ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

しないという判断について[2020年6月13日(土)雨]

朝起きたら10時で驚いて起きる。昨晩、最近本当に忙しそうな恋人の帰りを寝ずに待っていのだが、帰ってきたのが2時ごろで、そこから少し話をしていたら寝るのが遅くなってしまった。雲が厚いどんよりとした天気で、この時間でも外が薄暗かったのも寝過ごした原因だろうか。本当は8時には起きたいと思っていたので、ちょっと焦る。今日は特に予定が詰まってはいないのだけど、午前中をうまく使えないと無駄に気持ちが焦ってしまう。フレキシブルさがない。

 

ドリップバッグのコーヒーだけ淹れて、原稿の編集作業。ライターさんへの赤字をGoogle Documentにコメントしていくのだが、その指摘が最近自分が書くときに課題だと感じていることと重なっていると気づく。人に言っている場合かよと思いつつ、それとこれとは別の話なので粛々と進める。まあ、それだけ意識しているから、人の原稿を読むときにも気になるのかもしれない。

半分まで進めたところで昼食。今日は先日買っておいた冷麺にする。キムチ、きゅうり、ゆで卵、恋人の家族から贈られてきたハムを乗せたのでかなり見栄えがしたし、味も良かった。この麺、また買っておこう。

食べたら再び自室に戻る。リビングから恋人が皿を洗ってくれている音が聞こえた。

 

仕事をする前に少しニュースとSNSをチェック。相変わらずひどいことがたくさん起こっているが、新しい問題を調べる気力がない。ここ数日はずっとそうだ。そういう時は、調べたり、考えたりする力が少ししかなくてもできることをする。具体的には、すでにある程度知っている問題についての寄付。今日も以前から関心がある問題を扱っていた団体に寄付をした。やろうとすると結局何かしら調べたり考えたりすることにはなるのだが、一から調べるよりは時間も気持ちも負担が少なくて済むし、何もできていない自分を後ろめたく思わずに済む。

でも、こういうのも同調圧力の一種だよなと思う。怒りや違和感、信念のように内発的なものではなく、別の力が私を社会に向き合わせている時がある。そうしていると、何もしないでいることが、ここにいる資格を満たしていないような気分につながってしまう。

「気力が少なくてもできることをやる」とか言うと聞こえはいいが、「今、それをやる(できる)時ではない」と他ならぬ自分が感じるのであれば、別に何もしなくてもいいのだ。何かをすることは大切だけど、しないという判断も尊重されなくてはいけない。

しかし自分自身がその空気に飲まれがちで、ということはつまり再生産もしている。まずは自分の「しない」判断をきちんと尊重してからでないと誰かに何かを言うことはできないな。難しい。

 

日が暮れる前に一通り仕事が終わり、そのあとは多和田葉子『星に仄めかされて』を読む。前作『地球に散りばめられて』に続く2作目。

調べてみると3部作らしいが、もう題名が美しく、最後の作品にどんな名前がつけられるのかと考えるだけで楽しい。あまりその世界観を深く考察したりはできていないのだけど、その代わり、本当に起こっていることのように登場人物の語りを聞いている。ノラの移動への慎重さにシンパシーを覚え、アカッシュの聡明さに惹かれた。そして国境を越えながらぐんぐん移動していく物語が眩しい。

 

お腹が空いてきたので夕飯の支度をはじめる。湿度が高いのでそれに合う音楽が聞きたくなって、なんとなくジョアン・ジルベルトの『In Tokyo』を流す。2003年に東京で行われたライブを収録したアルバム。

書きながら調べていたら、このアルバムは当日の3〜18曲目を曲間含めてノーカットで収録したもの、らしい。当初はアルバム制作の予定はなかったが、ジョアンがこの日の雰囲気に猛烈に感激したため発売にいたったという。そのため音源は確認用のDATをもとにしていて、最初と最後の曲はマイクバランスが悪かったり、デジタルノイズが混ざっていたりしたため収録されていない。多少バランスが悪くても完全収録してほしかったと思うけど、断片的であることがかえってそれを完璧なものにしている気も。収録されなかった時間に流れた空気のことを想像する。

 

ほとんど最後の曲が終わると同時に料理ができた。長い拍手がフェードアウトしてアルバムは終わったが、本当はこのあと19曲目が弾き語られたのだ、と思いながら豚しゃぶをテーブルに運んだ。