ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

新しい考え、新しい冷蔵庫[2021年1月23日(土)雨]

午前中にミーティング1件。冒頭にそれぞれの今日の調子や近況を話すのだけど、みんな生活の中で悩むことがあったり、体調を崩したりしている。一方、私はわりと元気。思い悩んでどんよりしてしまうということも最近はないし、心身ともにいたって健康だなと思う。

みんなの話を聞きながら、私は「東京、雪降るかもですし、外も暗くて気持ちが塞ぎますよね」みたいな相槌を打った。そのことがなんとなく、ミーティングが終わったあとも引っかかっていた。

なんで特に気持ちが塞いでいるわけでもないのに、そういうことを言ったのか。私はわりとそういうことを言いがちだけど、それはおそらく、共感することに意味があると思っているからだろう。でも、本当にそうなのだろうか。「わかるよ、同じ気持ちだよ」と言ったところで相手の負担が軽くなるわけではないし*1、何か自分が「健康な/恵まれた状態である」ということが連れてくる後ろめたさを、反射的に汚そうとしているだけにも思える。

「だから暖かくしてくださいね」とか、そういう相手を気遣う言葉が前面に出れば違ってくる気がする。あるいは、共感するにしても「そういうことってありますよね」のように、「今の自分」とは切り離して理解を示すとか。

 

ミーティングのあとはスーパーへ買い物。恋人リクエストの酸辣湯麺のインスタントを買ってきて、それをお昼ご飯にする。スープに溶き卵を回し入れる工程があるのだが、今日はかなり成功して、羽衣のように広がった。鍋をぐるぐるとかき混ぜて水流を作ったら、その水流とは逆方向に卵を回し入れるのがコツ。水流が時計回りなら、卵は反時計回りに入れるイメージ。普段、みそ汁を作る時は失敗も多かったのだけど、今日はうまくいった。片手鍋ではなく大きな鍋でだったから、水流がうまく作れたのだろうか。

 

食後は冷蔵庫を移動する。新しい冷蔵庫が届くのだ。これまでずっと一人暮らし用の冷蔵庫を使っていたのだけど、昨年から自炊が増えたので買い換えようと話が出ていた。私はデザインや使い勝手にあまりこだわりがないので、しっかり検討したい恋人が見つけてくれた。ヤフオクの中古だが比較的新しいモデルで、それにしては価格も安かったらしい。

15時過ぎに宅急便の人が来て、新しい冷蔵庫を運び入れてくれる。玄関先までしか運んでくれないかと思っていたけど設置までしてくれて助かった。

設置してほしい場所はけっこう幅がぎりぎりで、宅配の人がぼそっと「入るかな」と言う。「一応、測りました」と答える恋人に返事をすることもなく宅配の人は作業を続け、いざ入れてみるとぴったり。それを見て、宅配の人が「素晴らしい」とつぶやいた。私たちに対してでも、自分の手際の良い作業に対してでもなく、何か自然現象に感嘆するふうだったのが印象に残った。

宅配の人は振り返ると、「運んできたばかりで安定してないんで、コンセント入れるのは一時間くらい経ってからにしてくださいね」と、今度は明確に私たちに向けて言った。言いつけを守り、一時間の間はコンセントを入れずにおく。しかし二人ともテンションが上がり、特に意味なく何度も開閉したり、並んで写真を撮ったりした。言われた時間が経ったら、古い冷蔵庫から中身を入れ替える。あんなにギチギチだったのに入れ替えてみるとすかすかで、ほとんどがドア側の収納やチルド室に収まってしまう。メインの収納スペースには納豆、キムチ、ヨーグルト、味噌、なぜか発酵食品ばかりだがそれくらいしかない。頼もしい……圧倒的収納力に震えた。

 

それから『社会・からだ・私についてフェミニズムと考える本』(井上彼方編)を読む。その名の通り、「からだ」を通して社会のことを、フェミニズムとともに考える本。

井上さんが依田那美紀さんとルッキズムについて考えた往復書簡がとても良かった。「フェミニズムにとても救われてきた一方で、美人と言われがちな顔立ちをしていて、ルッキズムの恩恵も受けてきた自分に矛盾を感じている」という井上さんの感覚を起点に、その特権や優越感を丁寧に振り返る。

ルッキズムと「美人」というテーマだと、「外見によって判断されて内面を見てもらえない」のような悩みや怒りは聞くことがあって、それは要するに「美しいかどうかで判断されるという意味で、私も被害者である」という語りだった。それも大切で尊重すべき感覚だけれど、ここではそうして自分を被害者側に置いて終わらせるのではなく、より解像度を上げて加担していた可能性を内省していく。

ルッキズムの恩恵を受けるのがどういうことか、今ほど自覚的でなかった学生時代を振り返るところがあるのだけど、その時の自分を過剰に責めたりしないのがよかった。悪いのは人ではなくて、社会や構造のほうにある、という考えが流れているように感じた。往復書簡という形式もあってか、友達同士のおしゃべりで黒歴史を披露しあい、笑えない話を笑っていくような雰囲気もある。言葉もやわらかく余白があり、だからこそ自分自身の経験にも引きつけながら読むことができた。「おしゃべり」という意味では、鈴木みのりさんがこの本に寄稿している「取るに足らないおしゃべりの中から」も良かった。

 

夕飯はフライパン蒸し野菜と豚肉。フライパンにキャベツを敷き、そのうえに人参や玉ねぎ、ブロッコリー、きのこなど好きな野菜を乗せ、さらにその上に薄切りの豚肉を乗せて料理酒をかけ、中火で10分蒸す。火にかける前でフライパンにぎっしり食材が詰まっているくらい、肉が蓋にくっついてしまうくらいの分量で、成人男性2人分くらいになる。下ごしらえもいらないし、野菜を大量に食べられてうれしいので最近よく作っている。

*1:これは場面にもよる。相手がそれなりの深度を持って打ち明けてくれた話をしっかり聞いた時などは、「わかるよ」が大切になると思う。その人がなぜその気持ちになったのかを、話を聞く時間の中で追体験するからだ。でも、そこまでではない軽い話の中で求められているのは共感ではないのかも? と思う