ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

引きずりながら移動する[2021年7月21日(水)晴れ]

昨日の夜から腹痛で、朝になってもまだ治りきっていない感じ。胃腸を痛めそうなのでコーヒーを飲まずに仕事をはじめるも、カフェイン不足のためか集中力がまったく続かない。昨日プロットを作っておいた原稿を執筆していたのだけど、一文が長く、全体的にキレのない文章になっている気がする。途中から文章自体が良くないのか、私の読解力が落ちているのかがわからなくなり、とりあえず本編を最後まで書いたあと少し寝かせることにする。

 

お昼ご飯はお腹にやさしいものにしようと思い、冷凍うどんに卵とめんつゆをかけて食べる。先日作った鶏肉とキャベツの味噌マヨ炒めが残っていたのでレンジで温めたら、ジップロックの蓋を開けた時点で危険なにおい。キャベツを噛んだらあきらかに酸っぱい。ずっと冷蔵庫に入れていたのになぜ……仕方がないので少し冷ましてからビニール袋に入れて捨てる。

 

今日からオリンピックの競技が福島で開催。入ってくるニュースはどれも最悪。バッハ会長のこのタイミングでの「開催に疑念があった」発言とか……これだけ開催への不安と批判が大きくなっている段階で「実は私もそう思っていた、でもその気持ちは胸の内に留めておかないといけなかったんだ」って、こんなタイミングで言うくらいならずっと胸の内に留めておいてほしかった。もちろん早い段階でその疑念を共有し、現実的に検討していただけたら一番良かったのだが。まあでも、この発言も人によっては「不安を抱えながら、それでも前に進んできた私たち」という団結を強めるものになるのだろう。そういうところも、「この人(ならびに、このイベント)全然こっちを向かないなー」と感じる。

他にも選手村のリモコン類が全部日本語で選手が困惑しているとか、メディアセンターの1600円の弁当がひどいとか、選手村で陽性者が出たことでホテル宿泊に切り替えた選手団のこととか、いたたまれなくなる話がたくさん。基本の感染対策も大会の運営もはじまる前からグダグダで、逆になんだったらちゃんとできているのか知りたいレベルだ。

 

それから、過去のいじめ発言で楽曲制作担当を辞任した小山田圭吾さんのことについても。発言が大きな問題になったあとも当初は留任となったが、昨日で一転して辞任となった。私の周りはコーネリアスや彼の音楽活動を好きだった人も多くて(というか、人生を支えてもらったくらいの人もいるよう)いろいろな意見が出ている。でも、いろんな論点があるのにTwitterを見ているとそれがあまり整理されていなくて、テーマAへの意見に応答しないままテーマBで批判するみたいなことを繰り返して、自分の立場を鮮明にすることが優先されてみえる(そうでないものももちろんある。また整理できていない怒りの発露が必ずしも悪いわけではないとは思っている)。私もいろいろ考えたので、なるべく細かく区切って書いてみる。

 

1)辞任について

個人的に、辞任は当然なのかなと思う。っていうか、運営組織委員会は少しくらい調べなかったのだろうか……。この事実を踏まえてオリンピック・パラリンピックでその音楽が流れるのをどんな気持ちで受け止めればいいのかわからない。少なくとも、曇りなく楽しい気持ちで見ることはできないだろう(ただ、そもそも私はオリ・パラの開会式・閉会式を楽しみにしてはいないので、これは「私がオリンピックを楽しみにしていたら」という仮定の上での話になるけれど)。それは被害当事者や、同様の経験をしたことがある人にとってはもっと強烈に不快なものだと思う。加害行為自体を想起させるし、結局いじめ加害者の仕事になんら支障がないのであれば、それは社会の多くが被害者の傷を軽視しているのと同じだ。

あと、これは好感度や自身の損得で判断されるべき問題じゃないと思っているけれど、それも論点になっていそうなので考えてみると、それでもやっぱり辞任したほうがいいと思う。留任は事実を把握した上で認めるということになって組織委員会にとっても小山田さん自身にとっても印象が悪いし、音楽の意味や聴こえ方ががらっと変わってしまうことは本人にとっても喜ばしいことではないんじゃないだろうか。

 

2)発言が過去のものであることについて

Twitterでは発言が20年以上前のものであること、当時の社会の空気感などを考慮して擁護する意見を見かける。

自分はその当時をリアルタイムでは知らないから、なんとも言えないところはある。そして行為や発言、企画というのは社会や時代によって強く規定されるもので、その意味では小山田さんだけを批判しても仕方ない部分はあると思う。ただ、この問題は何年かに一度話題になっていたもので、批判があってもスルーされてきた。だとしたら、発言がいつのものとかは関係ないのではないか。

 

3)人の過去を裁くことについて

そうやって人の過去の発言を今の価値基準に照らして裁いていけば、清廉潔白でいられる人はいない、という意見もある。これは自分も悩ましく思うところ。一つ一つ掘り起こして裁いていくのは、人間は変わっていくものという前提が抜けているように感じるし、謝罪や意見表明はしていないけれど、反省していて二度としない、と固く誓っている人もいるだろう。

後悔している言動があるなら振り返って、きちんと今の自分の言葉で語り直すのが望ましいと思うけど、そうしてすべてに白黒はっきりつけるのは現実的ではないかもしれない。いいとか悪いとかではなく、怯えや保身の感情はどうしても生まれるだろうし、もっと頑固に自己正当化してしまっていることもあると思う。それに悲しいけれど、こういうことってやっている側は自分のしたことを忘れるものだから、意識に上がっていることを反省してもすべてをカバーすることはきっとできない。私にもそういうふうに、言われた方は覚えているけど私は忘れてしまっているようなひどい過去の言動があると思うし、そのことを考えるととても怖い。

また語り直すにしても、その人自身の現在の地位やイメージによって黒を温存したまま白になってしまったり、社会的制裁の激しさによって考慮すべき点がたくさんある問題が真っ黒になったりすることも容易に想像できる。表明すればいいのか? という疑問もあって、すごく難しい。

グレーゾーンというか、緩衝地帯は必要だと思う。今後その幅はどんどん狭まっていくかもしれないが、少なくとも今は。それと同時に、説明を求めていくこと、求められたら応えることも必要だと考える。そして今回のオリンピックのように白であることが求められる場というのはあって、そういう場に参加するなら適切なプロセスを踏んでいなければならなかったのだと思う。

 

4)いつ許されるのかについて

小山田さんは謝罪文を出しているけれど、それで水に流して数日後のイベントは予定通り、というのはさすがに難しいだろう。となると「謝罪もしたのに、いつになったら許されるんだ」という意見があると思うけど、これについては「少なくとも今ではない」ということしかわからない。

そもそも許すというのはそんな社会的な一つの意見として存在するものではない。今後の活動を通してある段階で許す人はいるだろうし、その積み重ねで世論として許された感じになることはあるかもしれないけど、一生許さない人というのもいる。そのことは背負って、変に開き直ったり投げ出したりせずにやっていくしかない。

私自身も人の尊厳を深く傷つけてしまったことがあって、謝罪をしてまだ日が浅い。だから、この重さを身をもって感じている。

 

5)私自身のことについて

今回の件でやり過ごしてはいけないのは、私がこの発言を今回はじめて知ったわけではないということだ。それが障害者に対するものであったことなど、詳細は知らなかったのだけど、こうした発言があったことは何年か前に断片的に聞いたことがあった。その時にどう感じたのかはっきりとは思い出せず、多分「うわー…」と思ったと思うのだけど、あいまいにしか覚えていないということは、しっかり受け止めなかったということだろう。そして今回こうして取り沙汰されるまで忘れてしまっていた。

この問題を忘れてコーネリアスの音楽を聴いていた自分と、辞任すべきと考えている今の自分の間には距離がある。それは社会の変化にあわせて自分も変化していたからだけど、それで済ませずきちんと反省しないといけないと思っている。昔の自分を顧みず、今正しいとされている価値観に飛びつくのは誠実じゃない。それに、そもそもこういう変化ってOSをアップデートするように一気に移行するわけではなく、「大枠は変わっているけれど、個々の問題では認識が以前のままだった」ということも十分にありうる。だから何かが起こるたびに真剣に点検しないといけない。

時代にあわせて変わっていかないといけないところがある。変化にあたって問題になるのがこれまで自分の生きてきた道のりや作り上げてきた考え方への責任、あるいは整合性だと思うけど、たとえばそこで過去を切断したり、反対に今の自分を過去の考えに揃えることで正当化したり、そうやって取り繕ってはだめだと思う。重い過去を引きずりながらそれでも移動しなければならない、変化しながら本当の一貫性を保たないといけない。

それを可能にするのは誠実な内省しかないのではないか。ありきたりで、頼りない答えではあるけれど。考えを変えることは傍目にはちぐはぐに見えるかもしれないけれど、しっかり考えれば自分の生き方に筋を通せるんじゃないかと思っている。
問題が次々に起こるから、一つ一つについてしっかり考える時間がなくて、思考するというよりただ反応しているだけっぽくなってしまうことはある。スワイプするように簡単にイエスかノーかを判断してはいけない時ほど、自分の立場に固執してしまうことがある。そうならないように、ちゃんと立ち止まって考えたい。

 

それから、今回の問題を考える上では「荻上チキ・Session」の「小山田圭吾氏の過去のいじめ加害問題について荻上チキがコメント」荻上さんが話していた「公正世界信念」「防衛的帰属」の考えが参考になった。

 

午後も仕事をしていたけど本当にまったく集中できない。いつもなら30分くらいで終わるような原稿が進まず、合間にYouTubeで動画をいくつも見たりしてしまう。そうしていると恋人からLINEで、ブルーインパルスの予行演習が見えたと動画が送られてきた。「撮ったあとに五輪だと気づいてモヤモヤ。供養」とのこと。雲はあるけど気持ちのいい青空に、5つの円が浮かんでいる。

延々とだらだらした末、17時くらいにどうにか気合いで原稿を終わらせる。この集中できなさ、やる気の起きなさはきっとカフェイン切れだろうと思う。でも、今から飲んだら寝れなくなりそうで、どうすることもできない。そのあとも集中力がなく、本を読んだりすることもできなくてだらだらと過ごしてしまった。

 

19時ごろ、恋人がもう帰ってくるというのでスーパーに買い出し。色がすごく鮮やかとかそういうことでもなかったのだけど、夕焼けをきれいだと思った。今日は久しぶりに温野菜。ネットで菅首相がオリンピックについて「やめることは一番簡単」「挑戦するのが政府の役割」みたいなわけのわからないことを言っているのを読んで本当に嫌な気分になる。

 

今日の新規陽性者数は1832人、現在の重症者数は64人、死者4人。いよいよ2000人が近い。そして東京の重症者数の定義が独自のもので、国の基準では10倍近い数字である、という記事を読む。仕事に集中できない時に医療現場の逼迫についても調べていたので納得すると同時に、やっていることがせこくてうんざりする。

これ、国基準の数字を毎日更新しているところはないのだろうか。そうしないと恣意的に操作された数字を毎回書いていることになってしまうのだけど。