ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

正しいこと[2022年7月28日(木)晴れ時々曇り]

思ったように仕事が進まず疲れぎみのまま木曜日。波にあおられて、頑張っているのに速く泳げない時に似ている。毎日やると決めたところまでは終えているものの、遅くまで仕事しないと終わらない日が続いていた。今日着手予定の原稿は昨日まで取り掛かっていた仕事に比べればやさしいだろうか。

午前中にざっくりアウトラインを作って、お昼前にスーパーと銀行。帰ってきて明太うどんを食べ、原稿を頭から見直していく。期待した通り滞りなく進めることができてほっとする。久しぶりに予定よりも早く仕事が終わった。

 

Twitterで、友人が自宅療養中のできごとをつぶやいている。面白く書いていたので笑い、そのままタイムラインを流し見していたのだけど、さっきのつぶやきがどこか引っ掛かる。あれ、もしかして買い物とか行けてない感じ……? 実は困っていたりするのかもと思い、「なんか買って家まで届けましょうか?」とLINEに打ち込む。

送信する前、家に届けようとするのは唐突だろうかと考えて手が止まる。なんというか、「自分らしくない」感じ。たとえば私は電車で席を譲る時もとっさに動けないことのほうが多くて、そういう時は自分の隣に座っていた人がさっと立ち上がって譲ったりするので、一人でバツが悪い気持ちになっている。とっさに動ける時もあるけど、そうできた時はいつも自分が自分でないような感覚になる。

根本的に、自分が誰かと関わることでその人がうれしい気持ちになるという感覚が薄い。失望させたり怒らせたりするイメージばかりが浮かぶのをいつも全力でかき消して、おそるおそる関わろうとしている。傷つけたくないのではなく、それによって自分が傷つくのが怖いのだという自覚もある。

意外なことするのって勇気がいるなー。そうやってしばらく躊躇していたのだけど、だんだん私が言っている「自分らしさ」ってなんなんだろうと思いはじめる。ようはそのほうが落ち着くということなんだろうけど、落ち着くからなんなのか。それがとっさに思い浮かんだことを切り捨てる方向に働くなら、自分で自分を枠に押し込めていることになる。何かもっと、自分の直感を信じた方がいい。即時的な判断には間違いも多いから踏みとどまって考えることも必要だけど、私が思うほど間違いばかりではないし、大切なことも含まれている。えいっと送信。しばらく既読つかず。

 

少しずつ読み進めていた『私とあなたのあいだ ――いま、この国で生きるということ』読了。作家の温又柔さんと木村友祐さんによる、平成の終わりから東京五輪が行われる予定だった2020年の夏までの往復書簡。お二人が自分のマジョリティ性とマイノリティ性を足がかりにして、さまざまな想像力を働かせていく。誰かの立場に自分を重ねることと、決して同じではないと(相手を尊重するために)線を引き、葛藤し続ける。いつでも弱い立場にある人の側に立ち、そうでない側へ回ろうとする内面の動きがあれば正面から見つめる。インターセクショナリティやネガティブ・ケイパビリティの実践のようだと思った。本の中には直接こうした単語は出てこず、お二人が思考の中で掴み取った言葉で語られている。でもだからこそ、複雑な現実を見据えようとすれば必然的にこうした考えにたどり着くのかもしれないと思えた(もちろん、他にもやり方はあるかもしれないけど)。

温さんの手紙の中で、『彼女の体とその他の断片』のカルメン・マリア・マチャドの言葉が引用されていた。「女性や非白人やクィアな人々にとって、書くことはそれじたい政治的なアクティヴィズムだ」。

 

なすと厚揚げ、ひき肉の炒め煮を作りつつ米を研ぐ。作りたいと思って作れていなかったきゅうりとみょうがの醤油漬けも。それからプールへ。途中、インスタのストーリーを見ていたら別の友人も高熱を出している……。今日は東京の感染者が4万人を超え過去最多というニュースがあり、再びの感染爆発を実感。

振り返ると一昨年は感染者100人でびびり、去年は3000人や4000人でめちゃくちゃびびっていた。特に去年の夏は本当に警戒心を強めていて、街へ出かけることや誰かと会って話すことを極端に思えるほど控えていた。今はその10倍近い感染者が出ているけれど、あの時と比べると平気で出歩いている。インスタのストーリーでは明日から開催のフジロック前夜祭へ向かう友人のポストも流れてきて、心配こそするものの無事に終わってほしい、という気持ちが強い。去年だったら多分もっと怒ったり、引き裂かれた気持ちになったりしていた。

変わったのは慣れてしまったからでもあるだろうし、あまりにも終わりが見えない中、行動を制限し続けることで文化や心が駄目になっていく危機感のほうが次第に強くなってきたからでもある。ワクチンが普及して重症者が減っている(らしい)というのは、自分にとっての大きな要因としては感じられていない。もっと別のところで考えが変化していて、その中には雰囲気のような、非科学的な要因もあると感じている。それで良いのかはわからないけど、でも「自分は空気じゃなくて論理で判断してます」みたいな顔だけするのは嘘だ。

空気に流されることを認めるのはすごく危うい結果につながりかねないから、本当はきちんと否定した方がいいのだろうけど……どこかその否定にブレーキをかけてしまう自分がいる。ただ、それはポジティブに捉えているというよりは、自分の経験と照らし合わせた時、完全に排除するのが難しいと感じているということなのかもしれない。空気に流されることには批判的な視点が必要だけど、だからといってそうした要素が本当はあるのに自分にはないかのように振る舞えば、きっとどこかで無理が出てくる、というような。

去年も一昨年も自分が正しい行動をできたとは思っていないし、今もできている自信はない。でも、自信を持って行動し続けている人って一体どれだけいるのだろう。

 

プールから上がると友人から返信があり、買い物とかは大丈夫、とのこと。ひとまずほっとした。家に帰り、炒め煮をあたためながらオクラとみょうがのみそ汁を作る。

 

今日の新規陽性者数は40406人、現在の重症者数は27人、死者7人。