ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

2020年3月9日(月)曇りのち晴れ

 6時に目覚ましをかけていたが起きられず。眠くはないのだけど気圧の影響もあるのか落ち込んでいて、朝から精力的に活動する気力がなかった。アラームが鳴っては止めるのを細切れに繰り返し、8時頃に起床。身支度をして、9時頃に家を出る。

 

 月曜日は週に2回の会社へ行く日。いつもは15分弱歩いてS駅から行くことが多い。通勤時間は長くなるが新宿駅での乗り換えを避けられるし、電車もこころなしか空いていてストレスが少ないから。でも、今日はなんとなく最寄り駅から行ってみる。早起きできなかったので気持ちが焦っていて、数分でも早く会社に着きたかったのだと思う。

 9時過ぎの総武線はしっかり満員。リモートワークや時差出勤が推奨されているので空いているのではないかと期待していたが、そんなに甘くはなかった。やっぱり歩けばよかったと後悔しつつ、無数の人の体と一緒に詰め込まれる。

 

 車内では現代ビジネスの記事”男性は「見えない特権」と「隠れた息苦しさ」の中で、どう生きるか”を読んだ。

 この記事の前半はイギリスのアーティスト、グレイソン・ペリーの著書『男らしさの終焉』のレビューをベースにしたもので、社会は「デフォルトマン(それぞれの社会におけるマジョリティで、社会構造の中で不便を感じずに済む人のこと。イギリスであれば異性愛者ミドルクラスの白人男性)」に都合がいいように作られていること、その中で男性たち同士が競い合い、自分たちも疲弊してしまうことなどを、本の内容や著者の体験から論じている。そして、本の中ではこうした「男らしさ」が社会や個人にネガティブな影響をもたらしていること、旧来的な男らしさにとらわれず、進歩的な「新しい男性像」を目指すべきという指摘がなされていることを紹介している。

 

 ここまではわりと男性学の本を読むとよく書かれていることだと思う。つまりとても大切で基本的な考え方ということなので広く知られてほしいのだけど、この記事ではさらに一歩踏み込む。「新しい男性像」という考え方には、「古い男性像」と対立させ、「俺は進歩的な人間だ」「俺は”わかってる”から差別をしない」という意識を生む懸念があるというのだ。

 そういえば以前も、家事や育児を積極的に行う男性の心理的な背景には「女性より優れていたい」という競争意識が働いているケースがある、という文章を読んだことがあった。その時も「難しいな……」と思ったけれど、こうしたことはゲイである私自身にも身に覚えがある。

 私は男性で、生活の中で国籍や見た目で差別をされたことがない。ゲイではあるけれど、「デフォルトマン」としての属性も多く持っているのだ。

 マイノリティの属性を有しているから、差別される人の気持ちに気づきやすいことはあると思う。でも、自分のマイノリティ性にあぐらをかいて、わかった顔をしたり、「男らしさ」を発揮している人を過剰に見下したりした瞬間はなかっただろうか。……多分あったし、これからも定期的にやらかす気がする。そう考えると、なんだか常にはらはらして落ち着かない。ただ、この「落ち着かない感じ」こそが重要なのだとも思う。

 落ち着かない状態は気持ち悪いから、私たちは生理的な感覚として落ち着きを目指そうとする。それは個人的なレベルであれば普通のことなのだけど、社会的に考えると「私が落ち着くこと」は特にゴールとは関係ない。むしろ落ち着かないでいることが、社会の可変性の鍵にさえなる。

 この二つのせめぎ合いの中でやっていくのだから、緊張もするし、言い訳がましいかもしれないけどそりゃやらかすこともあるよね、と思う。こんな風に言えるのは、私がこの問題で誰かを本気で傷付けた記憶がないからかもしれないと思うとまたぞっとするのだけど……とはいえ「絶対にやらかさない」とどれだけ固く決意していても、取り返しのつかないことをやってしまう時というのはある。そうなる可能性を少しでも減らすためにも、「落ち着かない状態こそがデフォルト」という感覚を自分の身に染み込ませるのが良さそう、と思った。

 

 10時過ぎに出社して、今日が提出日の請求業務や、おおむね完成していた原稿の最終調整を2件ほど。それから社内の全体会議。自分に関係ない話をしているときにぼーっと窓を見ていたら、ふともう春だなあと思った。去年や一昨年の春、この会社で過ごしたある一日のことにはじまり、薄手のコートで歩く身軽さ、花冷えの夜、親しい人たちと桜を見たこと、花粉症の薬でまどろむ感じ、いろいろ思い出す。頭の中にこの季節の記憶が無数にあって、それが芽吹くように思い出されると、春が来たと思う。

 

 17時過ぎ、食事を摂ろうと外に出たらあたたかかった。