ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

トランスフォーム[2022年5月19日(木)晴れ]

昨日少し夜が遅かったからなのか、朝もなかなか起きられなかった。6時半ごろに一度目が覚めたけど、頭も働かないし体もだるくてまた寝てしまった。疲れがとれていないというより、眠りが深すぎて意識が覚醒するレベルまで浮上できないという感じだった。

 

急に入ってきた仕事があって、今日は原稿2本を仕上げなくてはならない。焦りを感じつつ9時前から仕事開始。午前中に短いほうを一本書き終え、昼食を作りながら2本目の原稿の構成や書き出しを考える。

お昼はトマトパスタ。鍋が埋まっているので(火曜日に作ったカレーが余っている)、フライパンを使ってソースでパスタを茹でる若山曜子さんのレシピを参照しながら作る。しかしパスタが多すぎたのかテフロン加工が弱っていたのがよくなかったのか、フライパンにかなりくっつく。途中でかき混ぜたり水を足したり、なんとなく牛乳でのばしてみたりと茹でている最中ずっと慌ただしくて、原稿を考えるどころではない。最後のほうはやけくそで、あとから各々が調整すればいい、と思いながら適当にツナ缶と塩を混ぜた。

器に盛ろうとすると、白いプレートのふちに赤いソースが飛び散った。大盛り2人前のパスタでぎゅうぎゅうのフライパンは熱くて重い。トングのバネが力強すぎて手が痛い。不恰好すぎて笑えてきてしまって、そうしたら色々どうでもよくなった。ひどい味だろうと思っていたパスタはそこまで悪くなく、昨日作った長ネギとミックスビーンズのコンソメスープは具がやわらかかった。

 

夕方ごろにひとまず原稿を終える。途中、友人のHから「『TITANE』が好みだったらこれもおすすめ」とLINEが届いていた。昨晩新宿のバルト9で見て、短い感想(といっても「怖かった」くらいしか書いていないが)をインスタのストーリーにアップしたら複数人からリアクションがあって、けっこうみんな見てるんだな、と思った。Hもリアクションをくれた一人。

 

幼少期の交通事故で頭にチタン・プレートを埋め込まれた女性ダンサー・アレクシスの物語。アレクシスは長く鋭い髪留めを使って冒頭から人を殺しまくるし、序盤はひたすら痛いシーンが続く。私は友人から「車に性的欲求を抱いてしまう主人公が、車の子どもを妊娠する」話と聞いて興味を持ったのだけど、その設定が埋もれるくらいパンチの効いた映像が畳み掛けるように展開されていて、自分の身体が恐怖で満ちる感覚になった。

「痛い」シーンでは目もとを手で覆いながら指の隙間から見るようにしていたのだけど、耳も塞ぎたくなるようなシーンが何箇所かあって、だけど手は2本しかないから絶望したりしていた。今になって思えば、目はただ閉じればよかったのだ。そんなこともわからなくなるほどには恐怖していた。

ホラー・グロ耐性がないのに見にきたことを心底後悔して、席を立ってしまおうかと本気で考えることもあった。でも、そうやって五感を磔にされる劇場で見るからこそ、映画に没入できたのだとも思う。ここでは「逃げ(られ)ない」ことが重要になっているからだ。

アレクシスは膨らんでいく腹=自分の身体から逃げられない。連続殺人犯として警察に追われるアレクシスは、行方不明者の張り紙に載っていた青年・アドリアンに成り代わろうとするのだが、そこで迎えにきた父・ヴァンサンがまた狂気的で、アレクシスはヴァンサンから、あるいは「アドリアンであること」から逃げられなくなる。ヴァンサンもまたかつてアドリアンを失った悲しみに囚われていて、老いて男らしさを失っていく自分の身体から逃れられない。

逃げられない時、人はトランスフォームする。

指名手配され追い詰められたアレクシアは、アドリアンに変身することで活路を見出す。嗚咽するほどさらしをきつく巻き、女性としての身体を、膨らみ続ける腹を否認するように変形させる。息子を諦められないヴァンサンはアレクシスをアドリアンだと思い込もうとする=認知をねじ曲げ、ステロイドを注射して老いていく肉体を改造する。

そもそもアレクシスが頭にチタン・プレートを埋め込まれたのだって、そうすることでしか生きられなかったからなのだった。有機物と無機物、男と女、現実と妄想、生と死。時には既存のカテゴリに踏みとどまり、時には越境のため果敢にジャンプする。境界線上で変容のための死に物狂いのダンスが続く。でも、それはすべてコントロールできるようなものではない。ミス、暴走、まぐれ、幸運。踊る身体から汗のようにほとばしるそれらが床に降り注ぎ、さらに足元を滑らせる。そして激しいステップで、境界線は摩耗していく。かすれて見えなくなれば、それは越境というより混乱しながらの融合と言える。

暴力性の中であらゆることが倒錯していく。その過程で、「逃げられない」が「逃げない」になる。境界線が、輪郭が破れてしまっているのだから、(外的な何かから)逃げる/逃げないという判断自体が成立しない気もするのだけど、少なくともそう見える瞬間がある。それはアレクシス/アドリアンがヴァンサンへ向ける眼差しに宿り、そしてクライマックスのヴァンサンの判断に宿る。それは意志と呼ぶには混乱しすぎているけれど、外圧によるものだと決めつけるには力強すぎるニュアンスで。

寝室でヴァンサンが腹の上にライターの火をこぼす時、ヴァンサンは離れた場所で出産に悶えるアレクシスと焼けるような苦しみでつながっている。自他の区別を失い、異物を取り込んでトランスフォームしていく。映画を見ていた私もそうで、最初は激しい暴力に逃げられなさを感じていたけれど、物語が進むごとに痛みの共感覚を通してアレクシス/アドリアン、ヴァンサンとの境界線が曖昧になり、「逃げない」でラストシーンを見届けていた。

一言で言うと、すごくクィアな(そして痛くて怖い)映画を見た、という感想。それはジェンダーセクシュアリティを扱っているからという意味でもそうだし、それ以上に「逸脱していく動き」そのものに力点が置かれていることがそのように思わせた。

 

Hに返信したいが、感想がきちんと言語化できていないので後日日記に書こう、と思いながら仕事のメールチェック。着信があり、打診していた取材が来週に決まる。新作のゲラを読む前に近作を読んでおこうと思って、kindleで短編をいくつか読んだ。

夜はプールへ。原稿で頭を使って疲れていたので迷ったけど、冷たいようなぬるいような水の中で体を動かせば気分転換になる気がした。いつもよりもかなり空いていて泳ぎやすい。合計で2キロ泳いで、距離はいつもとそんなに変わらないけれどほとんど休憩しなかった。泳ぐスピードも速くなっている気がする。息継ぎの回数を減らすようにしていて、体のバランスが崩れないからだろう。体制を立て直すために失速することがなくなった。酸素が足りなくて苦しくなることもあるけど、苦しい時にこそアドレナリンが出ているような感覚もある。ちょっと怖い。

今日は自分が泳いだ距離がたびたびわからなくなった。今が925メートルなのか、875メートルなのかで何度も混乱する。そういえば、最近は毎日が過ぎるのもあっというまで、以前は日記を4日に一回は書きたいと思っていたのに気づいたら1週間以上書けていなかったりする。時間感覚が変わりはじめているのだろうか。

 

今日の新規陽性者数は4172人、現在の重症者数は2人、死者5人。