ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

ぐるぐる回る[2022年6月8日(水)曇り]

体が泥のように重く、11時半まで起きられなかった。いつもなら大寝坊のはずなのに、今朝は目が覚めた瞬間「まあ、起きたところで……」と思う。

本当は今日から二泊三日の出張のはずだったのだけど、先方でトラブルがあり直前で白紙になった。事情が事情だったので先方を責める気は一切ないのだけど、突如生まれた余暇には戸惑う。出張前に終わらせるために土日も予定の合間を縫って仕事をしていたので、急ぎの仕事が何もない。ここまでやることがないのも落ち着かないけど、気が抜けて何もやる気が起きなかった。

 

とりあえずベッドから出て日記を書く。昨日までバタバタしていて手がつけられなかったけど、土曜日に見た『HEARTSTOPPER』のことを書いておきたかった。途中でお昼ご飯。自分で作ればいいものの、暇すぎるとかえって何もやる気がしないもので、袋ラーメンを作るのさえ億劫。のろのろ動いていたら代わりに恋人が作ってくれると言うので、その言葉に甘える。食べたあとは日記の続きを書いて、仕事の本読み。

 

夜どうしようかな、と思って、青山真治ユリイカ』の上映があったことを思い出す。出張があるから諦めていたけど時間ができたし、3時間半の長尺を見るだけの余裕もある。調べてみると明日が終映のよう。出かけるのが面倒だったので明日にしようか迷ったけど、やっぱり今日行くことに決めた。昨日は気圧で(ということにさせてほしい)メンタルが死んでいたのが、今日はちょっと回復して、映画や小説でひりひりした気分に浸りたいモードになっていた。

今から出かけようとすると夕飯が作れず、私は昨晩も予定があって出掛けていたので家事をサボっているような後ろめたさが少しあった。恋人にも申し訳ない感じがした(私が勝手にそう感じているだけで、実際に文句を言われたり恋人が困るようなことはない)けど、「まあ本当はいないはずだったんだし、一人でなんか食べてよ」と言う。言葉にすればそれだけのことだと思えてくる。外が涼しそうなので、買ったものの着る機会の少なかった長袖のTシャツを着て出かける。

 

新宿でご飯を食べて、テアトル新宿で『ユリイカ』。よかった。

バスジャック事件から生き残り、癒えない悲しみに閉じ込められた沢井、直樹と梢。沢井が毎日運転していたバスの路線、土木作業(掘っては埋める)、一日の終わりにスコップの泥を落とすこと、直樹と梢が区切りのない時間を過ごすログハウス、そこに置かれた流動体を閉じ込めて同じ動きを繰り返すオブジェ……色々なものが反復や円環を示している。

阿蘇の駐車場で沢井は直樹を自転車の後部にのせて同じ場所を何周も回り続けるし、思えば冒頭のバスジャックのシーンでも、犯人と沢井は腕を組み、背中合わせになってじりじりと、くるくると回っていた。業のような円的繰り返しの引力は強く、そこから逃れることはとても難しい。失踪と2年間の放浪の末、沢井が実家に戻ってきたように。そしてそれでもまた出ていってしまうように。ストーリーを日常の円環から逸脱させる、沢井が晴れやかな顔でそのアイデアを口にする「別のバス」もやっぱり「バス」でしかないように。

 

3人が終わりの見えない円的な繰り返しの中にいるのとは対照的に、東京からやってきた秋彦は線的な時間に身を委ねている。最初の時点で彼は「月末まではいる」と、その時間の終わりを明示していたし、バスの中で打ち明ける過去の事件についても、「その場所に行ってみたらいい」という沢井の提案を拒む。3人がバスジャック事件の現場に再び足を運んだこと=ある円の起点を確認し、そこから別の円を描く選択をしたのに対して、線的に生きる秋彦は円の起点を必要としない。

ログハウスでの、ゴルフクラブの素振りにしてもそうだった。鋭く風を切ってボールを遠くへ弾き飛ばす。その暴力的なまっすぐさは、身体を貫く銃弾を想起させる。ひゅっ、という鋭い音は、室内にいる直樹の耳を塞がせる。あらゆる線的なもののなかで特に鋭いもの=「死」への欲動が、内側から湧き上がってくることに直樹は動揺していた。それを爆発させるように、直樹は藪の中でナイフを振り回し、植物を傷つける。

直樹は線的な死に強く惹かれながら、円的なものを決定的に切り裂くことができずにいる。沢井にも直樹と似た線的なものへの憧れ(2年間の失踪、別のバスを手に入れること)と怯え(たとえば彼は保健所から健康診断の再検査の連絡が来ているが、病院へ行こうとはしない。それは病気によって生が「死」へと直線的に向かうようになるのを拒んでいるように見えた)があるが、円的なものの引き受け方に違いがあるように思える。線的な逸脱を夢想しながらも、円的な生き方の強さを、どこかで知っているような。

 

最初に書いた通り『ユリイカ』にはさまざまな反復や円環が登場するけれど、私が一番印象に残った円環は真夜中の車中のシーン。沢井が自分の寝床の左の壁をコンコンとノックすると、右のほうからコンコンと音が聞こえる。それは直樹が鳴らしたもので、その行為はやがて梢も巻き込み、3人のあいだで音がゆっくり回り出す。左手前の沢井、右手の直樹、左奥の梢。暗闇に沈んだ固定された画面の中で、動くものは切れ切れに照らされたそれぞれの手元だけ。その静けさがとても美しかった。

沢井は実家にいた時から部屋のランプをカチカチつけたり消したりして、誰かの応答を求めていた。彼が抱えながら生き続けていたその寂しさが満たされたのがあの場面でもあって、その時、円は円のまま別のものになる。線的なものとは別の方法で、再生に向かっていける。

 

ここまで使ってきた「円と線」は「内と外(へ、向かっていくこと)」と言い換えることもできる。だとすれば、物語の大半の舞台である九州の山間部は円=内、沢井と梢が最後に目指す海は線=外と位置づけることもできるのだろうか。来ることができなかった直樹は、海を観たがっていた。それを梢は自分の目を通して、内的な語り掛けとともに直樹に見せようとする。冒頭を除く物語の本編で梢の声が聞こえるのはたしかこれがはじめてで、その内的な語りかけを経て、最後に梢は声を、言葉を––外へ向かっていく手段を取り戻す。貝殻を投げる、声を張り上げるという、彼女なりの爆発の仕方で。そこでは今度は、円的なものとは別の再生が描かれる。

そしてようやくカメラはセピア色から一転し、色彩を取り戻す。カメラは沢井と梢を見下ろすように写し、その場をぐるぐるまわったあと、円の軌道を外れ、たくさんの人が暮らす大地を映し出す*1

 

帰り道は涼しく、新宿だから喧騒がうるさいはずなのに静かに思えた。このまま歩いて帰ってもいい気がしたけど、いつも通り電車に乗って帰ることにする。映画でも流れていたジム・オルーク「Eureka」をもう一度聴きながら。

 

今日の新規陽性者数は1935人、現在の重症者数は3人、死者2人。

*1:しかし『HEARTSTOPPER』の時もそうだったけど、いい作品っていろんな切り口で書けてしまって文章が散漫になり、そして語り漏れも多くなる……。「言葉」という切り口で、異様に言葉数の多い秋彦、咳によって大事な場面で言葉を奪われる沢井というのももっと深掘れそうな気がするのだけど

『HEARTSTOPPER』会[2022年6月4日(土)晴れ]

昨日はY君と遊んでいて、セーブしたつもりなのに案の定アルコールが残っている。でも前回よりはずっと元気で、仕事には支障なさそうでよかった。午前中のうちに短い原稿を2本書く。全部で5本の原稿が必要な案件なのだけど、一つ一つの字数がとても限られているので、普通に書いていると入れたい内容の倍以上になってしまう。書くよりも削る方で腕が試されそう。以前も書いたことがあったけれど、こういう時に頭の中ではジェンガを思い浮かべている。どの単語を、どの文章を抜いても崩れないかを探すイメージ。ゲームみたいでわりと好きだったりする。しかし推敲は5本全部揃ってからのほうが都合がいいので、今日は長めにただ書く作業のみ。

 

恋人とお昼ご飯にトマトツナそうめん。昨日はトマトとツナのパスタだった。見切品のトマトがたくさん安く手に入ったので、どちらも丸ごと2個使う。トマトを多く使うと盛った時に赤色が強くて鮮やか。味は思ったより変わらないのだけど、おいしそうに見えることでおいしく感じられた。

食後は近所の輸入食品の店へ行き、クラフトビールやちょっとつまむのに良さそうなお菓子を色々と買う。それから電車を乗り継ぎFさんの家へ。総武線も、乗り換えた別の路線も人身事故でダイヤが乱れていた。

 

Fさん、WさんとNetflix『HEARTSTOPPER』鑑賞会をする。配信直後に一人で数話見た時はなんとなくそこまでハマれなかったのだけど、今回は一話目からすごく心が動いた。最初に見たのは自分の中で「正しく描かれている」ことが賞賛され、それだけで作品の評価がすごく高まってしまうことに特に食傷気味だった頃で、だから目が曇っていたのかもしれない。当時は「正しいけどそれ以外が雑」な作品を目にする機会がたまたま重なっていた。「雑さ」に対して厳しくあればいいだけなのに、正しさのほうを否定しようとしてしまっていた。

そこには「自分は愚かで間違っている人間」という根強い思い込みや、裏返しとしての正しさへの薄暗い気持ちなどがあるのだろう。あと、最近のマイノリティを扱う作品ではどうしても理想の社会、理想の理解前提で話が進んでいくことが多く、気持ちが荒んでいると「現実は全然そんなんじゃないじゃん」と言いたくなるし、言いやすい、という事情もあると思う。現実がそうじゃないから物語から変えていくんだよという考え方もわかるけど……これはもう自分自身がぐらぐらしていることを念頭におきながら判断していくしかないなと思う。

 

で、『HEARTSTOPPER』はどうだったかというと、すごく強度がある作品だと思った。美意識や倫理観に筋があって、作品世界としてこうです、というスタンスがはっきりしているから、現実がどうかという問いが前景化しなかった。(以下、いつも通りネタバレだらけです)

わかりやすいところで言えばニックとチャーリーの気持ちが通じ合っているシーン(特に前半)はそのまま「眩しく」描かれていることが多い。教室の二人の席は後ろの窓からたっぷりの光が差し込んで画面全体を輝かせているし、突然の雪や激しい雨のシーンにも意図的と思われる明るさがある。

レズビアンカップルのダーシーとタラがパーティーでキスするシーンではフロアが(画面が)レインボーの光で満たされ、チャーリーの誕生会でニックとチャーリーが(人目を気にしながら、でも公然の場=クローゼットではない場所で)キスする場面でも、二人の後ろでクレーンゲームの電飾の一本が虹色に輝いている。その次の引きのカットでは虹色の電飾はゲームセンターの無数の光の中に埋没してしまうのだけど、その「他の光に埋もれながら、そこにある」という次のカットも含めて偶然ではないだろう。画面の明るさとかレインボーとか、直球ではあるのだけどさりげなく配されていて、そういう細部の積み重ねが作品の世界や目指そうとしているものへの信頼を構築してくれる。

 

このドラマはチャーリーやニックといった主人公たちと同じティーンに向けて作られている(もちろん大人も楽しめる。でも、大人が見るとかつて10代だった自分たちへの浄化とか、今10代の子たちが生きていく社会への祈りみたいなものが強くなるので、やっぱり彼らが見るのとはまったく違う体験だと思う)。そこにはチャーリーのように自分のセクシュアリティをはっきり自覚している人もいれば、ニックのように戸惑い、自分で自分がわからないことの苦しみの最中にいる人もいる。ニックが自分の部屋でひとり、Googleの検索窓に「am I gay?」と打ち込むシーンの切実さよ……。

キスの場面がレインボーの光で彩られていることは、視聴者の10代にとってアイデンティティの構築の手助けになるかもしれないと思いながら見ていた。その象徴が自分たちのものであること。自分たちのための象徴があること。記号的、というとネガティブに思う人もいるかもしれないけど、性的マイノリティ(であることをアイデンティティとする人)の多くは記号に帰属して得られる孤独からの癒しと、記号に還元されない個人の実感の両極を行ったり来たりしながら生きているのではないかと思う。現在地を相対化する意味でも、それを祝福しようとした人がたくさんいたと知る意味でも、すごく重要なのだ。

 

そういう教育的なというか、マイノリティであることでつらい思いをしないで済むための心配りは随所にある。親や先生といった大人たちが彼らのセクシュアリティを理解している点はその最たるものだろう。ここは一番「ザ・理想」って感じのポイントなので、気持ちが荒んでいたり、自分の境遇と比較したりした時に否定したくなってしまうかもしれない。

それに、これってティーン向けドラマの「子ども」と「大人」という立場が絶対的な枠組みだから成立する表現ではあるんだよな。「大人」は差別や偏見がない、あるいはそうあろうとする成熟した存在。その枠組みに乗れないと、見ていて嘘くさく感じるだろうと思う。でも、ドラマを見ているとやっぱり日々悩んでいる主人公たちにはこれ以上余計なことで傷ついてほしくないと思うわけで、嘘くさいとか少なくとも今は言うのをやめて、彼らが安心できる場所を作るのが大人の役目だ、みたいに、作品世界に乗っかった気分にもなるのだった。それにそうやって乗っかれる時に乗っからないと、変えられるものも変えられないし。

 

カミングアウトはまず信頼できる人たちに対して、という描き方も一貫していてよかった。私の勉強不足かもしれないけど、カミングアウトって祝祭や儀式のように描かれ、そのカタルシスが優先されることが多いような印象があった。でも、『HEARTSTOPPER』ではそれがコミュニケーションとして描かれている感じがある。場の雰囲気や公開範囲を自分で見定めることの重要性を物語の中に織り込んでいて、それは教育的でもあるし現実的でもある。

 

あと、全体を通していいなと思ったのは性的な眼差しや相手の身体に触れることが大切に、肯定的に描かれていたことだった。

行政書士やライター、性的マイノリティの老後などの情報センターNPO法人パープル・ハンズ事務局の運営などで活動する永易至文さんの著書『「LGBT」ヒストリー』を読んでいたら、LGBT性的少数者などいろんな言葉がある中でどれを使うかという話があった。

 

私自身は古いタイプなのか、まず自分たちは性的存在であり、ちょっと厳しい言い方ですが社会の「権力関係」に意識的でありたい思いから、性的マイノリティーの言葉を使用しています。

 

この一文の、「まず自分たちは性的存在」ということがけっこう頭に残っていて、本当にそうだよなと思う。異なる性に性的魅力や欲望を感じるから異性愛、誰にも性的魅力を感じないからアセクシュアルなのだとすれば同性に性的魅力を感じるから同性愛なわけで、その眼差しを描かなければゲイがゲイであることは漂白されてしまう。そして「この愛は普遍的なもの」「同性愛者ではなく一人の人間として好きになる」といったがっかりする感想が生まれる(こうした言葉が本当に自分の実感に近いケースもあると思うから、それを否定したくはないけれど)。

『HEARTSTOPPER』ではその「性的に眼差す」ことが、わかる人にはわかる描写で挟み込まれている*1。性的存在であることから逃げず、その欲望をないものにしない描き方がとてもよかった。

チャーリーとニックがお互いに触れる描写も、最初は男友達の距離感(でも、おそらく無意識の欲望も紛れ込ませながら)だったのが、自分の気持ちに気づいてからは繊細になっていて、その意味の変容、行為の変容もリアルかつドラマチックだった。「なぜ相手に触れたいと思うのか」に、ごまかしがないように思った。

 

鑑賞会は15時にはじまり、3話ずつくらいで区切りながら見ていく。それぞれが静かにぐっときているのを、画面を見ながら気配で感じることが何度かあり、なんだかそれもいい時間だった。

 

今日の新規陽性者数は2071人、現在の重症者数は2人、死者5人。

*1:最近は他人を性的に消費しないことの必要性が説かれているけれど、それと自分のセクシュアリティを見つめることって絶対にバッティングするよな〜と思う。その欲望を無闇にぶつけないことで多くのトラブルは回避できると思うけど、そういう「性的に消費しない」という規範を内面にまで適用しすぎると、問題がこじれていきそうだなあとも。まだ全然考え中ではあるのだけど

別の人生[2022年6月1日(水)晴れ]

もう6月なのかと頭では思うものの、あまり実感は湧かない。明日には恋人が一週間の出張から帰ってくるし、日々の区切りとしては月が変わることよりもそちらの方が大きいことも関係しているのかもしれない。

朝は7時半に起きて、昨日の夜疲れていてできなかったゲラの確認や原稿の修正など。やっておきたかったタスクをしっかり終わらせ、ほっとしながら取材のため吉祥寺へ向かう。カフェでの取材だったのだけど、お店側がものすごく丁寧に対応してくださってありがたかった。店内の雰囲気が良かったのでまず中で写真を撮らせてもらい、そのあと話を聞いたのはテラス席で。日差しと風が気持ち良く、なんとなくみんなリラックスしていたような気がした。

 

まっすぐ帰って、お昼は富士そばをさっと食べる。日曜日に豚キムチを食べて以降一度もまともな自炊をしていない。昨日のお昼もなんとなくタイミングを逃して気付けば16時になっており、冷蔵庫の奥にあったトマト4分の1とミックスビーンズにしょうゆをかけたもので済ませた。そのあとプールに行くからたくさん食べると気持ち悪くなるというのもあったけど、それにしても恋人がいないとこんなに適当になるのかと思う。ただ、それは食事が本気でどうでもいいというよりは、適当であることを選んでいるような感覚がある。手間をかけるのではなく、適当なものを適当なタイミングで食べたりすることで回復する部分があるのだと思う。雑な状態でいることが、自分を大切にすることにもなるというか。

 

家では今日の取材の文字起こしや来週の取材の準備。合間に恋人とLINE。明日帰国したら何食べたい? と聞くと、醤油系の味付けのものが食べたいと返ってきたので「がっつり?あっさり?」とさらに聞く。「あっさり」と返ってきて、文字起こしで手と耳を働かせながらぼんやり献立を考える。

夕方、スーパーを何軒かまわって食材を調達。明日のことを考えながら、今晩何を食べようかとも考える。外食は続いているので気乗りしないがかといって自分一人のためにきちんとご飯を作る気にもなれず、レトルトカレーで手を打った。具が少なくて物足りなくなりそうだから、ウインナーも買う。湯煎しながらその小鍋で同時にボイルする。

 

ご飯を食べ終えヒマになる。恋人がいる時といない時では時間の流れ方がかなり違っていて、たとえば夕飯を食べたあとはなんとなく雑談したりちょっかいをだしたりして過ごすことが多かったけど、いないと物理的にそれができないので一人で本を読んだり映画を見たり、だらだらスマホを見続けたりする。過ごし方そのものは大して変わらないのだけど、退屈とか、寂しいとか思う。どちらもここ最近はあまり感じることがなかった感覚。寂しさ自体は感じていたけど、こういう手持ち無沙汰と一緒くたになった寂しさは久しぶりだった。

そうやって退屈や寂しさを持て余す時、なんだか別の人生に来てしまったようだと感じる。一人でいればきっとこういう夜を繰り返していて、それはそれで楽しくももどかしい日々なのだろう。

 

空想しているとiPhoneが光り、トランジットで経由する空港に着いた恋人からLINE。本物の人生が流れ込んでくる。今夜で別の人生ともしばらくお別れ。

やっぱり今日のうちにやっておくかあと思って、さっき買ってきた夏野菜を冷蔵庫から出し、どんどん切っていく。醤油系あっさりメニューとして、夏野菜の揚げ浸しを作ろうと思っていた。一晩寝かせた方がきっと味が染みておいしいはずだ。夜中の台所でなす、ししとう、かぼちゃ、ズッキーニなどを次々に揚げ焼きしていく。色鮮やかにつやつやと輝く野菜たち。まだ熱いうちに琥珀色の出汁に浸せば気持ちよさそうで、ごま油と一緒に水面に浮かんでいる。

 

今日の新規陽性者数は2415人、現在の重症者数は3人、死者5人。

漸進[2022年5月29日(日)晴れ]

暑くて眠りが浅かったのか、起きてもあまり疲れが取れていなかった。快眠が取り柄なのにここ数日うまく眠れない日が続いている。もっと寝ていたいけど、すでに日が高くて部屋の中が蒸し暑い。今日の最高気温は30度を超えると聞いた。あと数時間寝たところで大して変わらない気がして、シャワーを浴びてパソコンに向かう。

今書いている原稿で苦戦しているものがあって、昨日もそれと格闘していた。月曜日にまた本腰を入れて取り組みたいので、今日は別の原稿を仕上げることに。やっぱり頭が働いていない感じがするけど、無理やりやっているうちに思考が追いついてくる。どうにか昼前に終わらせた。

 

お昼ご飯は木曜に作った豚キムチ。金曜夜、土曜の昼と夜にも食べているのでもうかなり飽きているのだけど、昨晩の時点で味が酸っぱくなってきたように感じて、早めに食べ切りたかった。傷みはじめているのをごまかすように納豆を混ぜて、白米の上に乗せて丼にする。

 

冬物をようやく洗ったので、リビングの床に広げて平干し。インドなどの湿度の低い地域では洗濯物を地面に広げて干すのを思い出す。いつもこうしているけれどかなりスペースを取るし、乾くまで半日以上かかり、定期的に裏返すなどの手間もかかる。このやり方が正解ではない気がしている。違う気がする、と思うところまでが恒例行事になっている。そしてその違和感も、自分なりのやり方で手間をかけることも実は嫌いではない。

こんなふうに床を自由に使えるのは、部屋に一人でいるからだ。だから私が冬物を洗うのは恋人が出張などでいない時に限られる。自己流の平干しをするのはいつも一人の、夏の手前のよく晴れた日で(そうじゃないと乾かないため)、状況が決まっていることでなんとなくより特別なことに感じるのかもしれなかった。

 

外に出ると暑くてまぶしかった。上下ともに黒っぽい洋服で出てきたので、日差しの下にいると自分が濃い影になったように感じる。恋人とLINEしながら文フリへ。Twitterを見ていてなんだか今回は盛り上がりそうだと感じていたのだけど、なんと最初は入場の待機列が建物の外まで続いていたらしい。炎天下のなかお疲れ様です。私が着いた時には行列は室内のみだったけど、それでもフロアにとぐろを巻くような長蛇の列。20分は待ったと思う。入った時点でちょっと疲れていた。

知り合いのブースや気になっているブースをめぐる。先日の日記祭でもご一緒した針山さんが出店していて、「開場前に『サイトへのアクセス数がコロナ前に戻ったので、来場者が多いと思う』ってアナウンスがあったんですよ」と言っていた。そんなことなら自分も出ればよかったなとちょっと後悔。新刊がないからとか言ってないでとりあえず出店して、一冊作れなくてもペライチでもなんでも作って配ればいいのだ。

せっかく客として来たのでじっくり見て回ろうと思っていたけど、あまりの人の多さに途中からは結局足早に知り合いに挨拶するだけになっていた。1時間半ほどかけてまわって、あの人にもこの人にも会えて新刊を買えてよかった、と思いながら退場。来場者シールを剥がし、改札をくぐったところで行きそびれたブースがあることに気づく。Twitterを見てさらに抜け漏れに気づく。全クリしたと思ったけど全然ダメだった。まあ仕方がない。

 

新宿のモンベルで先日修理に出した傘を受け取る。GAPへ行き、先日気になっていたボーダーのTシャツを買う。2枚買うと30パーセントオフだったので、まんまと色違いで買った。

GAPは中国によるウイグル族への強制労働の疑いがある新疆ウイグル自治区から衣服を調達していないことを声明として発表している。日本ではユニクロ無印良品などが新疆産の綿を今も使用し続けている。なんだかんだでユニクロの服は着やすいし値段も安いから、後ろめたさを覚えながらつい買ってしまうのだけど(今日もユニクロのデニムを履いている)、GAPを利用してみて、後ろめたさや不安を感じずに買えるってこんなにストレスフリーなのかと思った。ユニクロ以外でも洋服は買うけど、特にそう思ったのは価格帯が近いからだろうか。

GAPの店頭には東京レインボープライドとのコラボと思われるTシャツがあった。こうしたコラボアイテムの多くがレインボーフラッグの6色を使っていたのに対し、GAPのTシャツは白、水色、ピンクのトランスジェンダーカラーと茶色、黒の人種的マイノリティカラーを含めたプログレスレインボーがモチーフ。どんな意図があってそれを採用したのかまではわからないけど、前進しようとする意志、みたいなものを読み取りたくなった。デザインもなんとなく今の気分に合っているし、もうちょっと頻繁に足を運んでみようかな。

 

企業倫理的な話でいえばやはり今気がかりなのは、トランス女性が男性上司からセクハラを受けて提訴したpixivの件。原告の方の「周りにも同様の被害を受けている女性がいて、(会社に)一緒に相談したが、生来の女性と私に対するセクハラでは『重みが違う』と言われ、本当に悔しい思いをした」という発言に胸が痛む。重みが違うって一体誰が、どの立場からそんな判断ができるんだ。pixivは今日の文フリにも協賛?していて、トートバッグと「pixivに投稿した小説を冊子にできるサービスをはじめました」というリーフレットを配っていて、複雑な気分になった。会社側の対応を注視したい。

しかし上記の原告の方の発言内容もそうだけど、トランスジェンダーへの偏見や無理解は相変わらず根強い。さらに近年はヘイトを見かける機会も増えている気がする。可視化が進んでいるのかもしれないけどそれは原因のほんのごく一部にすぎなくて、やはり苛烈化してしまっているような。トランス女性は女性ですよ。こちらの「はじめてのトランスジェンダー」のページがわかりやすいので、よくわからない人には一度読んでみてほしい。

駅前を通ると、黄色と水色の国旗を掲げた在日ウクライナ人の方々のデモ。少額だけど寄付した。

 

プールへ行くため移動する。さすがにちょっと疲れていて、セブンイレブンで買ったアイスカフェオレを近くの公園で飲んだ。文フリで買った本をぱらぱらしながら。汗で肌がべたついていたけれど、シャワーを浴びて泳げばさっぱりするだろう。今日は張り切って3キロ泳ぐぞ〜などと思っていたけど、やっぱり疲れていて2キロしか泳げず。しかし以前は2キロなんて元気な時にしか泳げなかったわけで、確実に進歩していると感じる。漸進。

 

今日の新規陽性者数は2194人、現在の重症者数は3人、死者4人。

自覚する[2022年5月26日(木)晴れのち雨]

校了や取材で昨日はかなり忙しくて、おかげで今朝はぐっすり眠れた。今日はやるべきことはあるけど、比較的ゆったりめに予定を組んでいる日。午前中にいくつかの原稿をちまちまと進めて、昨日の取材の文字起こし。今日目標としていた作業はそこまでで、正午をまわったくらいで終えられた。午後は週末にやろうと思っていた編集作業を片付けちゃおう、と思いながら、お昼ご飯の準備をする。

 

SEIYUの「On the ごはん ルーロー飯」を湯煎し、ご飯をチンする。作って食べている間、昨日のTBSラジオのアトロクをタイムフリーで聞く。高橋芳朗さんがハリー・スタイルズの新作を解説する回。ハリーのポップな新作を最近はよく聴いていて、先週末もライブ映像やMVをいろいろ見ていた。以前からスカートやフリル、レースなどを取り入れたファッションがすごく好きだなーと思って気になる存在ではあったのだけど、今作でまた一段と好きになったように思う。

一瞬「これが“推し”ってことかも…?」と思ったりもしたのだけど、自分がハリーのようなアイコンを「推す」ってなんて退屈なんだろうと感じて、今は思い直している。夢中になるなら何かもっとドラスティックな、めちゃめちゃになるような跳躍のあるものがいい。自分の内側にある要素や方向性を美しく、ハイレベルに具現化したものに見とれるのは自己愛的な感じがする。それ自体を否定はしないし、私だってそうして楽しみたい部分が残っている。自分を愛せない人が、何かに自己を投影して愛そうとすることは大切なことだ。でも、そこに「推し」という概念を当てはめてしまうと、何かを隠蔽する方向に物事が進んでいく気がする。

ラジオではハリーが女性用の服を着ることについて、保守派コメンテーターのキャンディス・オーウェンズが「強い男性なくして生き残った社会などありません」「男らしい男性を取り戻しましょう」などと批判したことを否定的な文脈で紹介していた。これに対してライムスター宇多丸さんが「何を恐れてんだよ」とすぐに合いの手を入れていて、そのまっすぐな声がなんだか怖かった。言っていることには完全同意だし、以前なら信頼できると感じた気がするのだけど、今日はうまく言えない違和感が混入した。

私は今、自分の考えや価値観がけっこうぐらついている。価値観自体はそう大きく変わっていないのだけど、その支え方を見直す必要があると感じている、と言う方が正確だろうか。そうやって自分を作り替えていく時、強くてまっすぐな言葉とは距離を置いたほうがいい。なんとなく無意識でそう思っていて、生理的な反応として違和感が生じたのかもしれなかった。

 

編集作業を終えて、仕事の本を読んでいると恋人から「帰る」とLINE。明日からイタリアへ出張なので、今日は早めに仕事を切り上げたらしい。恋人の他にも何人か、友人や知り合いで海外へ出張などへ行く人を知っている。そういえばGWには「ANAのハワイ便が2年ぶりに満席」というニュース記事も見た。いよいよ海外へ行くことのハードルが下がっていくのだろうか。本当にどんどんルールが変わっていく。そして海外へ行くとかそんな話だけではなくて、屋外ではマスクをしなくていいとか、そういうもっと身近なレベルでも変化を感じることになるんだろう。

 

夕飯は久しぶりに豚キムチを作った。「明日からはもう食べられないんだから味わって食べな」と言う。お互いにわざと(出張の一週間は)という部分を省略して、「明日からは食べられない」「明日からはもうできない」などと永遠に機会が失われるような言い方をしている。それは感傷に浸るというより戯画化している感じだ。

 

恋人は明日の朝が早いので早々に寝てしまって、私は自分の部屋で本を読んだりSNSを見たりする。ふと気づくと気持ちが沈んでいて、それは多分気圧のせいなのだった。最近は気持ちが落ち込むと思ったらだいたい気圧のせい。笑ってしまうくらい影響を受ける。笑ってしまうくらいと書いたけど普通に真顔。そして外的なものと自覚しても、少し冷静になれるだけで気持ちが元に戻るわけではない。

 

気づいたら1時だった。パソコンの画面を見続けていたせいなのか目が冴えている。それでも寝ようと思ってベッドへ行くと、枕にカバーがついていなかった。昼に洗濯して、風呂場に干してあるのだった。つけなくちゃと思うけどその気力がない。いつもと違う肌触りが落ち着かない。カバーをつけたらすぐに眠れる気がするけど起き上がれなくて、なるべく気にしないように、無感覚になろうと思いながら眠った。

 

今日の新規陽性者数は3391人、現在の重症者数は3人、死者10人。

タケノコとロボ[2022年5月23日(月)晴れ]

水を飲もうと冷蔵庫を開けると、半分に切ったタケノコの水煮を保存しているタッパーが目に入る。アクが出るので水を換えなければと思って手に取ると、断面を上にしたタケノコが水の中でゆらゆらと揺れた。裏返った節足動物のようで可愛く思える。うっすらと白濁した水を捨てて、新しい水を注ぐ。世話してる感があって愛着が湧いてくる。どうやって食べようかな。もう半分は日曜日に、『きょうの料理』で見たたけのこチーズトーストにして食べたのだった。

 

月曜日なので会社へ。電車の中で、ゼレンスキー大統領がウクライナからの男性の出国を求める請願書に反対する姿勢を示した、というニュースを読む。ロシアのウクライナ侵攻から3ヶ月。毎日新しい事件が起きて意識がそっちに持っていかれるけれど、戦争はまだ続いている。

ウクライナでは2月24日から総動員令が発令中で、18〜60歳までの男性は出国が認められず、徴兵の対象になっている。自分がウクライナに住む男性だったら、と考えてしまう。絶対に徴兵されたくないし恋人や友人、知り合いも徴兵されてほしくない。何か見落としがあるんじゃないかと不安になってしまうくらい単純に、素朴にそう思う。ただそう思えるのは戦時下にない日本での想像だからであって、すでにたくさんの人が命を落としているウクライナでの状況はもっと複雑なのかもしれない。一度舵を切ったのに出国を認めれば、士気が下がり兵士たちの中でも分断が生じるかもしれない。「生まれ故郷を守るために戦う」なんて自分は絶対にごめんだと思うけど、その思いに燃えて戦地へ向かった人がたくさんいたから守られたものもあるのだろうし……そもそもロシアの軍事侵攻という大きな間違いの上で生じている状況で、出国を認めない=「愛国」を掲げて生きている人間を強制的に戦力へと変換する姿勢に反対したい気持ちに、免責したくなるような気持ちが靴底の小石のように紛れ込む。足に力を入れようとすると痛みが走る。現実とかこれまでの動向とかを一旦置いて、それでも毅然と立つ力がほしい。

 

地下鉄を降りると交差点に警官が立っていて、バイデン大統領が来日していることを思い出す。信号が変わるまで警官の人を見るともなく見る。腰に拳銃の形に膨らんだ革のケースがぶら下げてある。

 

関わっている雑誌が校了したので各記事の短い紹介を考え、疲れたところで明日締め切りの原稿の推敲。取材中の/思考のうねうねとした蛇行が伝わる原稿にしたいと思ってやってみたのだけど、果たしてこれが読み手に伝わるのか不明。見返せば見返すほど手を入れたくなるところがでてきて、一生完成しなさそう。だけどかちっと情報だけをまとめるのはなんとなく違うような気がしている。

 

気づいたら夕方で、近所のガストへ行く。ここのガストでは少し前からネコの顔がついた配膳ロボットが2台運転している。ドリンクバーの横、キッチンの入り口がロボットたちの待機場所になっているのだが、水を取りに行った時に配膳を終えて帰ってきたロボットとぶつかりそうになって、恐怖を感じた。

スピードは出ていないし人感センサーがあるから実際にぶつかることはなさそうなのだけど、人間ならその人が止まって道を譲ってくれるのか、どちらに避けるのかが微妙な体の向きや目線でわかるのに対し、ロボットはそれがない。愛らしく思えるが感情も次の行動も読み取れない、まるい瞳がディスプレイに表示されているだけだ。私はタケノコに愛着が湧くのに、猫型ロボットは怖い。

水を啜りながら観察していると、ドリンクバー付近で立ち止まった親子に「通してほしいニャ」と悲しそうな声で何度も話しかけていた。音量が小さくて、ロボに背を向けて何やら相談している親子には聞こえないらしい。人間だったら通れるくらいの隙間があったが、人感センサー的には無理なのらしかった。気づかないまま親子が立ち去り、ロボが私の席にまっすぐ向かってくる。その背に和風ハンバーグをのせて。

 

今日の新規陽性者数は2025人、現在の重症者数は4人、死者6人。

トランスフォーム[2022年5月19日(木)晴れ]

昨日少し夜が遅かったからなのか、朝もなかなか起きられなかった。6時半ごろに一度目が覚めたけど、頭も働かないし体もだるくてまた寝てしまった。疲れがとれていないというより、眠りが深すぎて意識が覚醒するレベルまで浮上できないという感じだった。

 

急に入ってきた仕事があって、今日は原稿2本を仕上げなくてはならない。焦りを感じつつ9時前から仕事開始。午前中に短いほうを一本書き終え、昼食を作りながら2本目の原稿の構成や書き出しを考える。

お昼はトマトパスタ。鍋が埋まっているので(火曜日に作ったカレーが余っている)、フライパンを使ってソースでパスタを茹でる若山曜子さんのレシピを参照しながら作る。しかしパスタが多すぎたのかテフロン加工が弱っていたのがよくなかったのか、フライパンにかなりくっつく。途中でかき混ぜたり水を足したり、なんとなく牛乳でのばしてみたりと茹でている最中ずっと慌ただしくて、原稿を考えるどころではない。最後のほうはやけくそで、あとから各々が調整すればいい、と思いながら適当にツナ缶と塩を混ぜた。

器に盛ろうとすると、白いプレートのふちに赤いソースが飛び散った。大盛り2人前のパスタでぎゅうぎゅうのフライパンは熱くて重い。トングのバネが力強すぎて手が痛い。不恰好すぎて笑えてきてしまって、そうしたら色々どうでもよくなった。ひどい味だろうと思っていたパスタはそこまで悪くなく、昨日作った長ネギとミックスビーンズのコンソメスープは具がやわらかかった。

 

夕方ごろにひとまず原稿を終える。途中、友人のHから「『TITANE』が好みだったらこれもおすすめ」とLINEが届いていた。昨晩新宿のバルト9で見て、短い感想(といっても「怖かった」くらいしか書いていないが)をインスタのストーリーにアップしたら複数人からリアクションがあって、けっこうみんな見てるんだな、と思った。Hもリアクションをくれた一人。

 

幼少期の交通事故で頭にチタン・プレートを埋め込まれた女性ダンサー・アレクシスの物語。アレクシスは長く鋭い髪留めを使って冒頭から人を殺しまくるし、序盤はひたすら痛いシーンが続く。私は友人から「車に性的欲求を抱いてしまう主人公が、車の子どもを妊娠する」話と聞いて興味を持ったのだけど、その設定が埋もれるくらいパンチの効いた映像が畳み掛けるように展開されていて、自分の身体が恐怖で満ちる感覚になった。

「痛い」シーンでは目もとを手で覆いながら指の隙間から見るようにしていたのだけど、耳も塞ぎたくなるようなシーンが何箇所かあって、だけど手は2本しかないから絶望したりしていた。今になって思えば、目はただ閉じればよかったのだ。そんなこともわからなくなるほどには恐怖していた。

ホラー・グロ耐性がないのに見にきたことを心底後悔して、席を立ってしまおうかと本気で考えることもあった。でも、そうやって五感を磔にされる劇場で見るからこそ、映画に没入できたのだとも思う。ここでは「逃げ(られ)ない」ことが重要になっているからだ。

アレクシスは膨らんでいく腹=自分の身体から逃げられない。連続殺人犯として警察に追われるアレクシスは、行方不明者の張り紙に載っていた青年・アドリアンに成り代わろうとするのだが、そこで迎えにきた父・ヴァンサンがまた狂気的で、アレクシスはヴァンサンから、あるいは「アドリアンであること」から逃げられなくなる。ヴァンサンもまたかつてアドリアンを失った悲しみに囚われていて、老いて男らしさを失っていく自分の身体から逃れられない。

逃げられない時、人はトランスフォームする。

指名手配され追い詰められたアレクシアは、アドリアンに変身することで活路を見出す。嗚咽するほどさらしをきつく巻き、女性としての身体を、膨らみ続ける腹を否認するように変形させる。息子を諦められないヴァンサンはアレクシスをアドリアンだと思い込もうとする=認知をねじ曲げ、ステロイドを注射して老いていく肉体を改造する。

そもそもアレクシスが頭にチタン・プレートを埋め込まれたのだって、そうすることでしか生きられなかったからなのだった。有機物と無機物、男と女、現実と妄想、生と死。時には既存のカテゴリに踏みとどまり、時には越境のため果敢にジャンプする。境界線上で変容のための死に物狂いのダンスが続く。でも、それはすべてコントロールできるようなものではない。ミス、暴走、まぐれ、幸運。踊る身体から汗のようにほとばしるそれらが床に降り注ぎ、さらに足元を滑らせる。そして激しいステップで、境界線は摩耗していく。かすれて見えなくなれば、それは越境というより混乱しながらの融合と言える。

暴力性の中であらゆることが倒錯していく。その過程で、「逃げられない」が「逃げない」になる。境界線が、輪郭が破れてしまっているのだから、(外的な何かから)逃げる/逃げないという判断自体が成立しない気もするのだけど、少なくともそう見える瞬間がある。それはアレクシス/アドリアンがヴァンサンへ向ける眼差しに宿り、そしてクライマックスのヴァンサンの判断に宿る。それは意志と呼ぶには混乱しすぎているけれど、外圧によるものだと決めつけるには力強すぎるニュアンスで。

寝室でヴァンサンが腹の上にライターの火をこぼす時、ヴァンサンは離れた場所で出産に悶えるアレクシスと焼けるような苦しみでつながっている。自他の区別を失い、異物を取り込んでトランスフォームしていく。映画を見ていた私もそうで、最初は激しい暴力に逃げられなさを感じていたけれど、物語が進むごとに痛みの共感覚を通してアレクシス/アドリアン、ヴァンサンとの境界線が曖昧になり、「逃げない」でラストシーンを見届けていた。

一言で言うと、すごくクィアな(そして痛くて怖い)映画を見た、という感想。それはジェンダーセクシュアリティを扱っているからという意味でもそうだし、それ以上に「逸脱していく動き」そのものに力点が置かれていることがそのように思わせた。

 

Hに返信したいが、感想がきちんと言語化できていないので後日日記に書こう、と思いながら仕事のメールチェック。着信があり、打診していた取材が来週に決まる。新作のゲラを読む前に近作を読んでおこうと思って、kindleで短編をいくつか読んだ。

夜はプールへ。原稿で頭を使って疲れていたので迷ったけど、冷たいようなぬるいような水の中で体を動かせば気分転換になる気がした。いつもよりもかなり空いていて泳ぎやすい。合計で2キロ泳いで、距離はいつもとそんなに変わらないけれどほとんど休憩しなかった。泳ぐスピードも速くなっている気がする。息継ぎの回数を減らすようにしていて、体のバランスが崩れないからだろう。体制を立て直すために失速することがなくなった。酸素が足りなくて苦しくなることもあるけど、苦しい時にこそアドレナリンが出ているような感覚もある。ちょっと怖い。

今日は自分が泳いだ距離がたびたびわからなくなった。今が925メートルなのか、875メートルなのかで何度も混乱する。そういえば、最近は毎日が過ぎるのもあっというまで、以前は日記を4日に一回は書きたいと思っていたのに気づいたら1週間以上書けていなかったりする。時間感覚が変わりはじめているのだろうか。

 

今日の新規陽性者数は4172人、現在の重症者数は2人、死者5人。