ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

花束みたいな恋をした[2021年2月6日(土)晴れ]

午前中一件打ち合わせをして、『花束みたいな恋をした』を見に新宿へ。1人で行こうとしていたけど、恋人も行きたがったので2人で行く。駅前のベックスコーヒーで軽く昼食を食べて、そのまま新宿。

早めに着いたのでなんとなく近くにあった伊勢丹の地下に入ったのだけど、おいしそうすぎる惣菜がたくさんあって、30分前に食べたばかりなのにお腹が空いてくる。食欲を刺激されなければ満ち足りた気持ちでいたのに。これは良くないと思って、そそくさと退散。

 

テアトル新宿のロビーは混んでいた。パンフレットを買って、人の波が落ち着いてから劇場に入った。

ロマンチックに見えて、めちゃくちゃ底意地の悪い映画だと思った。明大前駅で終電を逃したことで偶然出会った麦と絹。二人がお互いの好きなカルチャーを話して、同じだ、と喜ぶ様子からすでに痛々しい。それは認めてほしい、見つけてほしいという気持ちがだだ漏れているからであり、若さが表面だけ素敵に取り繕おうとさせるからであり、見ている自分の昔の姿とどこか重なるからだろう。私は麦と絹とほとんど同世代だ。

二人が触れる本や音楽、ゲームはどれも「サブカル」だけれど、けっこう大勢に共有されたものだと思う。自分も含め、これ話題になってたし、自分も含めみんな読んでたな、というような。その作品の一つ一つをじっくり見ればそんなことはないのだけど、全部集まるとなんらかのカルチャーサイトのデイリーランキングみたいというか、なんだか顔のないものに感じられた。

でも、2010年代後半において、こういう「顔がないのにある/あるのにない」という感じはすごく生々しいと思う。SNSとかでだいたいみんな同じ情報に触れるから、その界隈の中ではだいたいみんな知ってる、みたいな状況が普通にあるというか。一方でメジャーに対するサブカル、という立ち位置は(建前の側面が強くても)依然としてあって、だから自分と好きなものが被った相手を見つけると、「こんなにも自分と似た人がいるなんて、奇跡だ」という甘やかで滑稽な電撃に打たれたみたいになってしまう。特に大学生の頃なんて構造に対して無知だし、まだすべてが新しく感じられるものだから、小宇宙を無限に広がるものだと思い込みがちだ。

 

この顔のなさは、映画にとって重要な役割を果たしていると思う。一つは、単純に時代をあらわすものとして。もう一つは、ある種の凡庸さの象徴として。

大学を卒業して、少しずつ年齢を重ねていく中で、二人はある凡庸さから別の凡庸さへと流されていく。麦はイラストレーターの夢を諦め、長い就活期間を経てようやく入社した会社で、ビジネスパーソンの論理に絡め取られていく。好きだったマンガの続きを読むのをやめ、本屋では真剣な表情で『人生の勝算』とでかでかと書かれた自己啓発書を読むようになる。息抜きにパズドラしかできなくなる。絹は簿記の資格をとって就職した仕事をやめ、謎解きとかのエンタメコンテンツを提供する会社に転職する。趣味が生かせる仕事なんだと、自分に言い聞かせるように麦に話す。

なんかもう、細部がほんとリアルで見ていてつらくなってしまった……。私もフリーのライターですと言えば聞こえはいいけれど、二人に似た気持ちになる仕事は今でも全然多いし。フリーランスはいろいろな場所に所属できるから、完全に流されないで済んでいるだけだ。

と同時に、ハイコンテクストな映画だよな、と思う。『パズドラ』しか息抜きがないというのがどういうことなのかを共有していないと、二人の悲惨さは理解できない。だから今この時代を日本で生きて、同じカルチャーを同じように浴びている人じゃないと分からないものがある。*1

 

この「顔のなさ」がもっとも極まるのは、二人が結婚式の帰りにジョナサンで別れ話をするシーン。このジョナサンは二人が付き合う前のデートでいつまでも本や音楽の話をした場所であり、麦が絹に告白した場所でもある。いつも同じ席に座っていたのに今日に限って先客がいて、二人は別の席に着く。

別れ話の最中にふといつもの席を見ると、先ほどの客は帰って、5年前の自分たちみたいな男女がそこに座る。かつての麦と絹と同じように、その男女は羊文学とかの固有名詞を挙げながら夢中で話して、お互い以外のことが見えていない。

あのシーンは麦と絹に本当に楽しく豊かだった時間を思い起こさせるものであると同時に、自分たちを結びつけた「奇跡」がそこらじゅうで起こっていることを明らかにしてしまう。本当はありふれた話なのだ。当人たちにそう思えないだけで。天竺鼠が羊文学に変わって、それでもなんら筋書きに支障がないように、新しい作品やカルチャーが無限に生まれていることにも、なんだか眩暈のような感覚を覚える。

 

ちょっと話が脇道にそれるのだけど、映画ではAwesome city clubがやたらとフィーチャーされていた。先日、Lucky Tapesのことを最大公約数的と書いたのだけど、Awesome city clubも個人的には最大公約数みを感じる音楽の一つ。あと、麦と絹が終盤にカラオケで楽しげに歌うフレンズもけっこうそう。でも、この最大公約数っぽいシティポップだけが照らせるものってあるなあと、映画を見ながら思う。最大公約数とか皮肉りたくなりながらも、それだけが触れることのできる寂しさがあるのもどこかで気づいていて、裏腹な気持ちになる。この感想は好きな人からは怒られそうですが。

 

麦と絹の凡庸な恋愛は様々な要素で構成された多面体で、そのうちのいくつかは私たちの経験とそっくり同じだから、反射した光が容赦なく目を射貫いてくる。カルチャーも恋愛も、唯一無二のものなんてない、ということを、この映画は突きつけてくる。でも、それは残酷であると同時に、一人じゃないことの証明でもある。無限の選択肢から選んでいるようで、だいたい似たルートをたどる私たち。でも、別にそれが凡庸だろうと稀有だろうと喜びや痛みはたしかにあって、そして同じだからこそつながれる。グーグルストリートビューに記録されていたいつかの二人の姿*2に、自分を重ねることができる。

 

映画を見たあとは感想を話しながら恋人とニトリでキッチン用品を買った。そのあとは歯医者の予約がある恋人と別れて新宿をぶらつく。あたたかいし、みんな春めいた表情で楽しそうにしているから自分もちょっとコロナのことがどうでもよくなって、久しぶりにどこか店に入って仕事をしようと思った。

せっかくだしAwesome city clubを聴こうと思ったのだけど、今日って2月6日じゃん、と思ってTommy february6のファーストアルバムを聴いてしまう。2010年代後半の映画にはまず出てこなそうな音楽。逆張りとかではないのだけど、私にはこういうところがあるから、誰かと共鳴する機会を逃しているのかもしれないなと思う。

ビールが飲みたいのだけどなかなか空いている店が見つからなかった。ぐるぐると新宿近辺を歩いたあと、普通のプロントに入ってビールを頼む。何か塩気のあるものを食べたかったけど、まだ早い時間だったからなのかつまみがなく、フードはパスタと菓子パンしかないです、と言われた。

*1:こういうやり口は小沢健二をちょっと思い出した。オザケンはこの「大衆性」を極めてポジティブに描いているのだけど、坂元裕二は皮肉とユーモアで描いている気がする。

*2:二人の顔はモザイクで潰されている