ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

未来のLove Song/発見の喜び[2021年5月8日(土)晴れ]

ダムタイプ「S/N」の記録映像を見た。9日までの配信で、この週末のうちに見なければと思っていたもの。ダムタイプは昨年新作パフォーマンス「2020」の記録映像を年末に3日間限定で配信していたのだけど、見たのが公開終了数十分前だったことを覚えている。ぎりぎりで見終えたことをTwitterに投稿したら、同じタイミングで見ていた人が他にも何人かいて、図らずも、そして見終えたあとだったけど同時上映のような一体感を味わった。今回は特にそういうタイミングではないからつぶやくこともなく、一人で見る。もしかしたら世界のどこかにたった今見ている人はいるかもしれないけれど。

 

1995年(初演は94年)当時のエイズや同性愛、人種、セックスワークをめぐるリアルな語りと、印象的なパフォーマンスが繰り返される。前半、登場人物の一人であるピーターが「現在のLove Songはどうなってる? そして未来のLove Songはどうなっていくでしょうか」と問いかけ、テイちゃん(古橋悌二)が現在のラブソングは異性愛中心で男女のジェンダーロールも決まっている、ゲイやレズビアンもそのパターンをなぞっている、というようなことを返す(憂鬱と明晰が入り混じった平熱の言葉遣いで)。見ながら、「未来のLove Song」は聞こえているのだろうかと考えた。公演から四半世紀が経った今は、記録映像から見れば未来になる。

 

「S/N」では、轟音に紛れて聞こえない大声、言葉にならない叫び、耳を傾けても翻訳や字幕なしではうまく理解できない語りといった様々なバリエーションで、ノイズとして排除される「声」を表現していた。その時代の過酷さを思うし、それは2021年においても、多くの局面では変わっていない。だけど同時に、現在は別のチャンネルが開かれている、とも思う。それがノイズではなく、声であることを伝える場所、轟音(これも現代においては部分的にではあるけれど、一つの大きな音というよりたくさんの小さな音の重なりのようなものに質的に変容してきていると思う)から逃れて耳を澄ませられる場所が増えてきたように思う。

聴覚障害を持つアレックスの語り*1を見ながら、なんとなく思い出したのが森栄喜さんの朗読のパフォーマンスや近年の作品だった。そこでは(ボリュームとしても、内容としても)小さな声を小さなまま届ける試みがなされていて、耳を澄ませることが受け手にも求められる。そこで生まれる親密さの中に、政治性が宿る。そこに「未来のLove Song」の糸口があるのかもしれないと思う。

印象に残った場面がたくさんあったけれど、二人の人が互いの手首をナイフで傷つけ、その赤い傷口をゆっくりと重ね合わせるシーンが美しかった。口づけのようで、SEX,LOVE,LIFE,MONEY,DEATHといった作品のテーマにつながるメタファーでもあった。

 

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夜は久しぶりにこのブログのための日記を書く。人が読んでもまったく面白くなさそうな内容だし、なんだかうまく書けない(それは今日の日記も同じ)けど、ひとまずそれでもいい、と思う。

最近はEvernoteの日記も書く気分になれず、義務的に、嫌なものを薄目で流し見するような態度で書いていた。それなのでブログのための日記も滞っていたし、書くことで消耗するのではないかと思っていたけど、結果は意外にもその逆で。なんてことのない風景でも、スケッチしようとすれば適度な集中力と発見の喜びがある、ということを思う。だから人が読んで面白いかどうかは、少なくともこの日の日記においてはその価値を左右しない。

 

日記を書いたあとはご飯を食べて、久しぶりに湯船に浸かる。夕飯の買い出しの時に買ったKneippのバスソルトを入れたせいか、体がかなり温まった。窓を開けて夜風にあたって、少し涼む。

*1:「あなたが何を言っているのか分からない。でもあなたが何を言いたいのかは分かる」。跳躍するブブ・ド・ラ・マドレーヌをしっかりと支える瞬間の静謐な美しさにも打たれた