ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

漸進[2022年5月29日(日)晴れ]

暑くて眠りが浅かったのか、起きてもあまり疲れが取れていなかった。快眠が取り柄なのにここ数日うまく眠れない日が続いている。もっと寝ていたいけど、すでに日が高くて部屋の中が蒸し暑い。今日の最高気温は30度を超えると聞いた。あと数時間寝たところで大して変わらない気がして、シャワーを浴びてパソコンに向かう。

今書いている原稿で苦戦しているものがあって、昨日もそれと格闘していた。月曜日にまた本腰を入れて取り組みたいので、今日は別の原稿を仕上げることに。やっぱり頭が働いていない感じがするけど、無理やりやっているうちに思考が追いついてくる。どうにか昼前に終わらせた。

 

お昼ご飯は木曜に作った豚キムチ。金曜夜、土曜の昼と夜にも食べているのでもうかなり飽きているのだけど、昨晩の時点で味が酸っぱくなってきたように感じて、早めに食べ切りたかった。傷みはじめているのをごまかすように納豆を混ぜて、白米の上に乗せて丼にする。

 

冬物をようやく洗ったので、リビングの床に広げて平干し。インドなどの湿度の低い地域では洗濯物を地面に広げて干すのを思い出す。いつもこうしているけれどかなりスペースを取るし、乾くまで半日以上かかり、定期的に裏返すなどの手間もかかる。このやり方が正解ではない気がしている。違う気がする、と思うところまでが恒例行事になっている。そしてその違和感も、自分なりのやり方で手間をかけることも実は嫌いではない。

こんなふうに床を自由に使えるのは、部屋に一人でいるからだ。だから私が冬物を洗うのは恋人が出張などでいない時に限られる。自己流の平干しをするのはいつも一人の、夏の手前のよく晴れた日で(そうじゃないと乾かないため)、状況が決まっていることでなんとなくより特別なことに感じるのかもしれなかった。

 

外に出ると暑くてまぶしかった。上下ともに黒っぽい洋服で出てきたので、日差しの下にいると自分が濃い影になったように感じる。恋人とLINEしながら文フリへ。Twitterを見ていてなんだか今回は盛り上がりそうだと感じていたのだけど、なんと最初は入場の待機列が建物の外まで続いていたらしい。炎天下のなかお疲れ様です。私が着いた時には行列は室内のみだったけど、それでもフロアにとぐろを巻くような長蛇の列。20分は待ったと思う。入った時点でちょっと疲れていた。

知り合いのブースや気になっているブースをめぐる。先日の日記祭でもご一緒した針山さんが出店していて、「開場前に『サイトへのアクセス数がコロナ前に戻ったので、来場者が多いと思う』ってアナウンスがあったんですよ」と言っていた。そんなことなら自分も出ればよかったなとちょっと後悔。新刊がないからとか言ってないでとりあえず出店して、一冊作れなくてもペライチでもなんでも作って配ればいいのだ。

せっかく客として来たのでじっくり見て回ろうと思っていたけど、あまりの人の多さに途中からは結局足早に知り合いに挨拶するだけになっていた。1時間半ほどかけてまわって、あの人にもこの人にも会えて新刊を買えてよかった、と思いながら退場。来場者シールを剥がし、改札をくぐったところで行きそびれたブースがあることに気づく。Twitterを見てさらに抜け漏れに気づく。全クリしたと思ったけど全然ダメだった。まあ仕方がない。

 

新宿のモンベルで先日修理に出した傘を受け取る。GAPへ行き、先日気になっていたボーダーのTシャツを買う。2枚買うと30パーセントオフだったので、まんまと色違いで買った。

GAPは中国によるウイグル族への強制労働の疑いがある新疆ウイグル自治区から衣服を調達していないことを声明として発表している。日本ではユニクロ無印良品などが新疆産の綿を今も使用し続けている。なんだかんだでユニクロの服は着やすいし値段も安いから、後ろめたさを覚えながらつい買ってしまうのだけど(今日もユニクロのデニムを履いている)、GAPを利用してみて、後ろめたさや不安を感じずに買えるってこんなにストレスフリーなのかと思った。ユニクロ以外でも洋服は買うけど、特にそう思ったのは価格帯が近いからだろうか。

GAPの店頭には東京レインボープライドとのコラボと思われるTシャツがあった。こうしたコラボアイテムの多くがレインボーフラッグの6色を使っていたのに対し、GAPのTシャツは白、水色、ピンクのトランスジェンダーカラーと茶色、黒の人種的マイノリティカラーを含めたプログレスレインボーがモチーフ。どんな意図があってそれを採用したのかまではわからないけど、前進しようとする意志、みたいなものを読み取りたくなった。デザインもなんとなく今の気分に合っているし、もうちょっと頻繁に足を運んでみようかな。

 

企業倫理的な話でいえばやはり今気がかりなのは、トランス女性が男性上司からセクハラを受けて提訴したpixivの件。原告の方の「周りにも同様の被害を受けている女性がいて、(会社に)一緒に相談したが、生来の女性と私に対するセクハラでは『重みが違う』と言われ、本当に悔しい思いをした」という発言に胸が痛む。重みが違うって一体誰が、どの立場からそんな判断ができるんだ。pixivは今日の文フリにも協賛?していて、トートバッグと「pixivに投稿した小説を冊子にできるサービスをはじめました」というリーフレットを配っていて、複雑な気分になった。会社側の対応を注視したい。

しかし上記の原告の方の発言内容もそうだけど、トランスジェンダーへの偏見や無理解は相変わらず根強い。さらに近年はヘイトを見かける機会も増えている気がする。可視化が進んでいるのかもしれないけどそれは原因のほんのごく一部にすぎなくて、やはり苛烈化してしまっているような。トランス女性は女性ですよ。こちらの「はじめてのトランスジェンダー」のページがわかりやすいので、よくわからない人には一度読んでみてほしい。

駅前を通ると、黄色と水色の国旗を掲げた在日ウクライナ人の方々のデモ。少額だけど寄付した。

 

プールへ行くため移動する。さすがにちょっと疲れていて、セブンイレブンで買ったアイスカフェオレを近くの公園で飲んだ。文フリで買った本をぱらぱらしながら。汗で肌がべたついていたけれど、シャワーを浴びて泳げばさっぱりするだろう。今日は張り切って3キロ泳ぐぞ〜などと思っていたけど、やっぱり疲れていて2キロしか泳げず。しかし以前は2キロなんて元気な時にしか泳げなかったわけで、確実に進歩していると感じる。漸進。

 

今日の新規陽性者数は2194人、現在の重症者数は3人、死者4人。

自覚する[2022年5月26日(木)晴れのち雨]

校了や取材で昨日はかなり忙しくて、おかげで今朝はぐっすり眠れた。今日はやるべきことはあるけど、比較的ゆったりめに予定を組んでいる日。午前中にいくつかの原稿をちまちまと進めて、昨日の取材の文字起こし。今日目標としていた作業はそこまでで、正午をまわったくらいで終えられた。午後は週末にやろうと思っていた編集作業を片付けちゃおう、と思いながら、お昼ご飯の準備をする。

 

SEIYUの「On the ごはん ルーロー飯」を湯煎し、ご飯をチンする。作って食べている間、昨日のTBSラジオのアトロクをタイムフリーで聞く。高橋芳朗さんがハリー・スタイルズの新作を解説する回。ハリーのポップな新作を最近はよく聴いていて、先週末もライブ映像やMVをいろいろ見ていた。以前からスカートやフリル、レースなどを取り入れたファッションがすごく好きだなーと思って気になる存在ではあったのだけど、今作でまた一段と好きになったように思う。

一瞬「これが“推し”ってことかも…?」と思ったりもしたのだけど、自分がハリーのようなアイコンを「推す」ってなんて退屈なんだろうと感じて、今は思い直している。夢中になるなら何かもっとドラスティックな、めちゃめちゃになるような跳躍のあるものがいい。自分の内側にある要素や方向性を美しく、ハイレベルに具現化したものに見とれるのは自己愛的な感じがする。それ自体を否定はしないし、私だってそうして楽しみたい部分が残っている。自分を愛せない人が、何かに自己を投影して愛そうとすることは大切なことだ。でも、そこに「推し」という概念を当てはめてしまうと、何かを隠蔽する方向に物事が進んでいく気がする。

ラジオではハリーが女性用の服を着ることについて、保守派コメンテーターのキャンディス・オーウェンズが「強い男性なくして生き残った社会などありません」「男らしい男性を取り戻しましょう」などと批判したことを否定的な文脈で紹介していた。これに対してライムスター宇多丸さんが「何を恐れてんだよ」とすぐに合いの手を入れていて、そのまっすぐな声がなんだか怖かった。言っていることには完全同意だし、以前なら信頼できると感じた気がするのだけど、今日はうまく言えない違和感が混入した。

私は今、自分の考えや価値観がけっこうぐらついている。価値観自体はそう大きく変わっていないのだけど、その支え方を見直す必要があると感じている、と言う方が正確だろうか。そうやって自分を作り替えていく時、強くてまっすぐな言葉とは距離を置いたほうがいい。なんとなく無意識でそう思っていて、生理的な反応として違和感が生じたのかもしれなかった。

 

編集作業を終えて、仕事の本を読んでいると恋人から「帰る」とLINE。明日からイタリアへ出張なので、今日は早めに仕事を切り上げたらしい。恋人の他にも何人か、友人や知り合いで海外へ出張などへ行く人を知っている。そういえばGWには「ANAのハワイ便が2年ぶりに満席」というニュース記事も見た。いよいよ海外へ行くことのハードルが下がっていくのだろうか。本当にどんどんルールが変わっていく。そして海外へ行くとかそんな話だけではなくて、屋外ではマスクをしなくていいとか、そういうもっと身近なレベルでも変化を感じることになるんだろう。

 

夕飯は久しぶりに豚キムチを作った。「明日からはもう食べられないんだから味わって食べな」と言う。お互いにわざと(出張の一週間は)という部分を省略して、「明日からは食べられない」「明日からはもうできない」などと永遠に機会が失われるような言い方をしている。それは感傷に浸るというより戯画化している感じだ。

 

恋人は明日の朝が早いので早々に寝てしまって、私は自分の部屋で本を読んだりSNSを見たりする。ふと気づくと気持ちが沈んでいて、それは多分気圧のせいなのだった。最近は気持ちが落ち込むと思ったらだいたい気圧のせい。笑ってしまうくらい影響を受ける。笑ってしまうくらいと書いたけど普通に真顔。そして外的なものと自覚しても、少し冷静になれるだけで気持ちが元に戻るわけではない。

 

気づいたら1時だった。パソコンの画面を見続けていたせいなのか目が冴えている。それでも寝ようと思ってベッドへ行くと、枕にカバーがついていなかった。昼に洗濯して、風呂場に干してあるのだった。つけなくちゃと思うけどその気力がない。いつもと違う肌触りが落ち着かない。カバーをつけたらすぐに眠れる気がするけど起き上がれなくて、なるべく気にしないように、無感覚になろうと思いながら眠った。

 

今日の新規陽性者数は3391人、現在の重症者数は3人、死者10人。

タケノコとロボ[2022年5月23日(月)晴れ]

水を飲もうと冷蔵庫を開けると、半分に切ったタケノコの水煮を保存しているタッパーが目に入る。アクが出るので水を換えなければと思って手に取ると、断面を上にしたタケノコが水の中でゆらゆらと揺れた。裏返った節足動物のようで可愛く思える。うっすらと白濁した水を捨てて、新しい水を注ぐ。世話してる感があって愛着が湧いてくる。どうやって食べようかな。もう半分は日曜日に、『きょうの料理』で見たたけのこチーズトーストにして食べたのだった。

 

月曜日なので会社へ。電車の中で、ゼレンスキー大統領がウクライナからの男性の出国を求める請願書に反対する姿勢を示した、というニュースを読む。ロシアのウクライナ侵攻から3ヶ月。毎日新しい事件が起きて意識がそっちに持っていかれるけれど、戦争はまだ続いている。

ウクライナでは2月24日から総動員令が発令中で、18〜60歳までの男性は出国が認められず、徴兵の対象になっている。自分がウクライナに住む男性だったら、と考えてしまう。絶対に徴兵されたくないし恋人や友人、知り合いも徴兵されてほしくない。何か見落としがあるんじゃないかと不安になってしまうくらい単純に、素朴にそう思う。ただそう思えるのは戦時下にない日本での想像だからであって、すでにたくさんの人が命を落としているウクライナでの状況はもっと複雑なのかもしれない。一度舵を切ったのに出国を認めれば、士気が下がり兵士たちの中でも分断が生じるかもしれない。「生まれ故郷を守るために戦う」なんて自分は絶対にごめんだと思うけど、その思いに燃えて戦地へ向かった人がたくさんいたから守られたものもあるのだろうし……そもそもロシアの軍事侵攻という大きな間違いの上で生じている状況で、出国を認めない=「愛国」を掲げて生きている人間を強制的に戦力へと変換する姿勢に反対したい気持ちに、免責したくなるような気持ちが靴底の小石のように紛れ込む。足に力を入れようとすると痛みが走る。現実とかこれまでの動向とかを一旦置いて、それでも毅然と立つ力がほしい。

 

地下鉄を降りると交差点に警官が立っていて、バイデン大統領が来日していることを思い出す。信号が変わるまで警官の人を見るともなく見る。腰に拳銃の形に膨らんだ革のケースがぶら下げてある。

 

関わっている雑誌が校了したので各記事の短い紹介を考え、疲れたところで明日締め切りの原稿の推敲。取材中の/思考のうねうねとした蛇行が伝わる原稿にしたいと思ってやってみたのだけど、果たしてこれが読み手に伝わるのか不明。見返せば見返すほど手を入れたくなるところがでてきて、一生完成しなさそう。だけどかちっと情報だけをまとめるのはなんとなく違うような気がしている。

 

気づいたら夕方で、近所のガストへ行く。ここのガストでは少し前からネコの顔がついた配膳ロボットが2台運転している。ドリンクバーの横、キッチンの入り口がロボットたちの待機場所になっているのだが、水を取りに行った時に配膳を終えて帰ってきたロボットとぶつかりそうになって、恐怖を感じた。

スピードは出ていないし人感センサーがあるから実際にぶつかることはなさそうなのだけど、人間ならその人が止まって道を譲ってくれるのか、どちらに避けるのかが微妙な体の向きや目線でわかるのに対し、ロボットはそれがない。愛らしく思えるが感情も次の行動も読み取れない、まるい瞳がディスプレイに表示されているだけだ。私はタケノコに愛着が湧くのに、猫型ロボットは怖い。

水を啜りながら観察していると、ドリンクバー付近で立ち止まった親子に「通してほしいニャ」と悲しそうな声で何度も話しかけていた。音量が小さくて、ロボに背を向けて何やら相談している親子には聞こえないらしい。人間だったら通れるくらいの隙間があったが、人感センサー的には無理なのらしかった。気づかないまま親子が立ち去り、ロボが私の席にまっすぐ向かってくる。その背に和風ハンバーグをのせて。

 

今日の新規陽性者数は2025人、現在の重症者数は4人、死者6人。

トランスフォーム[2022年5月19日(木)晴れ]

昨日少し夜が遅かったからなのか、朝もなかなか起きられなかった。6時半ごろに一度目が覚めたけど、頭も働かないし体もだるくてまた寝てしまった。疲れがとれていないというより、眠りが深すぎて意識が覚醒するレベルまで浮上できないという感じだった。

 

急に入ってきた仕事があって、今日は原稿2本を仕上げなくてはならない。焦りを感じつつ9時前から仕事開始。午前中に短いほうを一本書き終え、昼食を作りながら2本目の原稿の構成や書き出しを考える。

お昼はトマトパスタ。鍋が埋まっているので(火曜日に作ったカレーが余っている)、フライパンを使ってソースでパスタを茹でる若山曜子さんのレシピを参照しながら作る。しかしパスタが多すぎたのかテフロン加工が弱っていたのがよくなかったのか、フライパンにかなりくっつく。途中でかき混ぜたり水を足したり、なんとなく牛乳でのばしてみたりと茹でている最中ずっと慌ただしくて、原稿を考えるどころではない。最後のほうはやけくそで、あとから各々が調整すればいい、と思いながら適当にツナ缶と塩を混ぜた。

器に盛ろうとすると、白いプレートのふちに赤いソースが飛び散った。大盛り2人前のパスタでぎゅうぎゅうのフライパンは熱くて重い。トングのバネが力強すぎて手が痛い。不恰好すぎて笑えてきてしまって、そうしたら色々どうでもよくなった。ひどい味だろうと思っていたパスタはそこまで悪くなく、昨日作った長ネギとミックスビーンズのコンソメスープは具がやわらかかった。

 

夕方ごろにひとまず原稿を終える。途中、友人のHから「『TITANE』が好みだったらこれもおすすめ」とLINEが届いていた。昨晩新宿のバルト9で見て、短い感想(といっても「怖かった」くらいしか書いていないが)をインスタのストーリーにアップしたら複数人からリアクションがあって、けっこうみんな見てるんだな、と思った。Hもリアクションをくれた一人。

 

幼少期の交通事故で頭にチタン・プレートを埋め込まれた女性ダンサー・アレクシスの物語。アレクシスは長く鋭い髪留めを使って冒頭から人を殺しまくるし、序盤はひたすら痛いシーンが続く。私は友人から「車に性的欲求を抱いてしまう主人公が、車の子どもを妊娠する」話と聞いて興味を持ったのだけど、その設定が埋もれるくらいパンチの効いた映像が畳み掛けるように展開されていて、自分の身体が恐怖で満ちる感覚になった。

「痛い」シーンでは目もとを手で覆いながら指の隙間から見るようにしていたのだけど、耳も塞ぎたくなるようなシーンが何箇所かあって、だけど手は2本しかないから絶望したりしていた。今になって思えば、目はただ閉じればよかったのだ。そんなこともわからなくなるほどには恐怖していた。

ホラー・グロ耐性がないのに見にきたことを心底後悔して、席を立ってしまおうかと本気で考えることもあった。でも、そうやって五感を磔にされる劇場で見るからこそ、映画に没入できたのだとも思う。ここでは「逃げ(られ)ない」ことが重要になっているからだ。

アレクシスは膨らんでいく腹=自分の身体から逃げられない。連続殺人犯として警察に追われるアレクシスは、行方不明者の張り紙に載っていた青年・アドリアンに成り代わろうとするのだが、そこで迎えにきた父・ヴァンサンがまた狂気的で、アレクシスはヴァンサンから、あるいは「アドリアンであること」から逃げられなくなる。ヴァンサンもまたかつてアドリアンを失った悲しみに囚われていて、老いて男らしさを失っていく自分の身体から逃れられない。

逃げられない時、人はトランスフォームする。

指名手配され追い詰められたアレクシアは、アドリアンに変身することで活路を見出す。嗚咽するほどさらしをきつく巻き、女性としての身体を、膨らみ続ける腹を否認するように変形させる。息子を諦められないヴァンサンはアレクシスをアドリアンだと思い込もうとする=認知をねじ曲げ、ステロイドを注射して老いていく肉体を改造する。

そもそもアレクシスが頭にチタン・プレートを埋め込まれたのだって、そうすることでしか生きられなかったからなのだった。有機物と無機物、男と女、現実と妄想、生と死。時には既存のカテゴリに踏みとどまり、時には越境のため果敢にジャンプする。境界線上で変容のための死に物狂いのダンスが続く。でも、それはすべてコントロールできるようなものではない。ミス、暴走、まぐれ、幸運。踊る身体から汗のようにほとばしるそれらが床に降り注ぎ、さらに足元を滑らせる。そして激しいステップで、境界線は摩耗していく。かすれて見えなくなれば、それは越境というより混乱しながらの融合と言える。

暴力性の中であらゆることが倒錯していく。その過程で、「逃げられない」が「逃げない」になる。境界線が、輪郭が破れてしまっているのだから、(外的な何かから)逃げる/逃げないという判断自体が成立しない気もするのだけど、少なくともそう見える瞬間がある。それはアレクシス/アドリアンがヴァンサンへ向ける眼差しに宿り、そしてクライマックスのヴァンサンの判断に宿る。それは意志と呼ぶには混乱しすぎているけれど、外圧によるものだと決めつけるには力強すぎるニュアンスで。

寝室でヴァンサンが腹の上にライターの火をこぼす時、ヴァンサンは離れた場所で出産に悶えるアレクシスと焼けるような苦しみでつながっている。自他の区別を失い、異物を取り込んでトランスフォームしていく。映画を見ていた私もそうで、最初は激しい暴力に逃げられなさを感じていたけれど、物語が進むごとに痛みの共感覚を通してアレクシス/アドリアン、ヴァンサンとの境界線が曖昧になり、「逃げない」でラストシーンを見届けていた。

一言で言うと、すごくクィアな(そして痛くて怖い)映画を見た、という感想。それはジェンダーセクシュアリティを扱っているからという意味でもそうだし、それ以上に「逸脱していく動き」そのものに力点が置かれていることがそのように思わせた。

 

Hに返信したいが、感想がきちんと言語化できていないので後日日記に書こう、と思いながら仕事のメールチェック。着信があり、打診していた取材が来週に決まる。新作のゲラを読む前に近作を読んでおこうと思って、kindleで短編をいくつか読んだ。

夜はプールへ。原稿で頭を使って疲れていたので迷ったけど、冷たいようなぬるいような水の中で体を動かせば気分転換になる気がした。いつもよりもかなり空いていて泳ぎやすい。合計で2キロ泳いで、距離はいつもとそんなに変わらないけれどほとんど休憩しなかった。泳ぐスピードも速くなっている気がする。息継ぎの回数を減らすようにしていて、体のバランスが崩れないからだろう。体制を立て直すために失速することがなくなった。酸素が足りなくて苦しくなることもあるけど、苦しい時にこそアドレナリンが出ているような感覚もある。ちょっと怖い。

今日は自分が泳いだ距離がたびたびわからなくなった。今が925メートルなのか、875メートルなのかで何度も混乱する。そういえば、最近は毎日が過ぎるのもあっというまで、以前は日記を4日に一回は書きたいと思っていたのに気づいたら1週間以上書けていなかったりする。時間感覚が変わりはじめているのだろうか。

 

今日の新規陽性者数は4172人、現在の重症者数は2人、死者5人。

空白[2022年5月10日(火)晴れ]

大変そうだった仕事の作業量が案外少なかったこと、今月下旬に予定されていた出張が来月になったことなどが重なり、だいぶゆとりのあるGW明け。GWの予定が立て込んでいて疲れたからほっとしているけど、暇ということは収入が減るということでもある。不安が胸の底から湧き上がってくる気配を感じるが、まあこの状況もそう長くは続かないだろう。以前より少しは楽観的でいられるようになった。

 

10時半からオンラインで打ち合わせをして、そのあと短い原稿を書く。そこまでやったら急ぎの仕事は終わってしまったので、仕事で必要な本を読み進め、U-NEXTで『マイ・プライベート・アイダホ』を見た。先日のカナイさんの展示でこの映画のワンシーンをモチーフにした作品があって、久しぶりに見返したくなったのだった。

以前にこの映画を見たのがいつだったか、もう忘れてしまっている。でも当時とはずいぶん受ける印象が違って、こんなにドリーミーな映像だったのかと(主に序盤)引き込まれながら見た。

繰り返される「4」の意味はなんなのだろう。リヴァー・フェニックス演じるマイクの赤いジャケットにもこの数字が刻まれているし、男娼として日銭を稼ぐマイクを買った男の誕生日、強盗の人数、フレンチフライのオーダー数など何度も何度もあらわれる。聖書では「自然」や「創造」を意味するようだけど、キリスト教に明るくないのでそれ以上のことがうまく読み取れない。

中盤、焚き火を囲みながらマイクがスコット(キアヌ・リーブス)に愛の告白をするシーンがある。このシーン、もともと脚本にあったわけではなくリヴァー・フェニックスが考案したものだそう。この告白があることで、その後の展開の痛切さがより鮮やかに映る。

色々とレビューを読んでいると、このことから「もともとマイクがゲイであるという設定はなかった」と書いているものを見かけるのだけど、その書き方は正確なのかな、と少し疑問に思う。告白をしたかどうかと、ゲイかどうか、マイクがスコットに愛情を抱いていたかどうかはまた別の話なのでは。そして仮にここで別のやりとりが交わされていても、マイクのスコットへの特別な思いはそれ以外のシーンから十分に読み取ることができたのではないか。私も正確な資料に当たっているわけではないから想像でしかないし、アドリブや演者のアイデアがふんだんに取り入れられた作品だから、この焚き火の会話をもとにダイナミックに他のシーンも書き換えられたのかもしれないけれど、でもそれがこの時代においては「秘められるもの」だったことは念頭に置いてみたほうが良いように思う。

 

映画では「死と復活」も重要なモチーフになっている。ストリートの若者から、中でもスコット(キアヌ・リーブス)からは本当の父のように慕われるボブの帰還(=復活)には祝祭的な騒々しさがあった。後半、スコットがストリートの男娼という立場から足を洗い、もともといた中産階級の家に戻ったあとでボブに言い放つ「以前の僕に戻る日まで近づくな」というセリフも含みがあり、家に戻って憎んでいた父の跡を継ぐこと=死、以前の僕に戻る=復活と位置付けることができそう。

突然眠ってしまい、次のシーンでは誰かの腕の中で目を覚ますマイクのナルコレプシーも、「死と復活」を暗示している。ただ、マイクはスコットと違って、それを自分で操ることができない。死と復活はマイクに装置としては埋め込まれていても、不良品的な、ちゃんと機能しないものである。

マイクにとって死は事故的に訪れるもので、彼はスコットのようにそれを復活と結びつけることができない。その結果、彼は死⇄復活のダイナミックな円環ではない、どこにも行けない閉塞的な円環の中を生きることになる。亡霊やゾンビ、幻影のようなもの。代表的なものが母親の存在で、マイクは蜃気楼のように遠ざかる母親の影を追って旅をすることになる。マイクと母親との関係性は死、つまり断ち切ることではなく未練が支配していて、それゆえに復活への可能性は閉ざされている。

こう考えると、スコットとの関係も母親との関係の相似と言えるのかもしれない。旅の途中で出会った女性と恋に落ちたスコットは「どこかで落ち合おう」と伝えてマイクの元を去る。表面的には関係の復活を予感させる言葉だが、状況を加味すれば希望と呼ぶには中途半端で、結局その後も二人が落ち合うことはない。死の儀式に失敗すれば復活の道は絶たれ、未練の中に閉じ込められることになる。

「この道は──どこまでも続く。たぶん世界をぐるっと回っているのだ」。そう言って、マイクはアイダホの路上に倒れる。その言葉が示すのは死と復活の円環であり、出口のない閉塞感なのだと思う。なんか書いてて悲しくなってきたな……本当は救いを見出したかったのだけど。

 

映画を見終えてまた仕事。Hさんから記事公開の連絡が来たので「今月ちょっと余裕あります!」と伝えて仕事をもらう。それと前後するタイミングで、文フリやキチジンでご挨拶していた編集の方から面白そうな取材の依頼も。少しは予定が入ってほっとした。

 

夕方からプールへ。5月に入ってからはじめて泳いだのだけど、なんとなく胸のあたりに違和感があって気持ちよく泳げず。いつもはしている耳栓を忘れてしまったことも原因だったかもしれない。久しぶりに耳栓をしないで泳ぐと、なんだか半分溺れているような気分で落ち着かなかった。

 

今日の新規陽性者数は4451人、現在の重症者数は9人、死者2人。

perk[2022年5月8日(日)曇り]

昨夜は久しぶりにリアルのようなことをした。リアルはゲイ向けのマッチングアプリSNSでつながっていた人と実際に会うこと。インスタでつながっていたYくんと三丁目の交差点で待ち合わせ、はじめましてとぎこちなく挨拶する。よく行くという香港料理屋に入り、飲み食いしながらお互いの接点を探す。

そうしながら、この感じ相当久しぶりだなと思っていた。恋人ができてからは初対面の誰かと一対一で会って飲むような機会はほとんどなかったし、コロナ禍になってからはゼロ。最初は不安もあったけど酔いがまわるなかでなんとなく打ち解けたというか、お互いに対して安心していく感じがあって、いい時間だったと思う。二軒目に連れて行ってもらったバーもお客さん同士の会話が多くて、コミュニティに招き入れてもらったようなうれしさがあった。Yくんはこの店の常連で、同じ常連の人との会話から新たな一面を知ることもあった。

 

今朝はアルコールが残っていて体調がよくないが、いい夜だったので後悔はない。午前中は水を多めに飲んだりなどして過ごす。GWは渋谷パルコでカナイフユキさんの展示に行ったり、友人の家でUNOをしたり、恋人と一泊で茨城へ旅行したり、けっこう精力的に遊んでいた。新しい人間関係に飢えている今、他者とともに過ごす時間を持てたこと、やりとりができたことは本当によかったし、旅行も自分だったら行かないような場所へ行けて(今回の旅行は恋人がプランを組んだ)楽しかったと思う。でも、連日のことでちょっと疲れてしまった。本を読んだりプールで泳いだり日記を書いたり、つまり「一人で過ごす」が全然できなかった。そのことにかなりストレスを感じているが、今日一日で頑張って挽回する気力はないし、そもそもそれは何か違う気がする。結局、午前中は何もせずにいた。

 

お昼は恋人が「ロイヤルホストに行きたい」という。恋人はロイホに行ったことがなくて、最寄りのロイホはうちから徒歩20分くらい。もう今は少しでも特別な感じのあることをしたくない、雑に過ごすことが一番精神を回復させてくれるはずなのにと最初は乗り気ではなかったのだが、断るのも角が立つし代替案も思い浮かばなくて、流れに任せた。結局、20分の散歩は気分転換になり、カシミールカレーのスパイスは酔いや憂鬱から覚める味で、食べ終わる頃には来てよかったと思っていた。反発して断っていたら、後味の悪さを抱えながらベッドで寝ているだけだっただろう。

 

帰り道、雑貨屋で数量限定のKneippのバスソルトを買う。ミントを使ったもので、パッケージに使われているペンギンのぬいぐるみの写真がかわいかった。スーパーで夕飯の買い出し。それから夕方までだらだらして、プールかサウナへ行こうと家を出る。体を動かせば気分が変わりそうだったし、大きな水の中で動いた時の、肌に波がまとわりつく感じを体が求めている気がしたが、面倒くささが勝った。サウナだけ行く。怠惰に過ごしてしまって嫌だなと思う気持ちと、自分の快を優先するのも大切なことだと思う気持ちで、プラマイゼロ。

 

蒸し野菜と蒸しブリを作って食べ。夜は「フレンズ」。今年のはじめごろから見続けていたのをついに見終えてしまった……!!完璧な荷造りをしたレイチェルに、モニカが「もう何も教えることがない」と言うシーンで泣きそうに。フィービーは最後までイカれていてガラが悪くて最高だし、笑えてほろ苦いグランドフィナーレだった。

この半年、元気がない夜は「フレンズ」の気楽さ、今と全然違う時代の空気感にかなり救われた実感があって、もう新しいエピソードを見られないと思うと寂しい。本当に親しい友人と離れる時みたいだ。でも、先日会った友人は「自分は何度も繰り返し見てます」と言っていた。思い出して、慰められたような気持ちになる。

余韻にひたりながらWikipediaを読んでいて(小ネタやトリビアがたくさん載っているし、その長さと細かさに編集している人の愛が感じられてすごく好き。なのだけど、いきなりネタバレに出くわしてしまうのである時期から見ないようにしていた)、6人がいつも集まっていたカフェ「Central Perk」の店名の由来にぐっとくる。“店名は、公園名の「セントラル・パーク」と英単語の「perk」(コーヒーを淹れる)及び(〈落胆、病気の後に〉元気を取り戻す)をかけた洒落”。そういえば主題歌の「I'll be there for you」もperkな歌詞だった。あの弾けるイントロが頭の中に流れる。

 

今日の新規陽性者数は4711人、現在の重症者数は8人、死者6人。この数字を記すことにどれだけの意味があるかわからなくなりつつあるが、ひとまず記録を続けてみる。

言葉とルール[2022年5月1日(日)曇りのち雨]

昨日の夜は副反応のせいでひどい悪寒があったのだけど、3時ごろに目が覚めた時はだいぶ楽になっていた。ようやく治まってきたかな、と思って体温を測ると37.8度。これだけ体が軽いのにけっこう高い。昨晩も体温を測っておけばよかったな、と思いながらロキソニンを飲んだ。なんとなく眠りたくなくて、時間の感覚を失いながら深夜にネットをしたりする。SNSにはけっこう起きてる人がいる。

 

空が青白くなってきた頃に眠って、起きたのがたしか8時くらい。今度こそ本当に体調は良くなった感じで、体温も36度台後半。2回目の接種時の副反応が重かったからこの土日は両方潰れる覚悟でいたのだけど、今日は少しは動けそう。そう思ったら出かけたい気がして、1日ぶりにシャワーを浴びて着替える。明るい色の服がほしくてネットで買って、届いたばかりのUnited AthleのグリーンのTシャツを着た。

 

新宿のモンベルで折り畳み傘を修理に出す。先日、恋人がドアに挟んで持ち手の部分が割れてしまったのだった。店員の人に見てもらうと、挟んだ時の衝撃で軸も歪んでおり、あわせて交換が必要だという。修理の期間は4週間。色々面倒くさくて新しいものを買ってしまおうかと思ったけど、なんか恋人も修理してほしそうだったし、私も(修理して長く使うってだけで全然大したことではないのに)消費資本主義に抵抗するんや……とか思って、修理に出すことにした。ちょっと良いことをした気分になっている自分がいて、うわ軽薄〜と思う。

ルミネなど駅周辺の服屋をうろつく。ふらっと入った店で「Tシャツ、綺麗ですね。発色がいい」と言われる。その店でも、他の店でも何も買わなかった。ここ数年の夏服のパターンに完全に飽きており、何か新しいものを取り入れたい。グリーンのTシャツもその一環だった。高島屋ユニクロでラガーシャツを見かけて、ラガーシャツは自分的に地続きでありながらちょっと新しくていいかもと手に取る。しかしそれなら古着のほうが人と被らないだろうし、今度高円寺などで探せばいいやと棚に戻した。アイデアだけ得た。

 

歩き回ったら疲れてしまい、体も再び発熱してきた気がする。胃に負担がかからないものが食べたくてスープストックで昼食を食べ、駅構内の成城石井でミントティーを買う。まるでおしゃれさんみたいやね、と思いながらホームへ。意外と雨が強く降っていて、恋人とLINEしていたら「駅まで迎えに行こうか?」と申し出。傘を壊したこと、それを修理に出したことで私の手元に傘がないことに何か思うことがあるのかもしれない。濡れたくないのでそうしてもらう。

 

家では少し仕事の連絡などをして、夕方に『マティアス&マキシム』を見る。副反応でダウンするからこの週末は気になっていた新作や見逃していた映像作品を色々見ようと決めていた。

疲れもあったのか、中盤少しうつらうつらしてしまった。このままではまともに内容が頭に入ってこないと思って、30分ほど寝てから視聴再開。後半はある程度集中して見られて、映像の美しさにも何度か見入った。

言葉とそれ以外のコミュニケーション、ルールのうちそと、が対置された映画として見る。マティアスはたとえば友人が「ケーキに火を付ける」と言ったのを「ロウソクにだろ」と訂正したりする、友人から「言葉警察」と揶揄されるような男。それはマティアスが言葉という客観的に判断できるもの=ルールが明確なものに頼っていることの一つの表彰となっている。弁護士というマティアスの職業もそうだし、マキシムを送り出すパーティで行われたゲーム(言葉遊びのゲームだった)でマキシムがインチキをしているのに怒り出す場面からもその性質が読み取れる。

ただその一方で、劇中で「言葉」の信頼性は限りなく低い。旅立つマキシムにマティアスが贈るスピーチは冴えないし、マティアスと恋人、マキシムと母親、マティアスと友人など、様々な関係性の中で印象的な会話のシーンの多くが口論となっている。マキシムとその友人たち、マティアスの恋人が音楽で盛り上がるシーンでも、マティアスはひとり沈んだ表情でいる=非言語コミュニケーションを拒絶する。トロントからやってきた弁護士のマカフィのジョークも、女性を性的に消費する言動を繰り返しながらマティアスを誘う視線も、マティアスを混乱させるだけでしかない。マキシムがオーストラリアで必要になる推薦状(「言葉」で書かれた書面)は届かないし、マキシムは「その英語じゃ向こう(オーストラリア)では通じないわよ」と笑われたりもする。そもそも、マティアス&マキシムという名前自体、愛称にするとマット&マックスでかなりややこしいし*1

言葉が信用されていないのは、マティアスとマキシムがお互いへの気持ちを、「ルール」から外れる感情を言葉にすることができないからなのだろう。ルールに則っていればないものにできると考えているから、でもある(社会的な規範にせよ、「あのキスは映画のため、罰ゲームのため」という言い訳にせよ)。

終盤、マティアスがマキシムに向けた言葉が狂いなく届くシーンが一つだけあるのだけど、それは誰もが言葉にしないことが暗黙の了解となっていた言葉だった。マティアスは自分をがんじがらめにする「言葉」を口にして、「ルール」を破る。そこから物語が変わっていく。言葉以外のコミュニケーションがマティアスから溢れ、非言語の曖昧さによって混濁しながら、多くがマキシムに届いていく。

ノンバーバルコミュニケーションの豊かさを織り上げ、映画はクライマックスへたどり着く。希望と切なさのあるラストシーンのあと、二人がどんな言葉を交わしたかは明言されない。

 

映画を見たあとは古着を見に行ったり銭湯に行ったりしたいなと思っていたけど、体調もよくなかったし、途中で少し寝たせいで時間も遅かった。夕飯にかつおのたたきを食べて、夜は早めに眠った。

今日の新規陽性者数は2403人、現在の重症者数は10人、死者3人。

*1:このややこしさは、監督でマキシム役を演じたグザヴィエ・ドランが『君の名前で僕を呼んで』に感銘を受けて本作を撮ったことともつながっているんだろう