ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

問いのテーブル[2021年8月22日(日)晴れ]

朝起きても体調が回復せず、頭痛と倦怠感が残ったままだった。さすがに回復すると思っていたから少しうんざりしながら、昨日よりはましだと思って2日ぶりにシャワーを浴びた。ロキソニンを飲み、冷えピタを貼って昨日の日記。副反応について記録しておいたメモを参照しながら書く。

 

症状は個人差が大きいけれど、私の場合は頭が熱を持っている感じがずっと続いているので、冷えピタがあるのが本当に助かった。食欲はそんなになくならなくて、汗もあまりかかないので、ゼリー類やアクエリアスはこんなに買う必要なかったと感じている。とはいえ接種するまでわからないので、「あるといいもの」に挙げられているものは一通り買っておくのが安心だとは思う。

希釈して使うDAKARAとか、うちではもう使わないので誰かにあげたいのだけど、そのために人に会うのも憚られる。友達と全然会ってないなと思う。「友達」と呼んでいいのか少し迷うような、コミュニティや活動圏が近くて何かでたまに会ったりしていたような人のことを最近はよく考える。そういうゆるやかで少し緊張感がある距離の人付き合いが本当になくなってしまったのを寂しいと感じている。お昼ご飯は冷凍うどんと、数日前に買って食べきれずにいたケンタッキーのオリジナルチキン。

 

食後も頭が熱を持っている感じが治らず、インスタのストーリーに弱音。こういう内容を書くことは少ないけれど(そもそも更新頻度が低い)、寂しかったのと、普通に副反応がつらくてちょっと泣き言を言いたかった。

友人の一人がすぐにリアクションしてくれて、ちょっと慰められる。彼は数週間後に1回めの接種と言っていた。すでに2回接種が完了した人も多くいる一方で、おそらく目処が経っていない人も相当数いる。そんな中で「副反応つらい」と書いた自分にどこか後ろめたい気持ちになったり、これで接種を躊躇する人が出たら嫌だなと思ったりする。「個人差が大きいみたいです」という注釈のストーリーを追加でアップ。

弱音のストーリーをアップするうえで、「副反応について知っておくことはこれから接種する人にとって何らかの参考になるはずだし……」といった考えを自分が自然としていることに気づいて、ちょっと嫌だなと思う。社会的になりすぎている感じ。

社会的でいなければいけない時や場所もあるし、そうありたいならそれでいいとも思うけれど、個人的な弱音すらなんでも接続しようとするのは過剰な気がする。社会的な大義名分の引力は強いから、そうやって理由づけすることに慣れていくと、個人的なことを個人的なまま話せなくなったり、接続できない感情を無視したりするようになってしまうかもしれない。その兆候が今回、自分の中にあった。

 

16時ごろ、接種からまる2日が経ってようやく楽になってきたのを感じる。来週の取材準備。合間に、親しい友人と先週オンライン通話をした時におすすめされた雑誌『ニューQ 名付けようのない戦い号』。テーマの一つが「公共」で、ちょうど別の企画で公共について考えていたので、印象に残ったところをメモしながら読んだ。

巻頭インタビューは斎藤幸平さん。ここでも、という感じで、引っ張りだこだなあ。公共=みんなのものという前提があり、資本主義はそれを独占しようとするシステムであるという話はわかりやすかった。その上で、斎藤さんは一つ一つのアイデアの広げ方がいつも面白いんだよなと思う。たとえば、現状のUberEatsはただのオンデマンドの出前だけど、本当にシェアリングエコノミー化するための方法として、「一回配達を受け取ったら自分も配達しなければならないだとか」が考えられる、とか。読者に思わず「できる」と想像させるような、(抽象的な言い方だけど)人間の本来的な力を思い出させるような方法を挙げるのがうまくて、読んでいてなんかやれそうな気がいつもしてくる。インタビュー後半の「コモンズを考えるためのレッスン」でも、それが炸裂していた。

「コモンズを考えるためのレッスン」をはじめ、ワークショップ形式の「SFで考える来るべき公共」、グラフィックレコーディングをめぐる探求対談でありつつ自分でもグラレコをやってみようかな、と思える「グラフィックレコーディングの哲学的探求」など、自分でやってみることへの導線がいたるところにあるのも刺激を受けた。

それから、この号のタイトルのきっかけとなった「民主主義のエクササイズ」という、岸野雄一さんのテキスト。SNSによってそれぞれの思考の差異が可視化され、その細かな差によって散り散りになってしまう現状に対して、現実世界の複雑さや重層性を回復し、そこで戦うこと、手を取ることについて書かれている。

この雑誌を勧めてくれた友人も「岸野雄一さんの文章が良かった」と言っていたのだけど、その友人の、いつも誰かと会って話す時間を愛しているようなところや、彼が最近SNSでひどい誹謗中傷を経験したことなどを読みながら思い出した。人に勧められたものに触れることは、その人のことを少し知ることだと改めて感じる。

 

同時に、今盛んに言葉が交わされているフジロックについても少し考えたり。ここ数日はSNSを開くたびに誰かがなにかを深刻な様子でつぶやいていた。開催派、中止派、無観客派などそれぞれの考え方があって、最初はお互いをいがみ合うようなところもあったと思う。でも、「ここまでフェスやアーティストが追い込まれているのは十分な補償をしてこなかった政府に責任がある」「感染防止のため自粛を迫る一方で、オリンピックは開催する矛盾が混乱を引き起こした」といったかたちで、政府の対応を問うことで次第に一本化されていったように見えた。

それは考えの差異を乗り越え、同じ方を向いていると理解し合う動きだったと思う。ただ一方で、前提を再確認しただけであって何かの結論ではないような気もする。補償を求めること、政権におかしなところがあれば批判することはもちろん必要だ。でも、状況が今すぐに好転しない中で、どんな判断をするかという選択肢は自分の目の前にあり、何かを選ぶならそこには常に責任が発生する。そのことについて話し続けないといけないのでは。私は「政府が悪い」と言うことが、個人の行動を免責してしまうことに感じる危うさを拭いきれない。でも、それは変な自己責任論を呼び込みかねないだろうか。前提となる状況がおかしい中で責任なんか負えないと突っぱねるほうが、必要な強さなんだろうか。

 

感染拡大のリスクを抱えていることもそうなのだけど、私は特に地元の人のことを気にしてしまう。先日、朝日新聞の会員向けの記事で紹介されていた湯沢町民の71歳の男性の「地元主催の夏祭りや秋のイベントは全部中止になっているのに、なぜフジロックだけやるのか」という言葉が印象に残っている。

参加者は東京など首都圏の人が多いだろう。楽しさを享受するのは首都圏の人、感染リスク(これは首都圏の人にもあるけど)や上記のような不満を引き受ける代わりに経済的な恩恵を受けるのが地元(の人)、という構図だと思うのだけど、ちょっと搾取のようだと感じてしまった。平時はお互いの利害が一致していたはずで、問題もあったかもしれないけれど概ね幸福な関係として続いてきたのだと想像する。でも、それがいつのまにか経済的な依存を生み出していて、緊急事態下で搾取の側面が生まれてしまったということはないか。フェスの文化やその場で働く人たちの生活や尊厳が切羽詰まっているのはすごくわかるけど、でもやっぱりどこか、うーん、少なくとも有観客の開催はちょっと、と思ってしまう。実際に現地に行ったわけではないからわからないことも多いのだけど。

 

夕飯は昨日と同じく鶏肉と豆腐のハンバーグ、揚げ浸し。夜はいくつか考える仕事をしたかったけど、頭が働かなくて単純作業でお茶を濁した。

 

今日の新規陽性者数は4392人、現在の重症者数は271人、死者8人。