ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

withコロナ、with加害者性[2020年9月3日(木)晴れ一時雨]

製氷皿に水を注ぐ時、いつも水を少なめに入れてしまう。その方が氷が製氷皿から外れやすい気がしてそうしているのだけど、どちらにしたってプラスチックのトレーをねじったりするのだから、あんまり効果はないのかもしれない。

水と氷では体積が違うという話も思い出す。どっちの方が大きかったか少し考えて、地球温暖化で北極の氷が溶けて、海面上昇が問題になっているということは……とまわりくどい思い出し方をした。だとすると、やはり気持ち多めに水を注いだほうが良いのだろう。

 

午前中、締め切りが近い原稿の見直しや取材依頼。昼は萎れかけていた小松菜とトマト、しらすのパスタを作る。トマトも少し前に買ったものなのでハリがなくなってきていた。余り物を消費しているだけなのだけど、3種類以上の具を入れることがほとんどないため贅沢をしているように感じる。当たり前だけど2種類の具材で作る時よりも色んな味、食感があっておいしい。

 

昼過ぎから打ち合わせ。6月頃から関わるようになった月刊誌なのだけど、ここでは特集を作りながら打ち合わせを何回も重ねる。ざっくりとした全体像だけ決めて、取材候補やページの構成は走りながら考える感じ。スケジュールに余裕がないので緊張感があるけれど、編集の人と定期的に話をつき合わせながら内容を練って、細かく軌道修正もできるので、毎回楽しく関わらせていただいている。ウェブで誰かをインタビューして、記事を一本書くのとはまた違った面白さを感じている。

しかし9月はすごくヒマになると勝手に思っていたのだけど、この月刊誌の仕事の他にも新しい仕事でいくつか声をかけてもらっていて、意外と忙しくなりそう。ありがたいのだが、今月の収入減を使って持続化給付金を申請しようと思っていたので、どうしようかなと思う。

改めて去年の収入と比較してみる。コロナ以降は毎月の収入が大きく減っているというより、突出して稼いだ月がない、という感じ。去年は通常の1.5〜2倍近い収入がある月が何度かあったのだけど、今月はそれが今のところゼロ。これは年単位でみたらかなり落ちるだろう。だから持続化給付金は必須なのだけど、例年の6〜8割くらいの月が多いこと、フリーランスの収入は遅れて入ってくることなどからなかなか申請の基準を満たせない。

 

総裁選への立候補を表明した菅義偉官房長官が記者会見で言った「自助・共助・公助」という言葉が話題になっている。「まずは自分で、それが難しかったら周囲の人間や地域で、それでも駄目なら国が助ける」という意味で、もっともらしく聞こえるけれど自分や社会がどれだけ尽力したかを判断するのは国だし、それは結果的に自己責任論や新自由主義ととても相性が良い。それにこれまでの自民党の政策を見ていても、「助け合いの精神」のように甘美な言葉を使って自助・共助に極力頼り、公助は最低限という方針に見えるし……。

持続化給付金は自助・共助・公助のどれかと言えば公助で、私はまだ申請していないけれど、それが使えるというだけでだいぶ余裕が生まれている。私よりももっとどうにもならない状況の人はいて、その人たちを支えるためにちゃんとお金が使われるなら、税金が多少高くても許せるだろう。自助・共助で多くを賄って公助が最低限より、公助が充実した上で自助・共助の力も借りながら社会や自分たちの生活を良くしていく方が生きやすいはず。そう思うけれど、少なくとも菅官房長官はそうは思っていないようで、次期政権への不安が強まる。

 

夕方まで仕事をして、夜はチャン・ガンミョン『韓国が嫌いで』を読む。生まれ育った韓国の生きづらさに抵抗し、オーストラリアへと移住するケナの物語。後書きによれば2015年、SNSを中心に韓国の若者たちの間で「ヘル朝鮮(ヘルチョソン大韓民国よりも前近代的な「朝鮮」というワードとヘル=地獄を掛け合わせ、働いていても働いていなくても生きづらい若者たちの閉塞感を表した言葉)」という言葉が流行したそうなのだけど、この小説はちょうどその時期に発表されたものだそう。

休日もなく寝不足で働くことが良いとされる風潮、それ以外の仕事は二流と軽んじられる価値観や収入が少なくろくに暮らせない現実など、本当に韓国と日本って社会規範がよく似ているんだなあと思う。兵役や超学歴社会といった違いももちろんあるけれど。

生きづらい韓国から脱出したケナも、その国で培った価値基準を内包している。それらは主にケナの恋愛を通して描かれていく。学歴で人を判断するところや、無意識にヨーロッパを上に、東南アジアを下に見ているところ。後書きには「自分たちが加害者にもなるうることをちらりと書き表すのは現代性を帯びた韓国文学らしい」とあった。ただその描き方が絶妙で、自らの加害者性に対して内省的になりすぎないのが良い。

 

日本や世界でもそうだけど、この数年間は人種や性的指向など様々なマイノリティの声が可視化されたり、環境破壊や過酷な労働環境といった社会問題への意識が高まったり(問題が深刻化した、という言い方もできるのかも)したことで、誰もが誰かの足を踏みつけていると気づかされた時代だったと思う。

でも、多分そのことにショックを受け続けているだけではどうにもならないし、今すぐすべての加害性を帯びた行為をやめて、これからもずっとそのままでいられるというのは現実的ではない。この数年が加害者性の発見の時代だったとすれば、それとどう付き合っていくかがこれから求められるのだろう。

 

夕飯は昨日作った鶏ピーマンカシューナッツの残りと、みそ汁、ご飯、なすのガーリック醤油焼き。忙しくなってもなるべく自炊は継続したい。