ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

空白[2022年5月10日(火)晴れ]

大変そうだった仕事の作業量が案外少なかったこと、今月下旬に予定されていた出張が来月になったことなどが重なり、だいぶゆとりのあるGW明け。GWの予定が立て込んでいて疲れたからほっとしているけど、暇ということは収入が減るということでもある。不安が胸の底から湧き上がってくる気配を感じるが、まあこの状況もそう長くは続かないだろう。以前より少しは楽観的でいられるようになった。

 

10時半からオンラインで打ち合わせをして、そのあと短い原稿を書く。そこまでやったら急ぎの仕事は終わってしまったので、仕事で必要な本を読み進め、U-NEXTで『マイ・プライベート・アイダホ』を見た。先日のカナイさんの展示でこの映画のワンシーンをモチーフにした作品があって、久しぶりに見返したくなったのだった。

以前にこの映画を見たのがいつだったか、もう忘れてしまっている。でも当時とはずいぶん受ける印象が違って、こんなにドリーミーな映像だったのかと(主に序盤)引き込まれながら見た。

繰り返される「4」の意味はなんなのだろう。リヴァー・フェニックス演じるマイクの赤いジャケットにもこの数字が刻まれているし、男娼として日銭を稼ぐマイクを買った男の誕生日、強盗の人数、フレンチフライのオーダー数など何度も何度もあらわれる。聖書では「自然」や「創造」を意味するようだけど、キリスト教に明るくないのでそれ以上のことがうまく読み取れない。

中盤、焚き火を囲みながらマイクがスコット(キアヌ・リーブス)に愛の告白をするシーンがある。このシーン、もともと脚本にあったわけではなくリヴァー・フェニックスが考案したものだそう。この告白があることで、その後の展開の痛切さがより鮮やかに映る。

色々とレビューを読んでいると、このことから「もともとマイクがゲイであるという設定はなかった」と書いているものを見かけるのだけど、その書き方は正確なのかな、と少し疑問に思う。告白をしたかどうかと、ゲイかどうか、マイクがスコットに愛情を抱いていたかどうかはまた別の話なのでは。そして仮にここで別のやりとりが交わされていても、マイクのスコットへの特別な思いはそれ以外のシーンから十分に読み取ることができたのではないか。私も正確な資料に当たっているわけではないから想像でしかないし、アドリブや演者のアイデアがふんだんに取り入れられた作品だから、この焚き火の会話をもとにダイナミックに他のシーンも書き換えられたのかもしれないけれど、でもそれがこの時代においては「秘められるもの」だったことは念頭に置いてみたほうが良いように思う。

 

映画では「死と復活」も重要なモチーフになっている。ストリートの若者から、中でもスコット(キアヌ・リーブス)からは本当の父のように慕われるボブの帰還(=復活)には祝祭的な騒々しさがあった。後半、スコットがストリートの男娼という立場から足を洗い、もともといた中産階級の家に戻ったあとでボブに言い放つ「以前の僕に戻る日まで近づくな」というセリフも含みがあり、家に戻って憎んでいた父の跡を継ぐこと=死、以前の僕に戻る=復活と位置付けることができそう。

突然眠ってしまい、次のシーンでは誰かの腕の中で目を覚ますマイクのナルコレプシーも、「死と復活」を暗示している。ただ、マイクはスコットと違って、それを自分で操ることができない。死と復活はマイクに装置としては埋め込まれていても、不良品的な、ちゃんと機能しないものである。

マイクにとって死は事故的に訪れるもので、彼はスコットのようにそれを復活と結びつけることができない。その結果、彼は死⇄復活のダイナミックな円環ではない、どこにも行けない閉塞的な円環の中を生きることになる。亡霊やゾンビ、幻影のようなもの。代表的なものが母親の存在で、マイクは蜃気楼のように遠ざかる母親の影を追って旅をすることになる。マイクと母親との関係性は死、つまり断ち切ることではなく未練が支配していて、それゆえに復活への可能性は閉ざされている。

こう考えると、スコットとの関係も母親との関係の相似と言えるのかもしれない。旅の途中で出会った女性と恋に落ちたスコットは「どこかで落ち合おう」と伝えてマイクの元を去る。表面的には関係の復活を予感させる言葉だが、状況を加味すれば希望と呼ぶには中途半端で、結局その後も二人が落ち合うことはない。死の儀式に失敗すれば復活の道は絶たれ、未練の中に閉じ込められることになる。

「この道は──どこまでも続く。たぶん世界をぐるっと回っているのだ」。そう言って、マイクはアイダホの路上に倒れる。その言葉が示すのは死と復活の円環であり、出口のない閉塞感なのだと思う。なんか書いてて悲しくなってきたな……本当は救いを見出したかったのだけど。

 

映画を見終えてまた仕事。Hさんから記事公開の連絡が来たので「今月ちょっと余裕あります!」と伝えて仕事をもらう。それと前後するタイミングで、文フリやキチジンでご挨拶していた編集の方から面白そうな取材の依頼も。少しは予定が入ってほっとした。

 

夕方からプールへ。5月に入ってからはじめて泳いだのだけど、なんとなく胸のあたりに違和感があって気持ちよく泳げず。いつもはしている耳栓を忘れてしまったことも原因だったかもしれない。久しぶりに耳栓をしないで泳ぐと、なんだか半分溺れているような気分で落ち着かなかった。

 

今日の新規陽性者数は4451人、現在の重症者数は9人、死者2人。

perk[2022年5月8日(日)曇り]

昨夜は久しぶりにリアルのようなことをした。リアルはゲイ向けのマッチングアプリSNSでつながっていた人と実際に会うこと。インスタでつながっていたYくんと三丁目の交差点で待ち合わせ、はじめましてとぎこちなく挨拶する。よく行くという香港料理屋に入り、飲み食いしながらお互いの接点を探す。

そうしながら、この感じ相当久しぶりだなと思っていた。恋人ができてからは初対面の誰かと一対一で会って飲むような機会はほとんどなかったし、コロナ禍になってからはゼロ。最初は不安もあったけど酔いがまわるなかでなんとなく打ち解けたというか、お互いに対して安心していく感じがあって、いい時間だったと思う。二軒目に連れて行ってもらったバーもお客さん同士の会話が多くて、コミュニティに招き入れてもらったようなうれしさがあった。Yくんはこの店の常連で、同じ常連の人との会話から新たな一面を知ることもあった。

 

今朝はアルコールが残っていて体調がよくないが、いい夜だったので後悔はない。午前中は水を多めに飲んだりなどして過ごす。GWは渋谷パルコでカナイフユキさんの展示に行ったり、友人の家でUNOをしたり、恋人と一泊で茨城へ旅行したり、けっこう精力的に遊んでいた。新しい人間関係に飢えている今、他者とともに過ごす時間を持てたこと、やりとりができたことは本当によかったし、旅行も自分だったら行かないような場所へ行けて(今回の旅行は恋人がプランを組んだ)楽しかったと思う。でも、連日のことでちょっと疲れてしまった。本を読んだりプールで泳いだり日記を書いたり、つまり「一人で過ごす」が全然できなかった。そのことにかなりストレスを感じているが、今日一日で頑張って挽回する気力はないし、そもそもそれは何か違う気がする。結局、午前中は何もせずにいた。

 

お昼は恋人が「ロイヤルホストに行きたい」という。恋人はロイホに行ったことがなくて、最寄りのロイホはうちから徒歩20分くらい。もう今は少しでも特別な感じのあることをしたくない、雑に過ごすことが一番精神を回復させてくれるはずなのにと最初は乗り気ではなかったのだが、断るのも角が立つし代替案も思い浮かばなくて、流れに任せた。結局、20分の散歩は気分転換になり、カシミールカレーのスパイスは酔いや憂鬱から覚める味で、食べ終わる頃には来てよかったと思っていた。反発して断っていたら、後味の悪さを抱えながらベッドで寝ているだけだっただろう。

 

帰り道、雑貨屋で数量限定のKneippのバスソルトを買う。ミントを使ったもので、パッケージに使われているペンギンのぬいぐるみの写真がかわいかった。スーパーで夕飯の買い出し。それから夕方までだらだらして、プールかサウナへ行こうと家を出る。体を動かせば気分が変わりそうだったし、大きな水の中で動いた時の、肌に波がまとわりつく感じを体が求めている気がしたが、面倒くささが勝った。サウナだけ行く。怠惰に過ごしてしまって嫌だなと思う気持ちと、自分の快を優先するのも大切なことだと思う気持ちで、プラマイゼロ。

 

蒸し野菜と蒸しブリを作って食べ。夜は「フレンズ」。今年のはじめごろから見続けていたのをついに見終えてしまった……!!完璧な荷造りをしたレイチェルに、モニカが「もう何も教えることがない」と言うシーンで泣きそうに。フィービーは最後までイカれていてガラが悪くて最高だし、笑えてほろ苦いグランドフィナーレだった。

この半年、元気がない夜は「フレンズ」の気楽さ、今と全然違う時代の空気感にかなり救われた実感があって、もう新しいエピソードを見られないと思うと寂しい。本当に親しい友人と離れる時みたいだ。でも、先日会った友人は「自分は何度も繰り返し見てます」と言っていた。思い出して、慰められたような気持ちになる。

余韻にひたりながらWikipediaを読んでいて(小ネタやトリビアがたくさん載っているし、その長さと細かさに編集している人の愛が感じられてすごく好き。なのだけど、いきなりネタバレに出くわしてしまうのである時期から見ないようにしていた)、6人がいつも集まっていたカフェ「Central Perk」の店名の由来にぐっとくる。“店名は、公園名の「セントラル・パーク」と英単語の「perk」(コーヒーを淹れる)及び(〈落胆、病気の後に〉元気を取り戻す)をかけた洒落”。そういえば主題歌の「I'll be there for you」もperkな歌詞だった。あの弾けるイントロが頭の中に流れる。

 

今日の新規陽性者数は4711人、現在の重症者数は8人、死者6人。この数字を記すことにどれだけの意味があるかわからなくなりつつあるが、ひとまず記録を続けてみる。

言葉とルール[2022年5月1日(日)曇りのち雨]

昨日の夜は副反応のせいでひどい悪寒があったのだけど、3時ごろに目が覚めた時はだいぶ楽になっていた。ようやく治まってきたかな、と思って体温を測ると37.8度。これだけ体が軽いのにけっこう高い。昨晩も体温を測っておけばよかったな、と思いながらロキソニンを飲んだ。なんとなく眠りたくなくて、時間の感覚を失いながら深夜にネットをしたりする。SNSにはけっこう起きてる人がいる。

 

空が青白くなってきた頃に眠って、起きたのがたしか8時くらい。今度こそ本当に体調は良くなった感じで、体温も36度台後半。2回目の接種時の副反応が重かったからこの土日は両方潰れる覚悟でいたのだけど、今日は少しは動けそう。そう思ったら出かけたい気がして、1日ぶりにシャワーを浴びて着替える。明るい色の服がほしくてネットで買って、届いたばかりのUnited AthleのグリーンのTシャツを着た。

 

新宿のモンベルで折り畳み傘を修理に出す。先日、恋人がドアに挟んで持ち手の部分が割れてしまったのだった。店員の人に見てもらうと、挟んだ時の衝撃で軸も歪んでおり、あわせて交換が必要だという。修理の期間は4週間。色々面倒くさくて新しいものを買ってしまおうかと思ったけど、なんか恋人も修理してほしそうだったし、私も(修理して長く使うってだけで全然大したことではないのに)消費資本主義に抵抗するんや……とか思って、修理に出すことにした。ちょっと良いことをした気分になっている自分がいて、うわ軽薄〜と思う。

ルミネなど駅周辺の服屋をうろつく。ふらっと入った店で「Tシャツ、綺麗ですね。発色がいい」と言われる。その店でも、他の店でも何も買わなかった。ここ数年の夏服のパターンに完全に飽きており、何か新しいものを取り入れたい。グリーンのTシャツもその一環だった。高島屋ユニクロでラガーシャツを見かけて、ラガーシャツは自分的に地続きでありながらちょっと新しくていいかもと手に取る。しかしそれなら古着のほうが人と被らないだろうし、今度高円寺などで探せばいいやと棚に戻した。アイデアだけ得た。

 

歩き回ったら疲れてしまい、体も再び発熱してきた気がする。胃に負担がかからないものが食べたくてスープストックで昼食を食べ、駅構内の成城石井でミントティーを買う。まるでおしゃれさんみたいやね、と思いながらホームへ。意外と雨が強く降っていて、恋人とLINEしていたら「駅まで迎えに行こうか?」と申し出。傘を壊したこと、それを修理に出したことで私の手元に傘がないことに何か思うことがあるのかもしれない。濡れたくないのでそうしてもらう。

 

家では少し仕事の連絡などをして、夕方に『マティアス&マキシム』を見る。副反応でダウンするからこの週末は気になっていた新作や見逃していた映像作品を色々見ようと決めていた。

疲れもあったのか、中盤少しうつらうつらしてしまった。このままではまともに内容が頭に入ってこないと思って、30分ほど寝てから視聴再開。後半はある程度集中して見られて、映像の美しさにも何度か見入った。

言葉とそれ以外のコミュニケーション、ルールのうちそと、が対置された映画として見る。マティアスはたとえば友人が「ケーキに火を付ける」と言ったのを「ロウソクにだろ」と訂正したりする、友人から「言葉警察」と揶揄されるような男。それはマティアスが言葉という客観的に判断できるもの=ルールが明確なものに頼っていることの一つの表彰となっている。弁護士というマティアスの職業もそうだし、マキシムを送り出すパーティで行われたゲーム(言葉遊びのゲームだった)でマキシムがインチキをしているのに怒り出す場面からもその性質が読み取れる。

ただその一方で、劇中で「言葉」の信頼性は限りなく低い。旅立つマキシムにマティアスが贈るスピーチは冴えないし、マティアスと恋人、マキシムと母親、マティアスと友人など、様々な関係性の中で印象的な会話のシーンの多くが口論となっている。マキシムとその友人たち、マティアスの恋人が音楽で盛り上がるシーンでも、マティアスはひとり沈んだ表情でいる=非言語コミュニケーションを拒絶する。トロントからやってきた弁護士のマカフィのジョークも、女性を性的に消費する言動を繰り返しながらマティアスを誘う視線も、マティアスを混乱させるだけでしかない。マキシムがオーストラリアで必要になる推薦状(「言葉」で書かれた書面)は届かないし、マキシムは「その英語じゃ向こう(オーストラリア)では通じないわよ」と笑われたりもする。そもそも、マティアス&マキシムという名前自体、愛称にするとマット&マックスでかなりややこしいし*1

言葉が信用されていないのは、マティアスとマキシムがお互いへの気持ちを、「ルール」から外れる感情を言葉にすることができないからなのだろう。ルールに則っていればないものにできると考えているから、でもある(社会的な規範にせよ、「あのキスは映画のため、罰ゲームのため」という言い訳にせよ)。

終盤、マティアスがマキシムに向けた言葉が狂いなく届くシーンが一つだけあるのだけど、それは誰もが言葉にしないことが暗黙の了解となっていた言葉だった。マティアスは自分をがんじがらめにする「言葉」を口にして、「ルール」を破る。そこから物語が変わっていく。言葉以外のコミュニケーションがマティアスから溢れ、非言語の曖昧さによって混濁しながら、多くがマキシムに届いていく。

ノンバーバルコミュニケーションの豊かさを織り上げ、映画はクライマックスへたどり着く。希望と切なさのあるラストシーンのあと、二人がどんな言葉を交わしたかは明言されない。

 

映画を見たあとは古着を見に行ったり銭湯に行ったりしたいなと思っていたけど、体調もよくなかったし、途中で少し寝たせいで時間も遅かった。夕飯にかつおのたたきを食べて、夜は早めに眠った。

今日の新規陽性者数は2403人、現在の重症者数は10人、死者3人。

*1:このややこしさは、監督でマキシム役を演じたグザヴィエ・ドランが『君の名前で僕を呼んで』に感銘を受けて本作を撮ったことともつながっているんだろう

別の生き物[2022年4月28日(木)晴れ]

GW前ということもあって、朝から締め切り祭りの一日。といってもゼロから書くものはなくて、最終的な仕上げや修正などが中心。午前中は完成度7割ほどの原稿を2本仕上げて、日記を書く。お昼になったら二人分のトマトツナそうめんを作って食べ、午後は原稿の修正、初稿の確認、ややこしいデータの集計。気持ち的にはかなり余裕がなかったけど、思ったよりも手早く終わらせることができた。ほっとして、スーパーへ買い物へ行く。今日の夕飯で足りないものに加え、明日作ろうと思っている豚汁の材料も買う。明日は3回目のワクチン接種。元気がなくても食べやすいかなと思って、豚汁。

2回目の副反応がけっこうきつかったので、今回も重いかもしれないと想定し、土日は何も予定を入れないでいる。本を読んだり、ネトフリ見たりするくらいの元気はあるといいけれど。GW中に消化したい作品がけっこうある。

 

戻ってきて仕事したあと、田亀源五郎『ゲイ・カルチャーの未来へ』を読む。『弟の夫』最終巻が出た2017年の語り下ろし本で、木津毅さんがライター。ずっと積読になっていたけど、最近ゲイ関連の本をよく読んでいて、流れで手に取る。思ってた以上にあっけらかんとしていて、軸がしっかりしているのが語りから垣間見える。アジテーションではなくて「自分は自分、他人は他人」というスタンスが一貫している。ただ、社会問題やアクティビズムには敏感。それは社会が「みんなのもの」だからだろうか。それについて語るときも、「自分ごと」としてだけにならないような言葉が選ばれている。

「ポルノというものはそれがいかに私的な価値観に基づいているかが重要*1」「宗教画がどれだけ否定されても信仰があれば揺らがないように、ポルノも自分の欲情のメカニズムに基づいていたら『あなたがダメだと言っても、私が興奮するんだから仕方ないじゃないか』と批評を拒絶できる」「世間的にタブーかもしれないけど、フィクションの自立性を最大限尊重している」など、印象的な言葉がいろいろあった。特に「日本に同性婚の話題が入ってきた時、多くのゲイは『自分はどうするか』ばかりで、それが他のゲイにとってどんな意味を持つかを考えているように見えなかった。逆にノンケさんたちのほうが、最初から他人事なぶん客観的に物事を見ていたように思える」という指摘はそうかも、と思う。

フィクションの自立性に関しては、たとえばHIV/AIDSの時代に、作中の性描写でコンドームをつけるか? という話で「考えたけど、そもそもハードコアなSMとかタブーばっかり書いているんだし、そこもフィクションだと思ってコンドームはつけなかった」「自分の漫画を掲載しているゲイ雑誌側で注釈を入れることはあったし、そもそも別のページで啓蒙記事などがあったから、自分はフィクションの世界を構築することに専念した」といったことが書かれていた。ただ一方で、『弟の夫』に関しては「HIVを取り上げる気はなかった。この物語の枠で取り上げると、HIVはゲイの病で死に至るという時代に逆行した偏見を再生産してしまう」とも語っている。この考えに至ったのは、『弟の夫』は性的マイノリティを知らない読者が多い青年誌での連載だから=どの場所で表現を行うか、ということもあったのかもしれない(でもHIV=死というイメージは、ゲイメディアで連載するにしても古いか。だけどそのわりにHIVポジティブで普通に生活しているキャラクターって、あんまりフィクションで見たことがない気がする。そんなこともないのだろうか)。

最近はフィクションが現実世界に与える影響が取り沙汰されることが多くて、高い倫理観が要求されることも多い。ただ、「フィクションは現実の認識に影響を与える」というのと、「フィクションも現実である」というのは全然別の話なのだと思う。このへんは議論をする中で線引きがごちゃっとすることも多いし、それがOKかどうかは作中の文脈やゾーニングなどいろいろな要素が絡んでくるから一概には言えないのだけど、根幹にあるのは、読み手の倫理観を信頼できるかどうかという気がする。

さまざまな現実の事件を問題視すれば、信頼できない読み手の存在が浮かび上がり、倫理的でないフィクションは規制する方向へと流れるのだろう。でも、そうやって誰かが傷つく可能性に胸を痛めて、そうならない作品を作ろうと志す人と同じように、読み手との信頼関係の中で踏み込んだ表現を続ける人、それによってフィクションの自立性を保とうとする人も尊い、と思う。

 

あと、最初に書いた「自分ごと」だけにならないように、という点にも通じるのだけど、言葉選びが平易なのがいい。田亀さんのスタンスを、ライターの木津さんがうまく掬い取った成果でもあるのかもしれない。

言葉には意味やリズムと同様に、属性というか、色のようなものがあると思う。その色は語り手や書き手の色とつながり、お互いを染め合う。専門用語やスラング、ネットミームを思い浮かべるとわかりやすくて、「この言葉を使うからこのクラスタ」というのは、やっぱりある。

そしてそうなってしまうと、自分と同じクラスタには響くけど、そうではない人は話の内容をじっくり点検する前にシャッターを下ろしてしまうというようなことが起こる。何かを問題視していて変えたいと思うから言葉にしているのに、届く可能性を自ら潰してしまう。そうならないように、私も自分なりに気をつけるようにしているのだけど(込み入った話になるほどうまくいかないことも多いけど)、田亀さんのこの語りもクラスタ化されないものになっている。あえてそうしているのかもしれないけど、あっけらかんとした語りや考え方から察するに、「感性がそうさせている」という印象。

フラットな(という認識もバイアスを免れ得ないけれど……まあ、出来うる限りの客観的に見る努力はしているつもり)言葉を自然に選べる人は、時代に流されないというか、潮流の中に身を置いても自分で考えることを手放さない人に多いと思う*2。自分の声を聞き続け何よりも大事にする人。これを書きながら私は複数の人のことを思い浮かべていて、そういう人をナチュラルな芸術家だなあと思ったりする。ナチュラルであることがそうでないことよりも優位というわけではないけど。

 

夜はプールへ。4ヶ月近くに及んだ近所のプールの修理が4月になってようやく終わり、代わりに通っていたところからホームへ戻ってきた。ホームのプールは代わりのところよりも水深が浅く、そのせいなのか泳ぐのがかなり楽。水圧が低いからなのだろうか。

最近、もっと上手に泳げるようになりたいと思ってYouTube動画を見たりしていたのだけど、その試行錯誤の中で、体のバランスを崩さないことが何よりも大事だということがわかった。たとえば、前方を見るのではなく、まっすぐ泳げていると信じて首は下に向ける。バタ足は推進力としてではなく、下半身のバランスを取るための尾鰭のようなイメージで、腰から下を一つのパーツとして考える。息継ぎは体勢が崩れやすい(崩すとそれまでできていた推進力を失うし、立て直しにも時間がかかる)ので、極力動きを小さく、回数を減らす。これらを意識するようになったら、ぐっと泳ぐのが早くなった。25メートルプールの対岸にタッチするとき、それまで自分と一体化していた水の流れが体を追い越すのがわかる。この流れに乗れていたんだな、とわかる。その感覚が、自分が水の中の生き物になったように感じられて楽しいのだった。

 

心地よい疲労感とともに帰宅。出かける前に作っておいたなす、厚揚げ、挽肉の和風炒め煮。冷凍庫から発掘された枝豆も入れてみたが、もっと入れてもよかったかもしれない。

 

今日の新規陽性者数は5394人、現在の重症者数は13人、死者4人。

*1:以前AV監督の二村ヒトシさんだったかが、以前は一人の監督の変態性によって一点突破するような画期的な作品が作られることがあったが、会議によって売れる作品が分析され、作られるようになった結果勢いを失った…みたいな話をされていたのと重なるかもしれない

*2:ちなみに自分なんかは書くことを仕事にしているから言葉の使い方に意識的になった結果気づいたというだけで、かなり時代に流されまくり

お店番[2022年4月23日(土)晴れ]

今日は3ヶ月ぶりに吉祥寺ブックマンションの店番の日。期せずして渋谷では東京レインボープライド(TRP)を開催しているということで、直前に自分もなんかやろう、と思って、LGBTジェンダー〜社会運動関連の本(私物)でさらっと読めるものを並べることにした。午前中にざっと読み返して、関連するところにふせんを貼る。

 

本を持っていこうと思ったのはTRPにポジティブな気持ちで連動しているからではなくて、VOGUE Japanで公開された団体の共同代表によるインタビューが当事者を中心に話題になっていたのを見たことが大きい。

主に批判されているのは、TRPがひたすら「ハッピー」な「フェス」であることを全面に打ち出していることに対する「「私たちに人権を」というアプローチをとると身構えてしまう人もいて、当事者を取り巻く環境を変えるためにやっているのに、ややもすると当事者と非当事者の分断を生みかねない。でも、ハッピーな要素には人を巻き込む力があります。」という発言と、「(TRPがはじまった)2012年ごろまではLGBTコミュニティの連帯はなかった」というところ。

後者に関しては単純に歴史を遡ればそんなことはなかろう、とわかる。前者については、一見良いことっぽいのだけど、人権=LGBTQ+の人たちが直面している課題や日常の中の不安、危機を訴えることなしに、私たちってハッピー、という雰囲気でどんなふうに変わるの? あるいは、変わったとしてそれは当事者にとって良い変化なの? 世間が受け入れやすい側面だけが受け入れられて、都合の悪い部分は受け流され続ける=差別的な構造の根っこは変わらないんじゃないの? という批判が挙がっている。私も基本的にはこの批判に同意している。

でもなんかSNSを見ている限り、鮮烈な驚きと怒りによる大炎上というよりは「やっぱりか」という落胆の色が混ざっているように思える。それはお金を持っている企業ブースが大きくなって、地道に活動してきたNPOなどが小さな場所へ追いやられるという近年の資本主義感を増すTRPの動きを知っていれば予想できてしまう発言でもあって、私も記事を読んで感情が大きく揺れ動くことはなかった。

この記事は(好意的に読めば)人権を訴えることがダメとは言っていなくて、まずハッピーな空気、次に人権、という順序の話をしているだけと言えなくもないのだけど、不信感の蓄積がこれまでにあって、好意的に読めなくしている。そしてだからといってTRPのすべてが悪いわけでもなく、重要な機会になっているのも事実なので、みんななかなか言葉が難しいのだと思う。

 

ただ、「人権を」というアプローチで身構えてしまう人がいることは事実だとも思う。そういう人にどうやってわかってもらおうとすればいいのか考えると、そもそもハッピーであれ真面目であれ、雰囲気や動員にどれだけ頼れるのかわからなくなる。それよりは、一対一の緊張を伴う関係のほうが、多くのことをお互いに考えるし伝わるのではないか*1。広い場所じゃなくて狭い場所で、静かにできる方法もあるのではないか。その時、本はすごく良い道具になるのではないか。そう思って、自分なりにできることとしてセブンイレブンでA3ネットプリントしたプログレスプライドフラッグ*2を飾り、ブックマンションの狭い空間に本を並べたのだった。並べる本は短時間で読めるように絵が多かったり、項目が細かく区切られていたりするものをセレクト。そして権利や、ノイズとしての運動の歴史が書いてあるところにふせんを貼る。

 

13時にお店を開けると、すぐに4,5名が来店。緊急事態宣言も明けているし、たくさんの人がきそうだなと思っていたのだけど、その人たちが帰ったらしばらく誰も来ない時間が続いた。案外波がある。最近サボりがちな日記を書いたり、本を読んだりして過ごす。その間にもぽつぽつとお客さんが来る。来た人がみんな私が設置したLGBT本コーナーを見てくれるわけではないが、何人かは今日のために書いたテキストや、本を読んでくれていた。

コーナーの前で誰かが立ち止まってくれるとそわそわして、どんなことを考えているのだろうと緊張する。それは相手も同じかなあと思ってこちらから話しかけることはしなかったのだけど、それだとなかなかコミュニケーションは生まれなかった。正直、もっと大勢の、多様な反応を期待していたからちょっと落ち込みもしたのだけど、まあ次はやり方を変えて、継続してやってみよう。

 

営業は波がありながらも、さっと出ていく人、じっくり1時間近くかけて見ていく人、それぞれの時間の流れが重なっていて良かった。人がいなくなってお菓子でも食べようかと思っていたタイミングで運営の中西さんが来店。同じ時に「にちようだな」さんも来店し、3人で少し話す。二人とも日記祭で出した私の新しいジンを買ってくれた。中西さんは「4月8日までの日記が入っていて、10日のイベントで売りました」という私の宣伝文句をめちゃくちゃ楽しんでくれる。中西さんがいるタイミングで、私が今日自分の棚に補充した雨宮まみと岸政彦『愛と欲望の雑談』が売れたのだが「補充したその日に、しかもお店番してる日に売れるなんてすごいっすね!」と誰よりもテンションが上がっていた(運営なのに!)。

にちようだなさんはLGBTコーナーに置いていた『プロテストってなに? 世界を変えたさまざまな社会運動』を「なかなかない切り口の本ですね」と興味深そうに読んでいる。そのあと、お互いのジン制作について情報交換をしたりして、30分くらい?人のいない店内で話した。

お店番をするとお客さんとのちょっとしたコミュニケーションはいろいろあって、コロナで全然出かけていなかった去年からすればそれだけでも十分貴重なのだけど、最近は欲が出て「新しく人と仲良くなりたい」と常々思っている。だからこうして30分とか、まとめて話ができる時間があってすごく良かった。あとお客さんでも、買っていかれる本が自分が読んだことのあるものだと「これいいですよ!」とか、一言言いたくなる。テンションとか雰囲気で言わないことも多いのだけど、その欲求が高まっているのは感じていて、なにか新しい関係を欲しているんだなあと思う。

 

17時ごろににちようだなさんが帰って、人のいない店内でお菓子。以前は17時までの営業としていたのだけど、今日は19時まで開けてみた。18時台に来店が重なり、開けていてよかったと思う。19時になり、クローズ作業をして外に出る。ブックマンションは地下にあるので店内は微妙に寒かったのだけど、外は空気が生ぬるかった。夏の気配。良い季節がまたやってくる。

 

今日の新規陽性者数は5387人、現在の重症者数は14人、死者4人。

*1:そう考えると、やはりTRPでやるべきは企業ブースを大きくすることではなくて、日々活動を続けている知見の豊富なブースに多くの人が来られるようにすることだと思う

*2:プログレス〜にせよレインボーフラッグにせよそうなのだけど、高画質のものが意外とネット上になく、フォトエージェンシーが販売しているのも腑に落ちなかった……なんで活動のために生み出された旗が「商品」になっているんだろう。ムカついたので私はWikimediaこちらのページからダウンロードし、フリーのサイトで変換してプリントできるようにしました

新しい日記など

本当は今週どこかで日記を書いて、そこでついでにジンについても補足的に紹介したいと思っていたのに、なんだか全然書けないまま一週間が経ってしまった。誰にも見せない日記はEvernoteにつけ続けているけど、感情に触れることができずにいて、起こったことを急ぎ足で書いているだけだ。かといって来週も色々あっていつ書けるかわからない。なので変則的ですが、こちらの記事で宣伝を。

 

日記祭で出したジン『四月の一週間とちょっと(仮)』はこちらで買えます。4月1日〜8日+αの日記。500円28ページとお手頃なので、気が向いた方はどうぞ。10日の日記祭に向けて内容をあれこれ考えたりもしているので、自分の日記をジンにしてみたいと思っている人にも少しは参考になるのではないか…と思います。いや、具体的なことは書いていないからならないかな。でも「ちょっとやってみようかな」の背中を押す内容ではあるはず!

awapress.booth.pm

 

あと、23日(土)に吉祥寺ブックマンションで久しぶりに店番をします。こちらでも新しい日記を売ろうと思うので、よければ遊びにきてください。

日記祭[2022年4月10日(日)晴れ]

これまでに出した日記本と、昨日製本したばかりの新刊を持って家を出る。天気がいいし、休日の下北沢BONUS TRACKはいつも人が多いし、日記祭は日記を作っている人だけが出展する珍しいイベントだから「買うぞ~」という気分で来る人が多そうだし、けっこう売れそうな気がするけどどうなんだろう。読めないので、とりあえず多めに持っていく。新刊は薄いので、たくさん持っていっても荷物が重くならないのが気楽。

 

集合時間の10時50分ちょうどに着いて、みのるんと一緒に出展準備。水筒にペットボトルのお茶を移し替えた。何ヶ月か前から体温が上がると体中がかゆくなるのだけど、冷たい水を飲むと少し楽になる。今朝その話をしたら、恋人が水筒に氷を満たして持たせてくれたのだった。

屋外でのイベントで気温も高くなりそうなので、ブースで悶絶することになったら嫌だなあと不安だったのだけど、不思議と今日はほとんど発症しなかった。汗をかいた時や深部体温が上がる時にかゆくなりがちなものの必ず発症するわけではなく、いまだに法則が掴めない。

 

自分のブースの準備ができたら、その時点でなんとなくスタート。私のブースは動線から少し外れていたので油断していたけど、はじまってすぐに一冊、また一冊と売れていく。訪れる人は日記祭を見に来た人、来たらたまたまやっていたので寄った人などさまざま。知り合いもたくさん来てくれて、文フリよりも知り合いやなんとなく面識がある人とよく会った気がする。それからこのブログを読んでいるという人や過去の日記を持っている人が少なからずいて、実際に会って短くでも言葉を交わせたのがうれしかった。ありがとうございました。

 

他のイベントだと、「なんで日記売ってるんですか?」と不思議がられたり、説明してもあんまり理解されなかったりして温度差を感じることもある。だけど日記祭ではそれがなくて、どんな日記なんですか、からはじめられるのが気楽でよかった。初開催のイベントなのにかなりホーム感が強かったのは、こういう理由もあったのかもしれない。

 

ブースに立ち寄ってくれた方には、新作を「一昨日までの日記です」と紹介していた。そのたびに皆さん驚いたり笑ったりしてくれてうれしかった。イベントが終われば、昨日急いで作ったことは別になんでもなくなってしまう。この日この場所に来た人だけの「その日性」みたいなものを共有したかったし、それは日記的でも祭り的でもあると思っていた。*1

あと、これはイベント中に気づいたことで、500円という金額や28ページという薄さは心理的にかなり売りやすい。これまでの日記本は二段組みで170ページ前後、価格も1000円と安くはなかったので、売る時にどこか遠慮があった。500円、かつコーヒーを一杯飲む間に読み切れる分量だと、こちらも気楽に勧められる。やっぱりラフにやっていくほうが今の自分には合っているんだなと、新作のあとがき(という立て付けのある日の日記)に書いたことを確かめるように思う。

 

最高気温が25度近い暑い日で、いつも部屋の中にばかりいるので普段と違う疲れ方をした。ANDONのおにぎりセットを食べた昼過ぎ、かなり眠くなる。BONUS TRACKにはおいしそうな店が多く、ビールを飲みたくなったけど、今飲んだら寝てしまうので確信があった。我慢してアイスカフェラテ。カフェインを摂取しつつ、糖分で頭を働かせようと普段使わないガムシロップを入れる。

17時にイベント終了。思ったよりずっと軽くなったカバンでBONUS TRACKを後にする。ずっと外で日光を浴びていた(日よけはあったけれど)からなのか、なんとなく肌が突っ張った感じに。海水浴の帰りの感じに似ていると思う。日焼けの微かな痛みと、なにかが付着しているような粉っぽい感じ(それは海なら潮風で、今日なら花粉とかだろうか)。心地よく疲れた体で坂道を下る。そして我慢していたビールを飲みに居酒屋へ。

 

今日の新規陽性者数は8026人、現在の重症者数は29人、死者0人。

*1:とはいえ遠方だったり都合がつかなかったりして来られない人もいたと思うので、追って通販もします。準備できたら告知しますね。「その日性」を感じながら手にとってもらえたら。