ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

別の生き物[2022年4月28日(木)晴れ]

GW前ということもあって、朝から締め切り祭りの一日。といってもゼロから書くものはなくて、最終的な仕上げや修正などが中心。午前中は完成度7割ほどの原稿を2本仕上げて、日記を書く。お昼になったら二人分のトマトツナそうめんを作って食べ、午後は原稿の修正、初稿の確認、ややこしいデータの集計。気持ち的にはかなり余裕がなかったけど、思ったよりも手早く終わらせることができた。ほっとして、スーパーへ買い物へ行く。今日の夕飯で足りないものに加え、明日作ろうと思っている豚汁の材料も買う。明日は3回目のワクチン接種。元気がなくても食べやすいかなと思って、豚汁。

2回目の副反応がけっこうきつかったので、今回も重いかもしれないと想定し、土日は何も予定を入れないでいる。本を読んだり、ネトフリ見たりするくらいの元気はあるといいけれど。GW中に消化したい作品がけっこうある。

 

戻ってきて仕事したあと、田亀源五郎『ゲイ・カルチャーの未来へ』を読む。『弟の夫』最終巻が出た2017年の語り下ろし本で、木津毅さんがライター。ずっと積読になっていたけど、最近ゲイ関連の本をよく読んでいて、流れで手に取る。思ってた以上にあっけらかんとしていて、軸がしっかりしているのが語りから垣間見える。アジテーションではなくて「自分は自分、他人は他人」というスタンスが一貫している。ただ、社会問題やアクティビズムには敏感。それは社会が「みんなのもの」だからだろうか。それについて語るときも、「自分ごと」としてだけにならないような言葉が選ばれている。

「ポルノというものはそれがいかに私的な価値観に基づいているかが重要*1」「宗教画がどれだけ否定されても信仰があれば揺らがないように、ポルノも自分の欲情のメカニズムに基づいていたら『あなたがダメだと言っても、私が興奮するんだから仕方ないじゃないか』と批評を拒絶できる」「世間的にタブーかもしれないけど、フィクションの自立性を最大限尊重している」など、印象的な言葉がいろいろあった。特に「日本に同性婚の話題が入ってきた時、多くのゲイは『自分はどうするか』ばかりで、それが他のゲイにとってどんな意味を持つかを考えているように見えなかった。逆にノンケさんたちのほうが、最初から他人事なぶん客観的に物事を見ていたように思える」という指摘はそうかも、と思う。

フィクションの自立性に関しては、たとえばHIV/AIDSの時代に、作中の性描写でコンドームをつけるか? という話で「考えたけど、そもそもハードコアなSMとかタブーばっかり書いているんだし、そこもフィクションだと思ってコンドームはつけなかった」「自分の漫画を掲載しているゲイ雑誌側で注釈を入れることはあったし、そもそも別のページで啓蒙記事などがあったから、自分はフィクションの世界を構築することに専念した」といったことが書かれていた。ただ一方で、『弟の夫』に関しては「HIVを取り上げる気はなかった。この物語の枠で取り上げると、HIVはゲイの病で死に至るという時代に逆行した偏見を再生産してしまう」とも語っている。この考えに至ったのは、『弟の夫』は性的マイノリティを知らない読者が多い青年誌での連載だから=どの場所で表現を行うか、ということもあったのかもしれない(でもHIV=死というイメージは、ゲイメディアで連載するにしても古いか。だけどそのわりにHIVポジティブで普通に生活しているキャラクターって、あんまりフィクションで見たことがない気がする。そんなこともないのだろうか)。

最近はフィクションが現実世界に与える影響が取り沙汰されることが多くて、高い倫理観が要求されることも多い。ただ、「フィクションは現実の認識に影響を与える」というのと、「フィクションも現実である」というのは全然別の話なのだと思う。このへんは議論をする中で線引きがごちゃっとすることも多いし、それがOKかどうかは作中の文脈やゾーニングなどいろいろな要素が絡んでくるから一概には言えないのだけど、根幹にあるのは、読み手の倫理観を信頼できるかどうかという気がする。

さまざまな現実の事件を問題視すれば、信頼できない読み手の存在が浮かび上がり、倫理的でないフィクションは規制する方向へと流れるのだろう。でも、そうやって誰かが傷つく可能性に胸を痛めて、そうならない作品を作ろうと志す人と同じように、読み手との信頼関係の中で踏み込んだ表現を続ける人、それによってフィクションの自立性を保とうとする人も尊い、と思う。

 

あと、最初に書いた「自分ごと」だけにならないように、という点にも通じるのだけど、言葉選びが平易なのがいい。田亀さんのスタンスを、ライターの木津さんがうまく掬い取った成果でもあるのかもしれない。

言葉には意味やリズムと同様に、属性というか、色のようなものがあると思う。その色は語り手や書き手の色とつながり、お互いを染め合う。専門用語やスラング、ネットミームを思い浮かべるとわかりやすくて、「この言葉を使うからこのクラスタ」というのは、やっぱりある。

そしてそうなってしまうと、自分と同じクラスタには響くけど、そうではない人は話の内容をじっくり点検する前にシャッターを下ろしてしまうというようなことが起こる。何かを問題視していて変えたいと思うから言葉にしているのに、届く可能性を自ら潰してしまう。そうならないように、私も自分なりに気をつけるようにしているのだけど(込み入った話になるほどうまくいかないことも多いけど)、田亀さんのこの語りもクラスタ化されないものになっている。あえてそうしているのかもしれないけど、あっけらかんとした語りや考え方から察するに、「感性がそうさせている」という印象。

フラットな(という認識もバイアスを免れ得ないけれど……まあ、出来うる限りの客観的に見る努力はしているつもり)言葉を自然に選べる人は、時代に流されないというか、潮流の中に身を置いても自分で考えることを手放さない人に多いと思う*2。自分の声を聞き続け何よりも大事にする人。これを書きながら私は複数の人のことを思い浮かべていて、そういう人をナチュラルな芸術家だなあと思ったりする。ナチュラルであることがそうでないことよりも優位というわけではないけど。

 

夜はプールへ。4ヶ月近くに及んだ近所のプールの修理が4月になってようやく終わり、代わりに通っていたところからホームへ戻ってきた。ホームのプールは代わりのところよりも水深が浅く、そのせいなのか泳ぐのがかなり楽。水圧が低いからなのだろうか。

最近、もっと上手に泳げるようになりたいと思ってYouTube動画を見たりしていたのだけど、その試行錯誤の中で、体のバランスを崩さないことが何よりも大事だということがわかった。たとえば、前方を見るのではなく、まっすぐ泳げていると信じて首は下に向ける。バタ足は推進力としてではなく、下半身のバランスを取るための尾鰭のようなイメージで、腰から下を一つのパーツとして考える。息継ぎは体勢が崩れやすい(崩すとそれまでできていた推進力を失うし、立て直しにも時間がかかる)ので、極力動きを小さく、回数を減らす。これらを意識するようになったら、ぐっと泳ぐのが早くなった。25メートルプールの対岸にタッチするとき、それまで自分と一体化していた水の流れが体を追い越すのがわかる。この流れに乗れていたんだな、とわかる。その感覚が、自分が水の中の生き物になったように感じられて楽しいのだった。

 

心地よい疲労感とともに帰宅。出かける前に作っておいたなす、厚揚げ、挽肉の和風炒め煮。冷凍庫から発掘された枝豆も入れてみたが、もっと入れてもよかったかもしれない。

 

今日の新規陽性者数は5394人、現在の重症者数は13人、死者4人。

*1:以前AV監督の二村ヒトシさんだったかが、以前は一人の監督の変態性によって一点突破するような画期的な作品が作られることがあったが、会議によって売れる作品が分析され、作られるようになった結果勢いを失った…みたいな話をされていたのと重なるかもしれない

*2:ちなみに自分なんかは書くことを仕事にしているから言葉の使い方に意識的になった結果気づいたというだけで、かなり時代に流されまくり