ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

超自我のせい[2021年9月14日(火)雨時々曇り]

一気に書いてしまいたい原稿たちがあって、朝から少し緊張していた。ある特集での3000字ほどの総論と、1500字ほどの各論3本。計4本、と思うとつらくなってくるけれど、7500字の長い原稿だけと考えればいける気がしてくる。基本的にはそれぞれインタビューをまとめるだけだし、難易度は高くないはず。そう思いながら、午前中のうちに3000字の原稿1本と1500字の原稿1本の準-原稿を作る。昼休憩にサラダチキンと野菜、フリーズドライのオニオンスープをTwitterに流れてくるメットガラの画像などを眺めながら食べて、残る2本も作業を進めた。おおむね予定通りに終わって一安心。1本うまく流れを作れないものがあったけれど、他のものとあわせて明日見直せばいい。どちらにせよまだ誌面のレイアウトが出ていないから、最終的な行数は調整する必要があるのだし。

 

それからは原稿の修正や、今日提出の原稿の仕上げ。てきぱきと終わらせたかったのだけど、別のことを考えてしまって、なんだかやけに時間がかかってしまった。ちょっとした情報を調べるためにネットを見ると、気づくと検索窓にまったく関係ないことを打ち込んでいて、数分回遊したあと正気に戻るのを何度も繰り返してしまった。色々な不安が渦巻いている。低気圧だからか。

Twitterに「自分のことを評価してくれる人がいても(今回はたまたまうまくいったけど次はダメだろう)みたいに思ってしまって、相手を騙している気分になる」というようなことを投稿する。これは今の私が考えていたことと直接的には関係がないのだけど、自分を強く支配している感覚で、今考えていることにも確実にネガティブな影を落としている。このせいで、私は人と信頼関係を築く時に強い(自分でもうまく掴めない)苦痛が伴うと感じていて、関係そのものを回避しようとするくせがある。いいかげんどうにかしたいのだけど、いまだに「気合い」以外の解決法を見出せていなくて、ふとした瞬間にこの感覚にとらわれて、どうしようもなく不安になってしまう。

 

少し別角度になるけれど、先日読んだ東畑開人『心はどこへ消えた?』の中に、この苦痛を和らげる考えが書かれていたのを意識的に思い出す。

「締め切り恐怖症」というエッセイで、自分で自分を責める声のことを指す「超自我」という心理学の概念を引用しながら、生活に困っているわけではないのに万引きを繰り返してしまう老人のことが書かれていた。老人は自分のことを日々僕悪人だと責め続ける抑うつ的な生活を送っていて、監視カメラを逃れて万引きに成功した時だけ、その苦しみから解放された。監視カメラに自分の超自我を投影し、それをかいくぐることができた瞬間だけ癒しが訪れた、という。

そのロジックはわかるようでよくわからなかったのだけど、老人にとってはそういうものだったのだろう。しかしある時万引きは監視カメラに捉えられ、警察が呼ばれ、家族に事態が露見する。彼は「みんなに軽蔑される」「一生の終わりだ」と思ったけれど、そうはならなかった。警察は親身に話を聞いてくれたし、家族はお店への謝罪に付き添ってくれて、お店の人もそれを受け入れてくれた。現実は超自我よりも優しかったのだ。

 

ああ、超自我から逃げようとすればするほど、超自我の残酷さは強まる。万引き依存症ともいえる彼にとって逮捕が救いであったように、私もいっそ締め切りを破ってみたら楽になれるかもしれない。編集者には軽蔑されるかもしれないけど、多分、心の中の副社長*1は優しいはずだ

続いて収録されている「悪い考え」では、大学の最重要会議(オンライン)をすっぽかした東畑さんが「このミスによって何か悪い決定が下されるのではないか」「いやだったらはじまった時点で連絡してくれたらよかったじゃないか、落ち度は向こうにもある」「俺を陥れる謀略なのでは……?そっちがその気なら裁判でもなんでもやってやらあ」と疑心暗鬼の連鎖を起こしていく姿が(だいぶユーモラスに)描かれている。東畑さんはその自分の心の動きを、中学校のスクールカウンセラーをしていた時に出会ったひきこもりの少年の姿と並べる。

 

私たちの心には戦争が潜んでいる。それは傷ついているときに、噴出する。裁判の空想をしていた私のように、あるいは環境汚染を罵るあの少年のように、他者を攻撃する悪い考えが止まらなくなり、同時に他者から攻撃される悪い考えが止まらなくなる。(中略)「あいつが怖い」と思い、「あいつがムカつく」と考え、それがグルグルと回っているうちに、心の中の「あいつ」はどんどん肥大化し、凶暴化し、残酷になっていく。ずると、とてもじゃないが会えなくなってしまう。

 戦争を終わらせるには、直接会うしかない。実際に他者と接触すると、ついつい平和な付き合いをしてしまうのが、私たちの心だからだ

 

自罰的すぎる超自我も、不安や恐怖が渦巻く「悪い考え」も、自分の中に閉じているから肥大化してしまうものだ。他者に打ち明けたり、接触したりするのは相手のタイミングがあるからすぐには難しいかもしれないけれど、発生のメカニズムがわかると少し落ち着く。不安が完全に取り去られるわけではないけれど、冷静になれると感じる。「超自我のせい」「悪い考えのせい」と思って、深く考えないようにする。そうしていると、「相手に何か言われたらその時考えたり傷ついたりすればいい」とちょっと思えるようになってくる。なんだか騙している感覚の話からずれた気がするけれど、自分にとってはつながっている話。

 

ぼやぼやしていたら恋人が帰ってきて、夕飯の準備を何もできていなかった。米を炊いてもらっているうちに仕事を片付け、鶏肉とキャベツの味噌炒めを作る。しかしなんだか味が決まらず、給食や学食のはずれメニューのような味だと思う。土曜に作った豚キムチも食べる。キムチが多分腐りかけで、「危険」のギリギリ一歩手前の「熟成」の味がした。明日にまわしていたら駄目だっただろう。今日食べることにしてよかった。

 

夜は村上春樹『女のいない男たち』を読む。先日見た映画『ドライブ・マイ・カー』がとてもよく、どんな風に作られたのかを知る目的で。とりあえず表題作の「ドライブ・マイ・カー」を読んだけど、映画よりかなり単調に感じられる。短編と3時間の映画の違いなども大きいと思うのだけど、主人公の家福以外の人物に表情がないというか……あと、ミソジニーと言うと強すぎるけれどどことなく女性を下位に置くような描写が少なからずあって、読みながらノイズに感じる。映画ではそれは家福の意識のみに表れていたけど(象徴的なのは車のドライバーがみさきであることに不満そうな家福に、みさきが「私が若い女だからですか」と聞くシーン)、小説では世界の論理そのものに紛れ込んでいる。まあでも他も読んでみないとわからないし、全体を把握したいので、とりあえず読み進めてみる。

 

今日の新規陽性者数は1004人、現在の重症者数は208人、死者14人。

*1:著者は超自我のことをこう擬人化している