体が泥のように重く、11時半まで起きられなかった。いつもなら大寝坊のはずなのに、今朝は目が覚めた瞬間「まあ、起きたところで……」と思う。
本当は今日から二泊三日の出張のはずだったのだけど、先方でトラブルがあり直前で白紙になった。事情が事情だったので先方を責める気は一切ないのだけど、突如生まれた余暇には戸惑う。出張前に終わらせるために土日も予定の合間を縫って仕事をしていたので、急ぎの仕事が何もない。ここまでやることがないのも落ち着かないけど、気が抜けて何もやる気が起きなかった。
とりあえずベッドから出て日記を書く。昨日までバタバタしていて手がつけられなかったけど、土曜日に見た『HEARTSTOPPER』のことを書いておきたかった。途中でお昼ご飯。自分で作ればいいものの、暇すぎるとかえって何もやる気がしないもので、袋ラーメンを作るのさえ億劫。のろのろ動いていたら代わりに恋人が作ってくれると言うので、その言葉に甘える。食べたあとは日記の続きを書いて、仕事の本読み。
夜どうしようかな、と思って、青山真治『ユリイカ』の上映があったことを思い出す。出張があるから諦めていたけど時間ができたし、3時間半の長尺を見るだけの余裕もある。調べてみると明日が終映のよう。出かけるのが面倒だったので明日にしようか迷ったけど、やっぱり今日行くことに決めた。昨日は気圧で(ということにさせてほしい)メンタルが死んでいたのが、今日はちょっと回復して、映画や小説でひりひりした気分に浸りたいモードになっていた。
今から出かけようとすると夕飯が作れず、私は昨晩も予定があって出掛けていたので家事をサボっているような後ろめたさが少しあった。恋人にも申し訳ない感じがした(私が勝手にそう感じているだけで、実際に文句を言われたり恋人が困るようなことはない)けど、「まあ本当はいないはずだったんだし、一人でなんか食べてよ」と言う。言葉にすればそれだけのことだと思えてくる。外が涼しそうなので、買ったものの着る機会の少なかった長袖のTシャツを着て出かける。
バスジャック事件から生き残り、癒えない悲しみに閉じ込められた沢井、直樹と梢。沢井が毎日運転していたバスの路線、土木作業(掘っては埋める)、一日の終わりにスコップの泥を落とすこと、直樹と梢が区切りのない時間を過ごすログハウス、そこに置かれた流動体を閉じ込めて同じ動きを繰り返すオブジェ……色々なものが反復や円環を示している。
阿蘇の駐車場で沢井は直樹を自転車の後部にのせて同じ場所を何周も回り続けるし、思えば冒頭のバスジャックのシーンでも、犯人と沢井は腕を組み、背中合わせになってじりじりと、くるくると回っていた。業のような円的繰り返しの引力は強く、そこから逃れることはとても難しい。失踪と2年間の放浪の末、沢井が実家に戻ってきたように。そしてそれでもまた出ていってしまうように。ストーリーを日常の円環から逸脱させる、沢井が晴れやかな顔でそのアイデアを口にする「別のバス」もやっぱり「バス」でしかないように。
3人が終わりの見えない円的な繰り返しの中にいるのとは対照的に、東京からやってきた秋彦は線的な時間に身を委ねている。最初の時点で彼は「月末まではいる」と、その時間の終わりを明示していたし、バスの中で打ち明ける過去の事件についても、「その場所に行ってみたらいい」という沢井の提案を拒む。3人がバスジャック事件の現場に再び足を運んだこと=ある円の起点を確認し、そこから別の円を描く選択をしたのに対して、線的に生きる秋彦は円の起点を必要としない。
ログハウスでの、ゴルフクラブの素振りにしてもそうだった。鋭く風を切ってボールを遠くへ弾き飛ばす。その暴力的なまっすぐさは、身体を貫く銃弾を想起させる。ひゅっ、という鋭い音は、室内にいる直樹の耳を塞がせる。あらゆる線的なもののなかで特に鋭いもの=「死」への欲動が、内側から湧き上がってくることに直樹は動揺していた。それを爆発させるように、直樹は藪の中でナイフを振り回し、植物を傷つける。
直樹は線的な死に強く惹かれながら、円的なものを決定的に切り裂くことができずにいる。沢井にも直樹と似た線的なものへの憧れ(2年間の失踪、別のバスを手に入れること)と怯え(たとえば彼は保健所から健康診断の再検査の連絡が来ているが、病院へ行こうとはしない。それは病気によって生が「死」へと直線的に向かうようになるのを拒んでいるように見えた)があるが、円的なものの引き受け方に違いがあるように思える。線的な逸脱を夢想しながらも、円的な生き方の強さを、どこかで知っているような。
最初に書いた通り『ユリイカ』にはさまざまな反復や円環が登場するけれど、私が一番印象に残った円環は真夜中の車中のシーン。沢井が自分の寝床の左の壁をコンコンとノックすると、右のほうからコンコンと音が聞こえる。それは直樹が鳴らしたもので、その行為はやがて梢も巻き込み、3人のあいだで音がゆっくり回り出す。左手前の沢井、右手の直樹、左奥の梢。暗闇に沈んだ固定された画面の中で、動くものは切れ切れに照らされたそれぞれの手元だけ。その静けさがとても美しかった。
沢井は実家にいた時から部屋のランプをカチカチつけたり消したりして、誰かの応答を求めていた。彼が抱えながら生き続けていたその寂しさが満たされたのがあの場面でもあって、その時、円は円のまま別のものになる。線的なものとは別の方法で、再生に向かっていける。
ここまで使ってきた「円と線」は「内と外(へ、向かっていくこと)」と言い換えることもできる。だとすれば、物語の大半の舞台である九州の山間部は円=内、沢井と梢が最後に目指す海は線=外と位置づけることもできるのだろうか。来ることができなかった直樹は、海を観たがっていた。それを梢は自分の目を通して、内的な語り掛けとともに直樹に見せようとする。冒頭を除く物語の本編で梢の声が聞こえるのはたしかこれがはじめてで、その内的な語りかけを経て、最後に梢は声を、言葉を––外へ向かっていく手段を取り戻す。貝殻を投げる、声を張り上げるという、彼女なりの爆発の仕方で。そこでは今度は、円的なものとは別の再生が描かれる。
そしてようやくカメラはセピア色から一転し、色彩を取り戻す。カメラは沢井と梢を見下ろすように写し、その場をぐるぐるまわったあと、円の軌道を外れ、たくさんの人が暮らす大地を映し出す*1。
帰り道は涼しく、新宿だから喧騒がうるさいはずなのに静かに思えた。このまま歩いて帰ってもいい気がしたけど、いつも通り電車に乗って帰ることにする。映画でも流れていたジム・オルーク「Eureka」をもう一度聴きながら。
今日の新規陽性者数は1935人、現在の重症者数は3人、死者2人。
*1:しかし『HEARTSTOPPER』の時もそうだったけど、いい作品っていろんな切り口で書けてしまって文章が散漫になり、そして語り漏れも多くなる……。「言葉」という切り口で、異様に言葉数の多い秋彦、咳によって大事な場面で言葉を奪われる沢井というのももっと深掘れそうな気がするのだけど