ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

意図と効果[2021年1月28日(木)雨一時雪]

4時頃にふと目が覚めてしまって、眠れないまま1時間ほど過ごす。目が冴えていて眠気はないし、もう少しだけ寝て6時半くらいに起きようかな、なんて思っていたけど、目が覚めたら8時過ぎだった。焦る時間ではないけど損した気分。

朝から原稿の修正作業やメール。「緊急事態宣言が明けたらお願いしたい対面取材がある」とあった。そのようなことは珍しくなくて、いくつかの取材先や媒体から「宣言期間中は対面取材は避けたい」と言われている。オンラインでもできるものはオンラインで対応しているけれど、宣言が明けたら一気に取材が立て込むパターンだろうか。

東京都の感染者数は数字上は減って見えるけど、保健所の負担軽減のために感染経路の追跡調査を行う積極的疫学調査を縮小しているそうなので、一概に減ったと判断していいのかわからない。実際どの程度効果が出ているんだろうと思って調べていると、緊急事態宣言を延長する可能性がある、というニュースをいくつか発見。まあ7日に解除できるはずはないと思っていたけど、そもそもやり方自体を見直す必要はないんだろうか。

 

13時からオンラインで取材1件。それからすぐにその文字起こし。今日は少し仕事に余裕があったので、夕方から新宿に出かけることにする。

16時過ぎに一旦仕事にきりをつけて、さあ出かけようとドアを開けると雪が降っていた。しかも風も強く、横殴りぎみのもの。出かける気が削がれてしまい、無言でそのままドアを閉めてしまった。もう今日はやめようかと思ったけど、天気予報を見たら夜にかけて収まってくるようだったので、帰ってからやろうと思っていた別の仕事を先に終わらせることにした。

 

仕事を終えて窓から外を見ると、アスファルトには積もっていないけれど、隣の家の屋根は白く冠雪していた。雪の勢いは少し落ち着いてきたようなので、とりあえず出かけることに。道すがら傘をさす手が冷えて、時おり持ち替えては空いたほうの手をポケットに入れる。結局両方の手が冷えてしまって、温めようと自販機でココアを買った。飲むと胃の中が温まるような感覚があり、そういえばお昼ご飯を食べ損ねていたことに気づく。

 

新宿ではビックロの中のユニクロ無印良品紀伊国屋と、要するにアルタと伊勢丹の間の半径100メートルくらいのエリアだけに寄った。ユニクロでは家で過ごす時にちょっとテンションが上がるようなパーカーを買う。サイズが合わなかったり、一通り見たあとで他にも試着したいものを見つけたりして、3回も試着室に行ってしまった。ビックロユニクロメンズフロアには、試着室が右奥と左奥の2箇所あり、右奥、左奥、右奥と利用する。

対人恐怖症と自意識過剰のためか服屋が苦手で、一つの店で何度も試着をするということができない。客に対して無関心なユニクロなどのファストファッションの店は比較的平気なのだが、それでも試着室では店員に見られるので、けっこう躊躇する。今回のような場合、いつもだと3回目の試着は諦めるか、日を改めたり別の店舗に行ったり(新宿にユニクロはあと2店舗くらいある)するのだけど、今日は右奥を2回使うことができた。

最近、自分が図太くなってきたのを感じることがある。もとが気にしすぎだと思うので、人からすれば笑ってしまうくらい微細な変化かもしれないが、何かが変わってきた。その図太くなる変化の仕方というのが、ただどうでもよくなった、恥ずかしくなくなったのではなくて、「(こいつ何度も試着してんな)って思われたからなんなんだ?」と、打ち消す考え方が育ってきたという感じなのが面白い。今は「恥ずかしい→別によくない?」という思考の流れが知覚できるくらいのスピードだけど、次第にそれが反射的に行われるようになり、そもそも恥ずかしいという感情自体も小さくなって気付かなくなっていくのかもしれない。

この「別によくない?」の精神は試着の時だけではなくて、人や社会と関わるとき全般で身につきつつある。まごついているうちに気持ちがすり減ってどうでもよくなったり、時間切れになったりしがちの人生を送ってきたので、これはだいぶ良い進歩。

 

試着しすぎて疲れたので、紀伊国屋無印良品は足早に済ませる。紀伊国屋ではざっと新作本のリサーチと、桃山商事『どうして男は恋人より男友達を優先しがちなのか』と木崎みつ子『コンジュジ』購入。無印では小さなスプーン×4。アイスを食べたり、瓶から鮭フレークをすくったりするときに使うスプーンが今家に1本しかないので、まとめて買い足した。

少し前までプレーンなスプーンと台湾旅行で買った柄に翠玉白菜がついているスプーンの2本があったのだけど、台湾のほうがどこかに行ってしまった。翠玉白菜を目当てに故宮博物館へ行ったのに、ちょうど別の博物館に貸し出されていて見られなくて、お土産コーナーで悔し紛れに買ったスプーン。樹脂でできた白菜を見るたび、実物を見ることができなかった翠玉白菜のことをぼんやり考えるのが好きだったのだけど。二重の意味で不在の存在になってしまった。

 

久しぶりに都心を歩いたら疲れてしまった。19時前に電車に乗って帰宅。駅にはけっこう人が多くて、前回の緊急事態宣言とはまったく様子が違うなと改めて思う。みんながみんな好きで出歩いているわけでもないし、人の多さを見て反射的に苦い気持ちになるのは踏みとどまるべきだろう。そもそも私も久しぶりとはいえこうして人の多い場所に来ていて、そこには油断もあるのだろうし。

でもなんか、一つ一つは小さい色々な気持ちが、未分化のまま、矛盾したまま押し寄せてくる感覚にはやっぱりなってしまう。出歩く後ろめたさと出歩かない後ろめたさを同時に感じてしまうから、とりあえず自分はなるべく出歩かない方がいいなと思った。

 

地元の駅に戻った頃には雪は雨に変わっていた。スーパーで買い物をして帰宅。出かけている間に来ていたメールの返信をして、鮭と長芋のちゃんちゃん焼き、冬瓜のそぼろ煮の2品を作る。けっこう疲れていて2品も作りたくなかったけど、先日買ってずるずるとそのままになっていたひき肉の消費期限が迫っていたので、そぼろ煮も今日作らざるをえなかった(冷凍するのもなんか負けた気がするし)。

この2品とみそ汁で、今日は一汁二菜。自炊をはじめた頃は一汁一菜がほとんどだったけど、いつの間にか一汁二菜がデフォルトになりつつある。食卓がにぎやかになるのでうれしいのだけど、作るのは三菜にも満たない二菜であっても負担だし、それが当たり前になると一品じゃ足りない気がして不安になるなどのネガティブな側面もある。

こういうの、たいてい中心に善意があるから難しいんだよな。「当事者にしかわからない」と言いたいわけではないのだけど、料理をしない人が一汁一菜で良いと言うときほど、料理をする人(特に料理が嫌いではない人)が言うのは簡単ではない、と思う。そしてそうやって自力ではたどり着くことが難しいからこそ、外部からの力強い提案が支えになる。土井善晴先生、偉大……。私も頑張れるときは頑張るけど、自分にも、周囲にも圧力をかけないように、一汁一菜のときやそもそも作れないときに気にしすぎないようにしようと思う。ちょっと社会学的な考え方すぎるかもしれないけど。

ちょっと話が飛躍するけれど、最近『ファッションで社会学する』という本を読んでいて、「意図ではなく効果を考えるのが社会学」というような表現があって、わかりやすいなと思った。つまり、ギャル服に身を包む女性たち本人には「かわいいから」という「意図」しかなかったとしても、そこにはおしとやかさなど既存の女性らしさを破壊する「効果」が生まれる。社会学ではこの「効果」を考えるのだと。

まああんまりこういうわかりやすい図式だけを抜き取るのも良くないのだけど、ものすごく簡略化しているという前提で話を進めるなら社会学=効果の対極に位置するのは人文学=意図、なのかもしれない。効果について考えることは重要だという一方で、その点ばかり見つめすぎると意図についてスルーしてしまうことがあるので、バランスを見極めたい。

 

ちゃんちゃん焼きのみそ味が濃厚で、思わずレモンサワーを開けた。