ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

見慣れた気持ち[2021年10月10日(日)晴れ]

昨日は『セックス・エデュケーション』を見はじめたら止まらなくなってしまって、25時前には見終えたのだけど、頭が冴えてしまってなかなか寝付けなかった。眠かったけど、午前中にオンラインで取材があるので起き出す。私はネトフリなどのドラマを見るまでの腰がかなり重くて(時間があると本を読む方を優先してしまう)、その一方で見はじめると一気に見てしまう。リズムが作れない。見たい作品がたまるばかりで取りこぼしも多いので何か視聴を習慣づける仕組みを作りたいのだけど、そもそも習慣化とか考えているのがおかしい気もする。止まらなくて睡眠時間を削ってしまう、みたいなほうが、(身体的にはともかく精神的には)健全なような。そんな管理するものでもないのだ。

 

取材を終えて、そのあとすぐに文字起こし。いくつかの箇所で「ここでもっと踏み込めば良かった」「あの話も聞けば良かった」と思う。ライターあるあるだし、一つも逃さず聞き切るのは至難の業だと理解しているつもりだけど、定期的に「自分はこの仕事に向いていない……」くらいの落ち込みをしてしまう。今日もそう。ただ、それはできなかったことのほうばかりを見つめてしまっているからそう思うのだということもわかっていて、気づいて抜け出すまでの時間も、回数を重ねるごとに早くなってきている。今日は家を出て、ホームで電車を待っていたときに気分が切り替わったので、だいたい2時間くらいで抜けた。

 

新宿のKEN NAKAHASHIで森栄喜雷電 Dialogue』最終日滑り込み。KEN NAKAHASHIは古いビルの5階にあって、大きな窓から伝わる光や音、街の気配が美しいギャラリー。でも、今回の展示ではその窓や入り口のドアに隙間なくアルミホイルを貼って、光を遮断していた。真っ暗な中で作品と向き合う。

入り口のドアに向けて照射された映像の中では、森さんが海辺でマイクを手に、そこにはいない誰かの輪郭をなぞる。その間、背後のスピーカーからはマイクによって集めた音とその場の環境音が流れている。輪郭をなぞり終えると森さんはいなくなって、無人の風景の映像にさっきの音が重なる。それからしばらく無音の・暗闇の時間があって、再び最初から映像と音が流れ出す。

アルミホイルを貼ったドアに映し出された映像は、ホイルのたわみや壁の起伏によって歪む。場の干渉を受ける。去年の森さんの作品「シボレス」も、空間から影響を受けるインスタレーションだった。そこに何かを感じているんだなと思い、次に不在の輪郭をなぞることと、場の影響を受けることのつながりを思う。不在の中でその人を思い出すことと、作品に流れる時間とこの場の時間が重なって時間が複層化していくことはどこか似ていると感じる。作品の前に立っていた時、稲光に照らされるようにその相似形を理解した気がしていたけれど、いま言葉にしようとするとうまくできなくなってしまった。

オーナーの中橋さんに声をかけて、少し話す。ギャラリーは真っ暗、作品の音も静かで、どう声をかけようか迷う。タイミングやボリュームなど自分なりに気を使ってみたけど、その甲斐なく普通にめっちゃ驚かせてしまった。数ヶ月前に一度取材をさせてもらった時のお礼を言いつつ、この作品について教えてもらう。夏にここで開催したグループ展で発表した作品を再構成したもので、その時はもっと別の見せ方だったと言っていた。その間もスピーカーからは作品の音が流れ続けていて、中橋さんの声がその音に重なる。

コロナ禍になる前、このギャラリーで森さんとばったり出くわしたことがあった(あれは在廊、というのともちょっと違っていたと思う)。最終日だし、今日もばったり会ったりするかなあと思っていたが、特にそんなことはなかった。真っ暗なギャラリーを出て、昼間の新宿に戻る。無印で洗顔など買って帰宅。

 

しばらく家で過ごして、友人たちが私の街まで来てくれるというので会う。緊急事態宣言は明けたものの、20時がラストオーダーだったり、4人までしか入れなかったりするお店もある模様。そうした情報がどこかにまとまっているわけでもないので調べるのが億劫で、結局いつも行っている焼き鳥屋。24時前くらいまでみんなで話して飲んだ。

今日の新規陽性者数は60人、現在の重症者数は67人、死者7人。9月末から友人と会う機会が増えていて、自分でも気が緩んでいるなと感じる。しかし今日の新規陽性者数は今年最小らしく、緩めるなら今、とも思う。かと思えば後ろめたさを感じたり、後ろめたさの実感そのものを免罪符にしようとしているところもあったり。こういう心の動きはこの1年半で何度も繰り返していたことでもあって、いい加減もう飽きたなと思う。

 

今日の新規陽性者数は60人、現在の重症者数は67人、死者7人。