でどんなふうに変わるの? あるいは、変わったとしてそれは当事者にとって良い変化なの? 世間が受け入れやすい側面だけが受け入れられて、都合の悪い部分は受け流され続ける=差別的な構造の根っこは変わらないんじゃないの? という批判が挙がっている。私も基本的にはこの批判に同意している。

でもなんかSNSを見ている限り、鮮烈な驚きと怒りによる大炎上というよりは「やっぱりか」という落胆の色が混ざっているように思える。それはお金を持っている企業ブースが大きくなって、地道に活動してきたNPOなどが小さな場所へ追いやられるという近年の資本主義感を増すTRPの動きを知っていれば予想できてしまう発言でもあって、私も記事を読んで感情が大きく揺れ動くことはなかった。

この記事は(好意的に読めば)人権を訴えることがダメとは言っていなくて、まずハッピーな空気、次に人権、という順序の話をしているだけと言えなくもないのだけど、不信感の蓄積がこれまでにあって、好意的に読めなくしている。そしてだからといってTRPのすべてが悪いわけでもなく、重要な機会になっているのも事実なので、みんななかなか言葉が難しいのだと思う。

 

ただ、「人権を」というアプローチで身構えてしまう人がいることは事実だとも思う。そういう人にどうやってわかってもらおうとすればいいのか考えると、そもそもハッピーであれ真面目であれ、雰囲気や動員にどれだけ頼れるのかわからなくなる。それよりは、一対一の緊張を伴う関係のほうが、多くのことをお互いに考えるし伝わるのではないか*1。広い場所じゃなくて狭い場所で、静かにできる方法もあるのではないか。その時、本はすごく良い道具になるのではないか。そう思って、自分なりにできることとしてセブンイレブンでA3ネットプリントしたプログレスプライドフラッグ*2を飾り、ブックマンションの狭い空間に本を並べたのだった。並べる本は短時間で読めるように絵が多かったり、項目が細かく区切られていたりするものをセレクト。そして権利や、ノイズとしての運動の歴史が書いてあるところにふせんを貼る。

 

13時にお店を開けると、すぐに4,5名が来店。緊急事態宣言も明けているし、たくさんの人がきそうだなと思っていたのだけど、その人たちが帰ったらしばらく誰も来ない時間が続いた。案外波がある。最近サボりがちな日記を書いたり、本を読んだりして過ごす。その間にもぽつぽつとお客さんが来る。来た人がみんな私が設置したLGBT本コーナーを見てくれるわけではないが、何人かは今日のために書いたテキストや、本を読んでくれていた。

コーナーの前で誰かが立ち止まってくれるとそわそわして、どんなことを考えているのだろうと緊張する。それは相手も同じかなあと思ってこちらから話しかけることはしなかったのだけど、それだとなかなかコミュニケーションは生まれなかった。正直、もっと大勢の、多様な反応を期待していたからちょっと落ち込みもしたのだけど、まあ次はやり方を変えて、継続してやってみよう。

 

営業は波がありながらも、さっと出ていく人、じっくり1時間近くかけて見ていく人、それぞれの時間の流れが重なっていて良かった。人がいなくなってお菓子でも食べようかと思っていたタイミングで運営の中西さんが来店。同じ時に「にちようだな」さんも来店し、3人で少し話す。二人とも日記祭で出した私の新しいジンを買ってくれた。中西さんは「4月8日までの日記が入っていて、10日のイベントで売りました」という私の宣伝文句をめちゃくちゃ楽しんでくれる。中西さんがいるタイミングで、私が今日自分の棚に補充した雨宮まみと岸政彦『愛と欲望の雑談』が売れたのだが「補充したその日に、しかもお店番してる日に売れるなんてすごいっすね!」と誰よりもテンションが上がっていた(運営なのに!)。

にちようだなさんはLGBTコーナーに置いていた『プロテストってなに? 世界を変えたさまざまな社会運動』を「なかなかない切り口の本ですね」と興味深そうに読んでいる。そのあと、お互いのジン制作について情報交換をしたりして、30分くらい?人のいない店内で話した。

お店番をするとお客さんとのちょっとしたコミュニケーションはいろいろあって、コロナで全然出かけていなかった去年からすればそれだけでも十分貴重なのだけど、最近は欲が出て「新しく人と仲良くなりたい」と常々思っている。だからこうして30分とか、まとめて話ができる時間があってすごく良かった。あとお客さんでも、買っていかれる本が自分が読んだことのあるものだと「これいいですよ!」とか、一言言いたくなる。テンションとか雰囲気で言わないことも多いのだけど、その欲求が高まっているのは感じていて、なにか新しい関係を欲しているんだなあと思う。

 

17時ごろににちようだなさんが帰って、人のいない店内でお菓子。以前は17時までの営業としていたのだけど、今日は19時まで開けてみた。18時台に来店が重なり、開けていてよかったと思う。19時になり、クローズ作業をして外に出る。ブックマンションは地下にあるので店内は微妙に寒かったのだけど、外は空気が生ぬるかった。夏の気配。良い季節がまたやってくる。

 

今日の新規陽性者数は5387人、現在の重症者数は14人、死者4人。

*1:そう考えると、やはりTRPでやるべきは企業ブースを大きくすることではなくて、日々活動を続けている知見の豊富なブースに多くの人が来られるようにすることだと思う

*2:プログレス〜にせよレインボーフラッグにせよそうなのだけど、高画質のものが意外とネット上になく、フォトエージェンシーが販売しているのも腑に落ちなかった……なんで活動のために生み出された旗が「商品」になっているんだろう。ムカついたので私はWikimediaこちらのページからダウンロードし、フリーのサイトで変換してプリントできるようにしました

新しい日記など

本当は今週どこかで日記を書いて、そこでついでにジンについても補足的に紹介したいと思っていたのに、なんだか全然書けないまま一週間が経ってしまった。誰にも見せない日記はEvernoteにつけ続けているけど、感情に触れることができずにいて、起こったことを急ぎ足で書いているだけだ。かといって来週も色々あっていつ書けるかわからない。なので変則的ですが、こちらの記事で宣伝を。

 

日記祭で出したジン『四月の一週間とちょっと(仮)』はこちらで買えます。4月1日〜8日+αの日記。500円28ページとお手頃なので、気が向いた方はどうぞ。10日の日記祭に向けて内容をあれこれ考えたりもしているので、自分の日記をジンにしてみたいと思っている人にも少しは参考になるのではないか…と思います。いや、具体的なことは書いていないからならないかな。でも「ちょっとやってみようかな」の背中を押す内容ではあるはず!

awapress.booth.pm

 

あと、23日(土)に吉祥寺ブックマンションで久しぶりに店番をします。こちらでも新しい日記を売ろうと思うので、よければ遊びにきてください。

日記祭[2022年4月10日(日)晴れ]

これまでに出した日記本と、昨日製本したばかりの新刊を持って家を出る。天気がいいし、休日の下北沢BONUS TRACKはいつも人が多いし、日記祭は日記を作っている人だけが出展する珍しいイベントだから「買うぞ~」という気分で来る人が多そうだし、けっこう売れそうな気がするけどどうなんだろう。読めないので、とりあえず多めに持っていく。新刊は薄いので、たくさん持っていっても荷物が重くならないのが気楽。

 

集合時間の10時50分ちょうどに着いて、みのるんと一緒に出展準備。水筒にペットボトルのお茶を移し替えた。何ヶ月か前から体温が上がると体中がかゆくなるのだけど、冷たい水を飲むと少し楽になる。今朝その話をしたら、恋人が水筒に氷を満たして持たせてくれたのだった。

屋外でのイベントで気温も高くなりそうなので、ブースで悶絶することになったら嫌だなあと不安だったのだけど、不思議と今日はほとんど発症しなかった。汗をかいた時や深部体温が上がる時にかゆくなりがちなものの必ず発症するわけではなく、いまだに法則が掴めない。

 

自分のブースの準備ができたら、その時点でなんとなくスタート。私のブースは動線から少し外れていたので油断していたけど、はじまってすぐに一冊、また一冊と売れていく。訪れる人は日記祭を見に来た人、来たらたまたまやっていたので寄った人などさまざま。知り合いもたくさん来てくれて、文フリよりも知り合いやなんとなく面識がある人とよく会った気がする。それからこのブログを読んでいるという人や過去の日記を持っている人が少なからずいて、実際に会って短くでも言葉を交わせたのがうれしかった。ありがとうございました。

 

他のイベントだと、「なんで日記売ってるんですか?」と不思議がられたり、説明してもあんまり理解されなかったりして温度差を感じることもある。だけど日記祭ではそれがなくて、どんな日記なんですか、からはじめられるのが気楽でよかった。初開催のイベントなのにかなりホーム感が強かったのは、こういう理由もあったのかもしれない。

 

ブースに立ち寄ってくれた方には、新作を「一昨日までの日記です」と紹介していた。そのたびに皆さん驚いたり笑ったりしてくれてうれしかった。イベントが終われば、昨日急いで作ったことは別になんでもなくなってしまう。この日この場所に来た人だけの「その日性」みたいなものを共有したかったし、それは日記的でも祭り的でもあると思っていた。*1

あと、これはイベント中に気づいたことで、500円という金額や28ページという薄さは心理的にかなり売りやすい。これまでの日記本は二段組みで170ページ前後、価格も1000円と安くはなかったので、売る時にどこか遠慮があった。500円、かつコーヒーを一杯飲む間に読み切れる分量だと、こちらも気楽に勧められる。やっぱりラフにやっていくほうが今の自分には合っているんだなと、新作のあとがき(という立て付けのある日の日記)に書いたことを確かめるように思う。

 

最高気温が25度近い暑い日で、いつも部屋の中にばかりいるので普段と違う疲れ方をした。ANDONのおにぎりセットを食べた昼過ぎ、かなり眠くなる。BONUS TRACKにはおいしそうな店が多く、ビールを飲みたくなったけど、今飲んだら寝てしまうので確信があった。我慢してアイスカフェラテ。カフェインを摂取しつつ、糖分で頭を働かせようと普段使わないガムシロップを入れる。

17時にイベント終了。思ったよりずっと軽くなったカバンでBONUS TRACKを後にする。ずっと外で日光を浴びていた(日よけはあったけれど)からなのか、なんとなく肌が突っ張った感じに。海水浴の帰りの感じに似ていると思う。日焼けの微かな痛みと、なにかが付着しているような粉っぽい感じ(それは海なら潮風で、今日なら花粉とかだろうか)。心地よく疲れた体で坂道を下る。そして我慢していたビールを飲みに居酒屋へ。

 

今日の新規陽性者数は8026人、現在の重症者数は29人、死者0人。

*1:とはいえ遠方だったり都合がつかなかったりして来られない人もいたと思うので、追って通販もします。準備できたら告知しますね。「その日性」を感じながら手にとってもらえたら。

空席[2022年4月3日(日)雨]

お昼から荻窪へ。今作っている日記は表紙をリソグラフで印刷するので、中野活版印刷店で試し刷りをしてもらう。これまでの日記でもデザインをお願いしているみのるんが何パターンかデータを用意してくれて、薄い緑と濃い緑、二種類の紙に試し刷り。紙とインクのいろんな組み合わせを比較する。途中リソグラフの説明もしてもらい、みのるんは興味深そうに聞いていた。私は詳しいことはわからないけど、なんとなく仕組みを把握して、なるほど〜と思う。自分たちでセルフプリントするのも楽しそう。
データよりもずっと華やかな色合いと、印刷面の絶妙な表情にはしゃぐ。紙の色は薄い方が良さそうだねと、二人とも意見が一致した。インクはこの試し刷りをもとに、みのるんがもう一度持ち帰って調整してくれる。私は私で本文の制作を頑張ろう。

それから『表現の不自由展・東京2022』を見るため国立へ移動。完全入れ替え制のため、駅前のサイゼリヤで時間を潰す。みのるんは一時間早い回を予約していたので先に出て、私は同じ回を見る予定のなかのさんと赤坂さんを待つ。到着した赤坂さんから「この街、はじめて来たけど雰囲気いいですね〜」とLINE。私は取材で去年来たことがある。国立には大学がたくさんあって、街並みはドイツの学園都市ゲッティンゲンをモデルにしているという、その時に話を聞いたことを思い出す。そういえば、このサイゼリヤも若者ばかりだ。いくつかのテーブルからはにぎやかな韓国語も聞こえる。学校とかがあるのだろうか。
二人と合流して、バスでくにたち市民芸術小ホールへ。大通りの両脇に植えられた桜並木が綺麗。昼よりも強い雨の中、傘を差して会場へ向かう。付近には警察が配備され、入り口では空港にあるような金属探知機のゲートをくぐり、液体や傘などはギャラリー内に持ち込めないようになっているなど警戒態勢だった。初日となった昨日は保守団体によるデモや街宣車も来たそうだけど、今日は見当たらず。会場に入れば静かで、誰もが熱心に作品を見て、解説を読んでいた。
なんらかの検閲・規制を受けて展示を拒否された作品たちが並ぶ。制作時に作者が込めた意図(①)と展示を拒否されたことで生じた意味(②)、その二つが作品の上で重なり合っている。この展示は②によって作品が集められていて、それゆえにセンセーショナルに思えるのだけど、実際に作品と向き合って①の意図を手繰り寄せようとしてみれば、どれもすごく純粋で素朴。だからこそなぜこれが規制されるのか、皮肉ではなく率直に不思議だった。
展示を拒否された理由はさまざまだけど、行政や施設の職員側の忖度によるものが案外多かった。激しい拒否反応や明確な意志を持った検閲で取り下げになったものが多いと勝手に思っていたから、少し意外。でも言われてみれば、それこそ日本的な不自由かもしれない。空気を読んだなんとなくの自主規制。真綿で首を絞めるような息苦しさに、作品と作家は正面から鉄球を撃ち込むみたいに抵抗する。漠然とした「空気」の存在が炙り出され、自分自身も少なからずその空気を内面化していることに気づかされる。
キム・ソギョンとキム・ウンソンの《平和の少女像》も展示されていた。見てみると少女の像が作品のすべてではなく、そばに置かれた一脚の椅子が重要だと気づく(椅子には自由に座ることもできる)。椅子に座ってみる。どんな顔でいればいいのか戸惑いながら、隣に座る少女像をこれまでと違う角度から眺める。実態としての存在が近くにあると、自分が持ち合わせていた概念的な理解がもろく、大した意味を持たないものに感じられた。
あいちトリエンナーレ2019で起こったトラブルの報道では、少女の像が映されることが多かったように記憶している(さらにクローズアップして、「顔」だけを映したものもあった)。でも、それは問題を少女(たち)に還元してしまうかもしれないし、空席にこそ目を向けるべきだったのだと思った。隣に座ってみること、誰かが座る姿を思い浮かべること。その時、胸に湧き上がるものは何か。

時間いっぱいかけて見て、再びバスで駅前へ戻る。みのるんと合流し、お店を探して雨の中を四人でうろうろ。ファミレス、チェーン店などが候補に挙がりつつ、結果的に雰囲気の良い小さな居酒屋に入ることができた。里芋の春巻きなど変わったメニューがあってどれもおいしい。九時くらいまで飲んで、早めに帰宅。駅で閉じた折りたたみ傘に桜の花びらが貼りついていた。この雨でだいぶ散ってしまうのかもしれない。

今日の新規陽性者数は7899人、現在の重症者数は31人、死者9人。


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先日もちょっと紹介しましたが、4月10日に下北沢のBONUS TRACKで開催される「日記祭」に出展します。イベントに合わせて『四月の一週間とちょっと(仮)』という新作を作っていて、ここ数日は毎日日記を書いてはいたものの、こちらには掲載していなかった。

収録している日記の期間は4月1日から8日+α(今日の日記も入ってます)、28ページ500円です。
色々とイベントもあるし、日記本を作っている人がたくさん集まるこれまでにないイベントなので、日記好きな方はお時間あればいらしてください〜。お待ちしています。
※少しだけになるかもしれませんが、日記本はそのうち通販もする予定です!

連続性[2022年4月1日(金)雨のち晴れ]

窓の外から静かな雨の音が聞こえていた。昨日の夜、部屋で本を読んでいた時にも同じ音を聞いたことを思い出す。音の連続性の中で、昨日と今日が、三月と四月が地続きであることを理解する。

高校二年生の時まで春になるというのがどういうことなのかよくわかっていなくて、なんとなく雪が溶けるとか(小さい頃は豪雪の富山県に住んでいた)、桜が咲くとか、記号的なものだけで春の訪れを認識していた。それが覆ったのが高二の時で、バス停から家へと帰る坂道をのぼりながら、日差しのあたたかさや空気のゆるみ、景色が色を取り戻して見えることといった複合的な知覚によって、「春の中にいる」とはじめて実感したのだった。季節の解像度がぐんと高まって、それまで見過ごしていたものが一気に見えるようになるのは衝撃的な体験で、今でもよく覚えている。

こうした解像度が上がる体験は社会人一年目の頃にもあった。通勤ラッシュの朝、慢性的な遅延によってのろのろとしか動かない中央線の車窓から四ツ谷の土手を眺めていたら、黄色や紫の花がたくさん咲いていた。よく見ると、土手を覆う雑草も一つ一つ個性がある。それまで春といえば桜でピンク、みたいに単純なイメージを抱いていたけど、本当はもっとたくさんの色やかたちが押し寄せるような季節だったのだ。動かなくなってしまった電車の中でその荒々しさを目の当たりにして、雷に打たれたようになったことを覚えている。

そうして、私の春への理解は段階的に変化してきた。もうこんな風に電撃的に、それ以前と以後で別物になるような瞬間は訪れないんじゃないかと思っているけど、だからといって春への理解が確立できたわけではない。近年は点的ではなく線的というか、鮮やかな瞬間ではなく時間の中で季節への理解を深めていると思う。それはたとえば満開の桜ではなく蕾から花、そして葉桜へというプロセスに着目することだったり、三寒四温の周期に合わせて服装を調節することだったりする。だから今朝の冷たい雨も、それ自体は冬に似ていても、連続性の中で捉えれば春らしさの一部なのだった。

 

食欲が湧かず、何も食べないでコーヒーだけ淹れて仕事をはじめる。短い原稿を一本。途中でお腹が空いてきたのでコロッケを食パンにのせて食べる。食パンもコロッケも消費期限を数日過ぎていたが、鼻を近づけていけると判断。食パンの残りは袋ごと冷凍する。これだけだと味気ないかなと思ってスライサーでキャベツを千切りにしてのせると、一気にそれっぽくなった。消費期限は切れているが一手間はかける。雑さと丁寧さの共存。

夕方まで引き続き作業。原稿を一本編集して、仕事の資料を読み進める。それからプールへ。いつもよりも早い時間だったからか人がほとんどおらず、貸切のような時間帯もあった。快適だけど大して泳ぎが上手なわけでもないので気恥ずかしくもある。私が泳いでいないと監視員の人が虚空を見つめることになってしまうのではないかと思って、インターバルを短めにするなど落ち着かなかった。1700メートル。

 

一度家に戻って夕飯をどうしようか考える。今日は珍しく恋人がいないので、自分のことだけを考えればいい。夕飯の用意の必要も、約束も予定もない夜が久しぶりな気がして、どう過ごしていいのか迷う。せっかくだから外食したいけど食べたいものが特に思い浮かばず、時間も持て余してしまったので銭湯へ行くことに。道中、思っていたよりも気温が低くて体が冷えた。熱い湯船が心地いい。その心地よさに身を委ねるうち、これはビールだな、ということは居酒屋だな、恋人と一緒だとあまり行かないしそういう意味でも良いな、と方向性が定まっていった。

下駄箱から靴を取り出し、振り返ったら知り合いの編集者のSさんがちょうど入るところだった。「よく来るんですか」「たまーにですねー」といった雑談や、今進めている仕事の話を少しして別れる。金曜の夜の街はにぎやか。まん防が解除されて10日ほどだけど、感染が再拡大しているとニュースで聞いた。

 

今日の新規陽性者数は7982人、現在の重症者数は30人、死者9人。

 

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4月10日に下北沢のBONUS TRACKで開催される「日記祭」に出展します。私はこれまでに作った日記ZINEに加えて、『四月の一週間とちょっと(仮)』という新作も持っていく予定。(仮)まで含めて正式タイトルです。ブース番号は7番。今日の日記や開催日直前までの日記をまとめようと思っているので、お時間のある人はぜひ! トークイベントもおもしろそうです。

わかる、歩く[2022年3月26日(土)曇り時々雨]

朝、ベッドの中で千葉雅也『現代思想入門』読み進め。評判は聞いていたけれど、たしかにこれはかなりすごい本。私は「今年ベスト」みたいなことを考えたり言うのが苦手なのだけど、今年出た本で誰かに一冊だけ勧めるとしたらこの本を勧めるのではないかと思う。まだ3月だけど、年末までずっとそうである予感がある。

自分には手に負えない気がして正直あまり体系的に学んではこなかった現代思想の哲学者たちの言葉が、大掴みではあるがちゃんと理解できる。千葉雅也さんの文章は腹落ち感があるというか、身体性をともなった「わかる」感覚が魅力だと思っているのだけど、その持ち味が存分に発揮されている。

難しい本が読めずに挫折することや、力不足かもと思って避けることは悔しいことで、その悔しさがより読むことを遠ざける。でもこの本では「わかる」という小さな成功体験を積み重ねていけるので、とにかく読んでいて楽しい。何かを理解し、世界の見え方が変化していくことの喜びがある。

もちろんこれだけですべてをわかった気にならないよう注意する必要はある。でも、わかった気にならず、でもだいたいわかっている、という態度は両立するだろう。この本の語り口自体が「必ずしもすべてわかっていなくても、話し始めることはできる」という明るさに裏付けられているものだし、そうした不完全さ、不明瞭な部分の捉え方は、実は現代思想の哲学者たちの思想ともリンクしている(もちろん、そこには千葉さんならではの解釈も含まれているのだと思うけど)。

それにしても私がぐるぐる考えて答えが出ないと思っていたことや、今日的なテーマだと思っていたこともすでにドゥルーズやらフーコーやらが考えていたんだな。自分が壮大な回り道をしていたことがはっきりするようで恥ずかしいのだけど、まあ反省はそこそこにして、次からちゃんと使っていけばいいと思う(ことにする)。

 

午前中に恋人と一緒に駅前のパン屋で朝食。私はそのまま電車に乗って、まず新宿の本屋で新刊をチェックする。電子書籍で読むことが多くなってしまって、大きな本屋に行くのも久しぶりだった。そうしていると12時で、まだお腹も空いていなかったのでプールへ。2100メートル泳いで、上がったあともあまり疲れていなかった。先日行った時は体が重くて1000メートルしか泳げなかったのでえらい違い。いつもは夕方だけど、昼に行ったのがよかったのかもしれない。早い時間のほうが明らかに疲れていなくて、たくさん元気に泳げる気がする。

 

それから代々木八幡へ移動。同じく新刊チェックのため、久しぶりにSPBSへ行ってみる。代々木八幡から渋谷駅へ向かう途中の「奥渋谷」と呼ばれているようなこの一帯、前はこんなに人が多かったかなと驚く。春らしい服装の若い人がとにかく多い。SPBSもかなり賑わっていた。しかしどんどん本のスペースが少なくなっている気がしないでもない。ちょっと寂しいなと思いつつ、自分も韓国の食器フェアみたいな一角で売られていたソジュ(韓国焼酎)グラスを手に取った。ムラサキ色の木蓮が2輪描かれていて、透明なお酒を注いだらきれいだろうなと思った。他にはリトルプレスや、オカヤイヅミ『いいとしを』など購入。

 

もう16時近かったけれど、なんとなくお昼ご飯を食べ損ねてしまっていた。文字通り店の外まで人が溢れているようなFUGLEN TOKYOや、「かかん」という鎌倉で人気の麻婆豆腐屋さんが4月にできるという張り紙を見ながら、駅のほうへ戻る。この時間だとランチは終わってしまっているし、意外なほどお腹が空いていなくて何が食べたいのかわからなかった。そのうち代々木上原駅にサブウェイがあったことを思い出し、代々木八幡を通り過ぎて上原まで歩く。去年の後半は通院のためによく来たなあと思い出して、少しだけ懐かしい。サブウェイでサンドだけさっと食べて家に帰る。よく歩いた一日だった。

 

今日の新規陽性者数は7440人、現在の重症者数は35人、死者18人。