ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

時間の離脱[2022年6月26日(日)晴れ](後編)

長くなってしまったので26日の日記は前後編に分けた。前編はこちら

 

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千葉市美術館からすぐに小沢健二のライブ「So kakkoii 宇宙 Shows」のため有明へと向かう。電車を乗り継ぎながら1時間半弱。移動の多い日だ……。駅でN、Aと合流し、コンビニで飲み物を買ったのちみんなで会場へと向かう。有明ガーデンという複合施設の中にある、有明ガーデンシアターという新しい会場。そもそもこんな複合施設ができていたことを知らなかった。このへんに住んでいる人が、日常の買い物やちょっとした週末のレジャーを過ごすのに不便しないように作られた施設という感じ。温泉まであり、行きたくなる。どろどろなのでさっぱりしたい。さっきもNに出会い頭に「なんか二人とも顔テカテカしてるね!」と言われたし。

 

N、Aとは座席が離れていたので会場を入ったところで別れ、自分たちの席へ。4階なのでステージから離れてはいるが、正面なので全容がよく見えそう。開演前、「ツアーグッズのTシャツは蓄光なので、スマートフォンのライトなどで30秒ほど照らしておくとよいです」みたいなアナウンスが流れる。電子回路にしてもそうだけど、この「人が光を放つ」ってオザケンぽいよな〜と思いながら聞く(自分たちはグッズを買わなかったので、手持ち無沙汰に)。客電が落ちて演奏がはじまると、大所帯のバンドメンバーが来ている蛍光色のローブがブラックライトに照らされて光っていた。

 

30人編成のバンドの分厚くきらびやかな演奏に、終始心を打たれっぱなし。ライブ自体はなんというか、音楽が時間芸術である、ということを強く意識させられる内容になっていたと思う。音楽は基本的に演奏がはじまったら、一定のテンポで終わりに向かって進んでいくしかない。あらゆるできごとや人生と同じように。でも、暗渠化された「古川」という東京を流れる川についての朗読にあったように、「過去の中には未来が含まれている」。私たちがいる宇宙の物理法則ではものごとは一方向に流れていくのみだけれど、別の宇宙や、心象風景はそういうものではなかったりする。

今回のライブでは、オザケンはその時間の法則をジグザグに撹乱しようとしていたように見える。ある楽曲では90年代を強調し、ある楽曲ではコロナ禍のことを、また「そして時は2020」と歌う。90年代に生まれた楽曲と、近年生まれた楽曲をカットアップしてつなげて演奏したりする。

時代性(特に90年代)を強調したり楽曲をカットアップして接続するのはこれまでにもやっていたことなのだけど、今回はそこに新たに「離脱」というシステムが加わっていた。オザケンが「離脱!」と叫ぶと音楽のテンポが半分になり、数小節ののち何事もなかったかのようにもとに戻る、というもの(その時はオザケンが「戻る!」と叫ぶ)。この離脱システムは、音楽が「一定のテンポで」進むというルールを破壊する。そしていきなり音楽がゆっくりになると、私たちは乗っていた電車が急に減速した時みたいに、宙に放り出されたような感覚になる。踊っていた体が追いつかなくて変な動きになる。テンポが変わってもたいていはすぐに慣れることができるのだけど、切り替わりの瞬間、私たちは音楽にただ乗っているのではなくて、テンポに、身体に神経を集中させている。スイッチする瞬間、私たちは自分で考えていて、それはあらゆる既存のルールや法則から自由になることでもある(朗読では「離脱の合図で、良いことからも悪いことからも離れられたら良い」と言っていた)。

この「離脱」が今回のライブの根幹にあると考えると、以前からあった時代性の強調やカットアップには、これまでとは違った意味が付与されているように思えてくる。カットアップして楽曲Aから楽曲B、そして再びAに戻った時、オザケンは「もう一回!」とたびたび叫んでいた。それは音楽をもう一度演奏するというだけではなくて、不可逆な時間の法則を破壊する合図でもあったのではないか。

 

スピードも方向も、従来のルールから解き放たれた場所で、音楽は鳴り続ける。そうして時間の法則を歪めるステージが生まれたのは、やはりコロナ禍が大きいのだろうか。「NYの大停電のように一時的なものだと思われたCOVID-19という裂け目は日常を飲み込み、非現実が現実へと反転した」(冒頭の朗読、大意)。オザケン自身もライブツアーを二度延期していて、同じように先延ばしになったり、中止になったことが世界にはたくさんある。そうやって失われた時間は戻ることがない。少なくとも現実では。だとすると、現実とは違う空間であれば、失われた時間をやり直すことができる? 高らかに「もう一回!」と宣言して、音楽をまたはじめることができる?

時間の法則を破壊することは、なにかそのことに対する彼なりのファンタジックな肯定であるような気がした。かといってコロナ禍がなくなったわけではないし、度重なる延期で2年の時間が経ってしまったことも現実で、今回のライブはそのことを否認してはいない。もっとマルチバース的な、多元的「宇宙」の一つとしてこのステージを出現させたのではないか。そしてオザケンはこの宇宙のマスターだった。「離脱!」「戻る!」「もう一回!」と時間軸を操る権限を持っている唯一の存在だし、中盤の朗読の冒頭でさりげなく「これは『薫る』という曲で、1時間後にやりますが〜」などと言っていたのも、気軽さを装いながら相当確信犯的な発言だったと思われる。

 

あと、今回は感染症対策で声を出すことができなかったわけだけど、オザケンはこれに対して「Sing it!歌って!のかわりに、I can hear you!聞こえるよ!という言葉を使いたいと思う」と言っており、実際にライブでもコロナ前なら客がシンガロングしていただろう場面では「聞こえる、聞こえる!」などと言っていた。「歌わなくてもあなたたちの声は聞こえているよ」と解釈しても十分美しいけれど、私はそれはあくまで表のメッセージで、「もし歌っちゃっても、『聞こえる』だけ、ってことにしとくよ」という裏のメッセージがあるような気がしていた。

慣れ親しんだ曲をつい歌ってしまう。それは本来人間の愛すべき衝動でもあると思うのだけど、今のライブでは禁止されている。「エラー」として扱われる。ただ、ここで「離脱」のことを思い出したいのだけど、いきなりテンポが半分になるとかいうトリッキーなシステムは身体的なエラーを引き起こすものだった。つまりそれを積極的に取り入れているライブというのは、エラーを許容する場である、ということになる。

「聞こえる!」の言葉で、歌っているかいないかではなく、聞こえているかいないかに問題をすり替える。そうすれば、現状のルールを守って声を出さずにいる人も、思わず歌ってしまうという愛すべきエラーを起こした人も、両方が包摂されるのだ。

ただじゃあそこで、これはエラーですという顔で歌い続けていいのかというとそういうことでもない。ルールの破壊や逸脱は密やかに行われなければならず、全員が気付いたとしたらそれは別物になってしまう。裏のメッセージは、裏のメッセージとして処理するのが大切なのだ。

 

アグレッシブな読みをしている気がするけどもう少し続けると、こうしたメッセージは「ルールにただ従うのではなく、生きやすいように変えていけばよい」というような、スマートな破壊者としての態度に貫かれたものであるようにも感じる。「COVID-19という裂け目が日常を飲み込み、非現実が現実へと反転した」中で、さまざまな時代の変化の中で、監視の目はどんどん厳しくなっている。そうしたものに殺されず生きていくためのオザケンなりのすり抜け方の提案というか、これも一種の「離脱」なのだ。

 

会場の外でN、Aと合流し、電車で新宿へ。4人であれこれ話しながら磯丸水産でご飯を食べたが、長い一日だったので後半のほうは力尽きかけていた。サワーのアルコールを「薄め」にしたけど酔いがまわり、コンタクトレンズが乾いて目がかゆかった。

 

今日の新規陽性者数は2004人、現在の重症者数は3人、死者1人。