ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

そういうもの?[2021年9月18日(土)雨]

11時から取材1件。今作っている特集の一企画で数人にインタビューをするのだけど、その最初の取材。色々といい話を聞けて、企画段階で考えていた懸念が一つ解消された。動き出してみるとかたちが具体的になり、心配事が解消されるというのはよくある。

 

お昼は恋人が先日行っておいしかったという商店街の安い寿司屋に行ってみる。回転寿司ではないけど価格帯はそれと同じか、むしろ安いくらい。回転レーンがなく店も広くないことで省コストを実現しているのだろうか。10貫999円のお昼のセットを食べる。色々食べられたし、そこまでお腹が空いていたわけでもないのでちょうどよかった。

恋人はどこかに出かけ、私は同じ商店街にある床屋で散髪。髪を切っている最中、眠くてほとんど目を閉じていたのだけど、一度目を開けたタイミングで美容師のOさんが話しかけてくる。「今日くらい雨降ってると、そういうしっかりした靴が良いっすよね」。そうなんですよ、と返す。今日はメレルのMOAB2だった。ハイキングなどでも使える防水性の高いスニーカーで、私はだいたいひどい雨の日にだけ履いている。

また目を閉じて、カットが終わったら洗髪、ブロウ、そしてセット。床屋とか美容室のセットはどうしてかいつもしっくりこず、過剰な感じにされてしまう。翌日以降に自分でセットするとわりと思った通りになるから、カットがおかしいわけではないし、当日だけ「そういうもの」として過ごせばいいだけなので、特に問題はないのだけど。でも、そうして自分でセットしたものはプロがみるとどこかおかしかったりするのだろうか。

 

家に帰ってきて、WIRED最新号の「NEW COMMONS コモンズと合意形成の未来」を読む。しかし台風による低気圧の影響なのか信じられないくらい体が重く、何も頭に入ってこない。それでもベッドの上に座って壁に背をもたれながら文字を追っていたのだけど、気づいたらその姿勢のまま寝ていた。時計を見ると3時48分。さっき時計を見た時は2時前だったから、1時間弱寝ていたのだろうか。もっと長く寝た気もするし、一瞬だった気もして、不思議な感じ。そして寝たからと言って体が楽になった感じはまったくしない。コンタクトレンズが乾いていて、応急処置として目薬をさす。

 

17時から皮膚科。終わってから外でオムライス。昼も夜も外食をしたのはかなり久しぶりかもしれない。帰り道、少し足を伸ばして雨の中輸入食品の店へ行く。今度仕事でクラフトビールのブルワリーを取材するのだけど、そのリサーチをしていたら興味がわいて、色々と飲んでみたくなった。この輸入食品の店にはクラフトビールコーナーがあるのだ。しかしいざ見てみるとどれを買えばいいか全然わからず、気になったものは一本1000円近くして、最初にこれを飲むのはちょっと気が引ける。結局、家に先日コンビニで買った「僕ビール、君ビール。」(「よなよなエール」などを作っているヤッホーブルーイングのクラフトビール)があるし、まあまた今度来ればいいやと思って、何も買わずに出てしまった。

 

家に帰って一人でビールを飲む。台風の日に飲むビールをいつもよりおいしいと感じるのは湿度のせいだろうか。もともとの体調の悪さと酔いのせいで何もやる気が起きず、ただだらだらと過ごす。自民党総裁選の件で、岸田文雄前政調会長が同性婚を「認める段階に至っていない」と話したというニュースを見て嫌な気持ちになる。不寛容な態度を示されることは正直慣れてしまっているので(慣れすぎてもいけないのかもしれないけど、いちいち傷ついていられない)ダメージは少ない。嫌なのは、「認める」かどうかを自分たちが決めるものだと思っている特権性やその構造について、多くの人がこれまで批判してきたはずで、そうした積み上げてきたものが何一つ届いていないこと。

「議論はあっていい」とも語ったそうだけど、そもそも現状どんな議論があるかを知らない(あるいは知らないと思われてしまうほど、自分の発言に反映する気がない)人は聞く耳を持たなそうだし、何も言っていないに等しいだろう。

かといって、じゃあ同性婚夫婦別姓に前向きな他の候補者が良いかと言われるとそういうことでもなく、良いように使われている居心地の悪さもある。選挙権はないけど、あったとしても誰にも入れたくないと思う。

 

23時からETVで岸政彦編集の『東京の生活史』のドキュメンタリー「私の欠片と、東京の断片」を見たかったのだけど、今見ても集中できない気がした。録画もしているので、明日見る。

今日はEvernoteにつけている簡易的な日記も書けなくて、明日2日分をまとめて書こうと思う。最近、こういう日が多い。忙しくて時間がとれないというのとも違って、Evernoteの日記に心が向かない。一応書くことは書くのだけど、その日起きたことや感じたことを思い出すと心が痛く感じられて、ひどい景色を薄目で見てやり過ごすような気分になっている。そんなにひどいことが毎日起こっているわけでもないのに、どうしてだろう。そしてEvernoteの日記にそうやって走り書きをするのはひどくつらいのに、なぜかこのブログのためにより詳細に書く日記だと大丈夫で、むしろ落ち着くくらいなのだ。その原因や仕組みがまったくわからない。何か自分にとっての書く意味が変わってきているのだろうか。

 

今日の新規陽性者数は862人、現在の重症者数は177人、死者20人。最近は死者が多い。今週は12日の日曜日から順に21人、12人、14人、20人、24人、25人。新規養成者数も重症者数も減ってきているのに、その波の動きと比例せず死者数が増えるのはどういう理屈なんだろう。

超自我のせい[2021年9月14日(火)雨時々曇り]

一気に書いてしまいたい原稿たちがあって、朝から少し緊張していた。ある特集での3000字ほどの総論と、1500字ほどの各論3本。計4本、と思うとつらくなってくるけれど、7500字の長い原稿だけと考えればいける気がしてくる。基本的にはそれぞれインタビューをまとめるだけだし、難易度は高くないはず。そう思いながら、午前中のうちに3000字の原稿1本と1500字の原稿1本の準-原稿を作る。昼休憩にサラダチキンと野菜、フリーズドライのオニオンスープをTwitterに流れてくるメットガラの画像などを眺めながら食べて、残る2本も作業を進めた。おおむね予定通りに終わって一安心。1本うまく流れを作れないものがあったけれど、他のものとあわせて明日見直せばいい。どちらにせよまだ誌面のレイアウトが出ていないから、最終的な行数は調整する必要があるのだし。

 

それからは原稿の修正や、今日提出の原稿の仕上げ。てきぱきと終わらせたかったのだけど、別のことを考えてしまって、なんだかやけに時間がかかってしまった。ちょっとした情報を調べるためにネットを見ると、気づくと検索窓にまったく関係ないことを打ち込んでいて、数分回遊したあと正気に戻るのを何度も繰り返してしまった。色々な不安が渦巻いている。低気圧だからか。

Twitterに「自分のことを評価してくれる人がいても(今回はたまたまうまくいったけど次はダメだろう)みたいに思ってしまって、相手を騙している気分になる」というようなことを投稿する。これは今の私が考えていたことと直接的には関係がないのだけど、自分を強く支配している感覚で、今考えていることにも確実にネガティブな影を落としている。このせいで、私は人と信頼関係を築く時に強い(自分でもうまく掴めない)苦痛が伴うと感じていて、関係そのものを回避しようとするくせがある。いいかげんどうにかしたいのだけど、いまだに「気合い」以外の解決法を見出せていなくて、ふとした瞬間にこの感覚にとらわれて、どうしようもなく不安になってしまう。

 

少し別角度になるけれど、先日読んだ東畑開人『心はどこへ消えた?』の中に、この苦痛を和らげる考えが書かれていたのを意識的に思い出す。

「締め切り恐怖症」というエッセイで、自分で自分を責める声のことを指す「超自我」という心理学の概念を引用しながら、生活に困っているわけではないのに万引きを繰り返してしまう老人のことが書かれていた。老人は自分のことを日々僕悪人だと責め続ける抑うつ的な生活を送っていて、監視カメラを逃れて万引きに成功した時だけ、その苦しみから解放された。監視カメラに自分の超自我を投影し、それをかいくぐることができた瞬間だけ癒しが訪れた、という。

そのロジックはわかるようでよくわからなかったのだけど、老人にとってはそういうものだったのだろう。しかしある時万引きは監視カメラに捉えられ、警察が呼ばれ、家族に事態が露見する。彼は「みんなに軽蔑される」「一生の終わりだ」と思ったけれど、そうはならなかった。警察は親身に話を聞いてくれたし、家族はお店への謝罪に付き添ってくれて、お店の人もそれを受け入れてくれた。現実は超自我よりも優しかったのだ。

 

ああ、超自我から逃げようとすればするほど、超自我の残酷さは強まる。万引き依存症ともいえる彼にとって逮捕が救いであったように、私もいっそ締め切りを破ってみたら楽になれるかもしれない。編集者には軽蔑されるかもしれないけど、多分、心の中の副社長*1は優しいはずだ

続いて収録されている「悪い考え」では、大学の最重要会議(オンライン)をすっぽかした東畑さんが「このミスによって何か悪い決定が下されるのではないか」「いやだったらはじまった時点で連絡してくれたらよかったじゃないか、落ち度は向こうにもある」「俺を陥れる謀略なのでは……?そっちがその気なら裁判でもなんでもやってやらあ」と疑心暗鬼の連鎖を起こしていく姿が(だいぶユーモラスに)描かれている。東畑さんはその自分の心の動きを、中学校のスクールカウンセラーをしていた時に出会ったひきこもりの少年の姿と並べる。

 

私たちの心には戦争が潜んでいる。それは傷ついているときに、噴出する。裁判の空想をしていた私のように、あるいは環境汚染を罵るあの少年のように、他者を攻撃する悪い考えが止まらなくなり、同時に他者から攻撃される悪い考えが止まらなくなる。(中略)「あいつが怖い」と思い、「あいつがムカつく」と考え、それがグルグルと回っているうちに、心の中の「あいつ」はどんどん肥大化し、凶暴化し、残酷になっていく。ずると、とてもじゃないが会えなくなってしまう。

 戦争を終わらせるには、直接会うしかない。実際に他者と接触すると、ついつい平和な付き合いをしてしまうのが、私たちの心だからだ

 

自罰的すぎる超自我も、不安や恐怖が渦巻く「悪い考え」も、自分の中に閉じているから肥大化してしまうものだ。他者に打ち明けたり、接触したりするのは相手のタイミングがあるからすぐには難しいかもしれないけれど、発生のメカニズムがわかると少し落ち着く。不安が完全に取り去られるわけではないけれど、冷静になれると感じる。「超自我のせい」「悪い考えのせい」と思って、深く考えないようにする。そうしていると、「相手に何か言われたらその時考えたり傷ついたりすればいい」とちょっと思えるようになってくる。なんだか騙している感覚の話からずれた気がするけれど、自分にとってはつながっている話。

 

ぼやぼやしていたら恋人が帰ってきて、夕飯の準備を何もできていなかった。米を炊いてもらっているうちに仕事を片付け、鶏肉とキャベツの味噌炒めを作る。しかしなんだか味が決まらず、給食や学食のはずれメニューのような味だと思う。土曜に作った豚キムチも食べる。キムチが多分腐りかけで、「危険」のギリギリ一歩手前の「熟成」の味がした。明日にまわしていたら駄目だっただろう。今日食べることにしてよかった。

 

夜は村上春樹『女のいない男たち』を読む。先日見た映画『ドライブ・マイ・カー』がとてもよく、どんな風に作られたのかを知る目的で。とりあえず表題作の「ドライブ・マイ・カー」を読んだけど、映画よりかなり単調に感じられる。短編と3時間の映画の違いなども大きいと思うのだけど、主人公の家福以外の人物に表情がないというか……あと、ミソジニーと言うと強すぎるけれどどことなく女性を下位に置くような描写が少なからずあって、読みながらノイズに感じる。映画ではそれは家福の意識のみに表れていたけど(象徴的なのは車のドライバーがみさきであることに不満そうな家福に、みさきが「私が若い女だからですか」と聞くシーン)、小説では世界の論理そのものに紛れ込んでいる。まあでも他も読んでみないとわからないし、全体を把握したいので、とりあえず読み進めてみる。

 

今日の新規陽性者数は1004人、現在の重症者数は208人、死者14人。

*1:著者は超自我のことをこう擬人化している

どこか抜けている日[2021年9月10日(土)曇り]

火曜日の寝坊に懲りて「二度寝しない」を試している。6時半ごろに目が覚めて、そのまま活動開始。今日は今作っている日記本の作業。読み返せていなかった後半部分に目を通して、保留にしていたいくつかの箇所を調整。その過程でいくつかの記述をばっさり削る。

今度の日記本はオリンピック期間のことを残そうと思って書いていたから、この時期に起きたニュースは積極的に書くようにしていた。だけどそれを続けるうちに、なんだか反射的に書いているだけのような気分になってきて、考えも生煮えだし、だんだん違和感が大きくなってきてしまった。

読み返してみて、「これは明らかに違うんじゃないか」と思うようなことは書いていない、と思う。ただ、じゃあ自信を持って、半永久的に残るものとして出せるかというと、そうではない部分もあると感じる。その部分を削る。その時の自分はそう感じたから、と割り切ってすべてそのまま残す考え方もあるだろうし、それはそれで強く覚悟がいるものだけど、一方で思考停止的であるとも思う。私はその時の自分だけではなくて、今の自分を経由するというところにも責任を持ちたい。バランス型で、どっちつかずでもあるかもしれないけれど。

しかしコメンテーターの人とか、SNSなどで時事問題にビビッドに反応している人はすごいなあと思う。私はそうなれないし、なる必要もないと改めて思う。ただなんというか、私がどうして社会問題をキャッチアップしていたいと感じるかというと、そこにあるのは「ただ生きていることへの自信のなさ」なのだ。社会と関係して、何か"良い"方向に風向きを変えるような役割を少しでも担っていないと、居場所がないような気がしている。だから社会問題に反応するとかしないとか、そういう個別の話とは一つ上のレイヤーで、この自信のなさや後ろめたさと向き合わないと、根本的な解決はなされないだろうと思う。これはもう少し考える。

 

昼前、明日恋人と見に行こうと話していた『ドライブ・マイ・カー』のチケット予約。映画館のチケットをウェブで予約する時、いつも会員登録しようか迷って結局しない。映画館が一つだけだったらいいのだけど、いろんな映画館や系列ごとにサービスがあると、なんだかわずらわしい気がして一律で登録しないという態度に出てしまう。

電話番号を入力している時になんとなく違和感があったのだけど、登録完了後にこれって会社の電話番号じゃん、と気づく。まあSMS認証があるわけでもないし、発券時に覚えていれば大丈夫なのだけど、謎の間違いに動揺した。

映画を見る時間や座席の位置で恋人と一悶着。中ほどの左右と後方の真ん中しか空いておらず、私が折れて後方真ん中の席にした。「そのほうが絶対見やすいよ。左右が空席ばっかりなのは見づらいからだよ」と恋人。そういうものだろうか。座席を譲る代わりに時間と場所は私の希望通りにしたのだけど、予約を完了してから終映の1時間後に打ち合わせがあったことを思い出した。急いで帰れば間に合うし問題はないのだけど、電話番号も間違えるし、なんだか今日はどこか抜けている。

 

家に食材がなかったこともあって、お昼ご飯も食べ損ねてしまった。買いだめしているプロテインバーを食べる。空腹がおさまったので文字起こし1本。文字起こしは目も耳も手も取られる作業で、それなりに集中力も必要だからあまり好きではないのだけど、何か食べながらやると苦痛が紛れることに気づいた。存在を忘れていたキウイの飴をいくつも食べながら作業。

 

17時ごろ、夕飯の買い出し。外に出ると長袖では暑く感じられ、そういえばラジオで週末は気温が上がると話していたことを思い出す。明日は映画や打ち合わせでご飯を作る時間がなさそうなので、数日分まとめて作れるように豚キムチ。しかしスーパーで食材をかごに入れながら、だんだん作るのが面倒になってくる。かといって食材を売り場に戻すのもはばかられ、とりあえず買って明日の午前中に作ろう、今日は外食にしよう、と思う。帰って恋人にそう宣言。なじみの焼き鳥屋へ久しぶりに行ってみることに。
恋人の仕事がまだ終わらないので、私も日記の作業を続ける。細かいところを調整して、前回に続いてデザインを担当してくれるMに原稿を送った。

 

そのあと、なんだかんだあって家を出たのが20時過ぎ。焼き鳥屋は遅くまでやっているから大丈夫だろうと思っていたのだけど、なんと9月頭から12日まで臨時休業となっていた。陽性者が出たのか、それとも行政からなんらかの指摘を受けたのか。12日までとなっているけど、宣言が延長されるから休業も延びるのだろうか。

そんな話をしながら少し飲食店街を歩く。クローズしているお店もあるけど、「営業中」の看板を掲げて賑わっているお店も多い。しかしこういうわいわいがやがやとした居酒屋って本当に数ヶ月単位で行っておらず、その店内の様子を見て反射的に「怖い」と感じてしまう。いったん足が遠のくとどんどん距離が生まれてしまうものだな。このままだと気持ち的にコロナが完全に収まるまで居酒屋に行けなくなってしまいそうだ。それはそれで極端だからどこかで気持ちのリハビリをしたいが、今日のところは無理そう。

ワクチン接種証明、陰性証明などによる行動制限緩和もにわかに報じられるようになってきたけど、色々と問題含みな気がしてなんとも言えない。

 

お店に入るのは断念して、結局近所のすき家で牛丼を買って家で食べる。でもこういうのも久しぶりな気がする。ノンアルコールビールを一緒に飲む。

 

今日の新規陽性者数は1242人、現在の重症者数は243人、死者15人。陽性者数も重症者数も減ってきた。一方で、死者が10人強の日が8月末から多くあり、なかなか数字が下がらない。

愛のいくつか[2021年9月7日(火)曇り]

遠くから聞こえるアラームの音が気になって目が覚める。ピピピピピと素早く、連続して鳴るこの音はおそらく隣の家からのものだ。いつも夕方の18時ごろに小さく聞こえて、おそらく家に誰もいないので10分以上鳴り続け、目覚まし時計のオートストップ機能か何かでいつの間にか止まる。朝に聞くのははじめてで、iPhoneの時計を見ると6時。アナログ時計なのかなと想像する。なかなか音が鳴り止まず、気になって眠れない。

それでも横になって目を閉じて、起きたら9時。7時や8時にセットしたアラームにまったく気づかなかった。最近、遅くまで寝てしまう。今朝ももっと早く起きたかったのにそれができなくて、朝の時間がごそっと消えたようで焦る。

 

シャワーを浴びて仕事。ただでさえ時間が遅れているのに、保留になっている心配事のいくつかが頭から離れず、気づくと手を止めて考え込んでしまっている。そんな中で秋頃までの仕事の予定が、かなり立て込みそうな気配がありつつ全容が掴めないという一番落ち着かない状態なのも不安に拍車をかける。当然直近の仕事もあって、一人で静かにパニック。胸のあたりがずんと重く、目の前の仕事が手に付かない。ちょっとやばいかも、と思う。

少し前までは元気だったのにこうして途端に崩れてしまうのは、実は元気じゃなくてストレスに気づかないふりをしているからなのだろうか。だとしたら恥ずかしいなと感じつつ、あまりしっくりこない。というよりはものごとを処理するための頭や心のテーブルが私は小さく、そこに一度にたくさんのものが載せられるとダメになってしまう、テーブルを整理できないことへの耐性が低いということなのではないかと思う。簡単に言えばシングルタスク気質なのだ。

頭の中にあるだけだとモヤモヤしたままいつまでも場所を取るので、とりあえず仕事のざっくりとしたスケジュールを可視化しようとGoogleスプレッドシートガントチャートを作る。どの時期がどのくらい忙しいのかがざっくり把握できて、少し落ち着く。それから昨日の日記。そこに今感じている不安を書きつけるとまた少し落ち着いたけれど、それでもまだ収まらない。

ホテルのような静かな場所で一晩ひとりで過ごしたい、と思う。あるいは映画を見に行くとか。久しぶりにサウナも行きたい……と、思考がいろいろな方面へ飛んでいく。どれも家の外でやることばかりで、私は家の中で過ごすのが苦にならないと思っていたけどやっぱり実はストレスが溜まっていたのかなと考え、ちょっと違うなと思い直す。もちろん小さくストレスは感じていたと思うけれど、それが限界に達したというよりは、最近していないことをして日常のループを壊すことで、閉塞した気持ちをリセットできると考えているのだろう。

恋人に「ちょっと今週どこかホテルに泊まるかもしれません……」と伝える。恋人に何か原因があるわけではないと言い添えたけれど、一緒に暮らしている人が調子を崩していたら心配になるし、直接の原因が自分になくてもどこか責任を感じてしまうもので、こんな言葉で消えるものではないよね、ごめん、とも思う。

 

話を聞いてほしい人の顔がいくつか浮かぶ。仲が良くて、頻繁に連絡をとっている人では必ずしもないことに、自分で意外な感じを覚える。連絡してみようかなと思いつつ、いきなりすぎる気もするし、SNSに弱音を吐いたばかりで心配をかけてしまうかなと迷って、結局誰にも連絡しなかった。できなかった、というほうが近いのだろうか。

 

朝ごはんも抜いたし取材の前に何か食べなければと思うのだけど、食欲がない。恋人が昼飯を買いに行くのがドアごしにわかったけれど、元気が出ず見送りもしないままいってらっしゃい、と小さく言う。

適当にカップスープでも飲もうと立ち上がったところで「バインミー買うけどいる?」と恋人からLINE。バインミーなんてどこで売ってるんだと思いつつ、それなら食べられそうな気がしてくる。「んー、じゃあいる」と返信するとすぐ既読がついて、メニューの写真が返ってくる。具材を選べたので、オムレツとレバーパテでお願いする。

自分のぶんだけ買ってくるのだとばかり思っていたので、予想外のことに慰められた気持ちになった。私は精神的に深く落ち込むと予測できる優しさを否認してしまうというか、その中にあるはずの温度をうまく受け取れなくなってしまう悪い癖がある。それでいてこれ以上傷つきたくないので予測できないことを自分からやる勇気も持てず、結果的に視界の外から突然やってくる優しさでしか癒やされないという、相当めんどくさい状態に陥ってしまう。そこで拒否されるのは多くは恋人や近しい人の優しさで、それはすごく失礼で自分でも嫌だから、どこか事前に諦めているところがあった。でも、二人分買ってきてくれるとか、そういう素朴な優しさできちんと慰められるのだと思うと、自分の硬く捻れたところがほぐれる感じがした。

恋人と一緒にバインミーを食べる。まだ少しあたたかいそれを食べながら「買ってきてくれたものだからよりおいしい」とおどけて伝えると、恋人は私の目を見て黙って頷く。

 

ちょっと元気になって取材と仕事。目の前のことに集中できていると落ち着く。でも、今週はまだ少し余裕があるから、あまり仕事ばかりしないようにしようと思う。ホテルに泊まる必要はないかもしれないけど、何かしらゆっくりしよう。

滝口悠生『長い一日』を読み進める。小さな日常の風景が、時々時間の積み重ねについて言及されながらも、基本的にはそのまま描かれている小説。

小さな描写を重ねていくと、なんとなく私たちはその中に大きなものを見たり、宇宙的なもの、抽象的なものへと接続したりしがちだと思うのだけど、この小説はそういうところがなくて、小さいまま維持されている。それは小説の表現を借りると「説明によって得られる情報と、その説明にかかる労力というか費やされる言葉の量、伴う情報の量がアンバランス過ぎる」というような内容なのだけど、だからこその良さというか、濁りのなさみたいなものを感じる。

どの話もいいのだけど、キッチンでの夫の繊細さ、スーパーオオゼキでの高揚感が特に良かった。引っ越したことで最寄りのスーパーがオオゼキではなくなってしまい、夫はそのことに相当な喪失感を覚えて暮らすことになるのだけど、その様子を見かねた妻はある休日に夫をふた駅先のオオゼキに連れ出す。「最寄りのスーパーはオオゼキではないが、地図をたどれば必ずどこかに最寄りのオオゼキはある」という一文の、なんとも言い難い素晴らしさ。夫がオオゼキに注ぐ愛のいくつかは私が近所のユータカラヤに注ぐ愛とも重なって、こういう小ささで自分も語りたい! と思ったり。

けっこう分厚い小説だけどあっという間に折り返し。読み終わるのが寂しい。

 

夕飯は気分転換のために久しぶりに焼き鳥でも食べに行こうかという話が出たけれど、結局家で食べることにする。麻婆茄子を作って、米も炊けたしさあ一緒に食べようというところで恋人に着信。先に食べてていいよ、とジェスチャーでうながされるので、ひとり食べはじめる。しかしなかなか電話が終わる気配がなく、談笑を交えながら話をしているのを聞きながら無言で食べ終えてしまった。いつもだったら大して気にしないのだけど、気持ちがぐらついている今日にはやけにこたえる。

通話を終えた恋人が白米をよそう時、横の流しに食器を片付けながら「そんなに長引くなら早めに切り上げるとか後からかけ直すとかしてほしかった」と言ってしまう。重要な電話のようだったし、恋人には恋人の事情があるから仕方ないと思っていたのに、我慢ができなかった。「ごめん」と謝られ、気まずい空気の中でなんとなく食卓についたままiPhoneを見る。こんな時間が過ごしたいわけではないと思って明るく別の話題を振ってみるのだけど、軽く扱われたような感覚が抜けないので蒸し返してしまい、かえって嫌味になってしまう。完全に私が甘えているだけという自覚があるのだが、どうにもできず振り回してしまう。

 

結局、夕食の間じゅう気まずい雰囲気をぬぐうのに失敗し続けた。そのあとお互いに本を読んでいる時間になんとなく私が近寄り、仲直りするともなく仲直り(というか、私が一方的に苛立っていただけだけど)。険悪になる前に梨を剥いて冷やしてあったので、「ご飯一緒に食べられなかったから梨を一緒に食べよう」と誘って、二人で食べた。ままごとに付き合ってもらっているみたいで申し訳なくなる。梨は甘かった。

 

今日の新規陽性者数は1629人、現在の重症者数は260人、死者16人。

しんどいのに陽気[2021年9月3日(金)雨]

昨晩飲んだ緩下剤が効き始めているのか、明け方に一度目が覚める。それからずっとよく眠れず、なんとなくお腹のあたりに違和感がある感じ。落ち着かないけど、朝ごはんが食べられないので適度に気持ち悪くて食欲がなくなったのはよかった。

昨日の日記を書いて、9時半になったら「モビプレップ」という液体の下剤を飲みはじめる。薄型のポリタンクに粉が入っていて、それを水で溶いて自分で作るタイプの下剤。飲みやすいよう、私は昨日の夜に作って冷やしておいた。

1杯あたり10〜15分かけて2杯飲んで、それから水やお茶を1杯飲むので1セット。それを最低3セット繰り返す。モビプレップはノーブランドのスポーツドリンクみたいな、バランスを崩したポカリのような味。おいしくはないけど、冷やしているので案外飲める。最初の1セットを終えても特に便意がなく、ちょっと不安になったのだけど、2セット目の途中からいきなりやってきた。トイレとリビングを往復する。

下剤を飲んでいる時は、自分が今どのセットをこなしているか、便の状態はどうかを専用のシートに記録していく。シートで示されている便の状態は固形からほぼ透明な液体まで4段階で、透明な液体になればOK。「だいたいの人は4〜5セットくらいで完了します」と聞かされていたのだけど、私は3セット目の途中から早くもそうなった。前日の食事のルールをしっかり守ったからかもしれない。

私が騒ぎながらトイレと行き来したり記録したりしていると、恋人が興味深そうにシートを見てくる。「あなたこういうの好きじゃん」と言われる。そうなのだ。私は観察魔であり記録魔で、ワクチン接種の時もそうだったけどこういう体に起こる(あまり危険ではない)人為的な変化を楽しみがちなところがある。夏休みの自由研究みたい、などと思いながらかなり面白がっているし、内視鏡検査も同じ理由でちょっとテンションが上がっている。でもそれとは別に、下剤で脱水っぽくなるのがしんどい。引き続きトイレとリビングを行ったり来たり。ABBA復活のニュースを見て、「ダンシング・クイーン」で踊りながらトイレに行くこともあった。しんどいのに陽気。

 

トイレから解放され、出かける準備をしていたら速報で菅首相の総裁選不出馬のニュース。いきなりのことで、速報がプッシュ通知でスマホに届いた時は「えー!」と声を上げてしまったが、最近の追い込まれ具合を考えるとそんなに驚くことではないのかもしれない。電車で病院へ移動しつつニュースを調べる。病院の待合室でぶら下がり取材の映像を見る。しかし取材自体は2分ほど、記者からの追加質問にも一切答えず背を向けて立ち去っていて、これは取材と呼べるのか……? という気持ちに。そしてこの一方的で「関係」と呼べるものがまったくない様子、説明する責任も遂行する責任も果たさずに投げ出す様子には既視感があり、最後まで菅政権だった、とも思う。

オリンピックをめぐる騒動やコロナ対策の不手際をすべて背負わせる形にして、党は秋の選挙にはイメージを刷新して臨むのだろうか。かなりゴタゴタして見えるので、誰が就任しても単純に首をすげ替えただけにはならなそうだけど、そうだとしても本質的なところが変わらないままなんとなく支持率が回復したら嫌だな……と思う。同じようなことを、ちょうど1年前にも思った。

菅首相は「コロナ対策に専任したい」ということを理由に挙げていて、それもなんだかなという感じ。建前も必要なのかもしれないけど、「コロナだから」って、これまであまりに建前として使われすぎた。最後まで言葉を空転させて、言葉の意味とか発する責任を薄く削っていくような姿勢のままだったのが虚しい。

 

時間になると呼ばれて、検査着に着替えて鎮静剤の点滴を打ち、内視鏡検査開始。事前に渡された説明書には「鎮静剤でウトウトした状態で受けてもらう(そのため痛みなどは少ない)」と書かれていたので、検査中も意識はあるのだと思っていたのだけど、普通に爆睡した。気づけば検査が終わってベッドに寝かされていて、ちょっと残念。1時間ほど安静にする。

先生の診察では「問題はなかったですね」と一言。本当にそれ以外のコメントがなかった。検査結果を示す紙には腸の簡易的なイラストと、さっき撮ったと思われる私の腸の画像が数枚。素人目にも異常がなく健康であることがうかがえるもので、ひとまず安心した。もともと異常があるからではなく、今度受ける手術の準備として念のため受けたものなので、心配はしていなかったのだけど。本番の手術は3週間後。その時の東京はどうなっているだろう。

 

検査でポリープなどを切除した場合は食べ物に気をつけないといけなかったのだけど、私は特になかったので何も気にしないでOK。ジャンクなものが食べたく、駅前でケンタッキーのツイスターセットを食べる。帰宅して恋人に結果を報告しつつ、少し仕事のメールなど。夕飯はなんとなく優しげなものにしたいと思い、豚バラ大根、昨日の豆腐のみそ汁にわかめを足したもの、作り置きのピーマンの焼き浸し、キャベツの塩昆布和え。昨日野菜を食べられなかったのを取り戻したい気持ちが如実に出ている。恋人にも「野菜食べたかったんだなって思う」と言われた。

 

今日の新規陽性者数は2539人、現在の重症者数は278人、死者10人。

カスタマイズ[2021年9月2日(木)雨]

8月、と打ったのを消して9月に書き換えた。昨日から9月で、意識しなくても夏の終わりを実感させられるくらい一気に気候が涼しくなったと思っていたけど、指はまだ8月のことを記憶しているらしい。友人のLINEの返信をして、午前中は原稿のまとめと、いくつかの企画出しなど。

お腹が空いたころにバナナを食べる。明日内視鏡検査を受けるので、今日は食べ物の制限がいろいろある。食物繊維の多い野菜・豆類全般や、脂肪分の多い肉や赤身魚、乳製品などが食べられない。しかし肉は脂肪を取り除けばわりと問題なかったり、牛乳やバターはだめだけどプリンや卵は大丈夫だったり、アバウトな認識だと簡単に間違えそう。だから食事の際にはけっこうこまごまと「◯◯(食材名) 内視鏡」で検索していた。そうやって照らし合わせたり、OKな食材の規則性を考えるでもなく考えるのを楽しんでいたかもしれない。お昼ご飯は卵とじうどんに鮭フレークを混ぜたもの。

 

13時から取材一件。それから来週の取材の質問項目を準備して、日が落ちてきたころから11月の文フリで売るための日記本の作業に取りかかる。収録したい期間の日記をコピペして一つのファイルにまとめ、無駄な改行を削除したり、縦書きのフォーマットにするためにアルファベットや数字を全角にしたりする。単純作業なので何か音楽があったほうがはかどると思って、イ・ラン『オオカミが現れた』を聞く。これまでよりも音楽性の幅が広がっているように思うけど、カラフルになったわけではなくて、抑制が効いた色調の中に静けさとダイナミックさが存在している。今の季節によく似合って、これから繰り返し聴くことになりそう。同時に、夏の名残があるうちに聴いたら別の感情が浮かんだかもしれないと想像する。

 

20時までに食事を終えないといけないので、いつもより少し早めに夕飯の支度。親子丼(ねぎなし)と豆腐のみそ汁。消化に良いよう、鳥もも肉は気持ち小さめに切る。内視鏡検査用の献立だけど、たとえば恋人が食べる時に玉ねぎでも長ねぎでも追加してもらい、みそ汁はよそう前に乾燥わかめを入れてもらえればいつもと変わらないものになる。こういう作り分けというか、カスタマイズ性から逆算して考えるのがめちゃくちゃ楽しくゾクゾクしてしまう。でも結局恋人はねぎを入れずに食べて、代わりに自分でトマトときゅうりのサラダを作って野菜を足していた。私もよく冷えた生野菜を食べたくなったけど、一日だけの辛抱だし、これで検査がうまくいかなくても嫌なので我慢。

 

21時、翌朝から効きはじめるという緩下剤「プルセニド」を2錠飲む。夜、時間があったのでお風呂を沸かす。ぬるめの湯に浸かりながら、池袋暴走事故で被告に禁錮5年の実刑判決、独占禁止法違反の疑いで行われていたAppleへの審査終了のニュース。暴走事故は亡くなった人が戻ってくるわけではないから、どんな判決が出てもやりきれなさを感じる。亡くなった母娘の夫の方のコメントをただ読む。

Appleの件は、最近kindleでよく本を読むようになったので関心が高い。アプリ内から購入するとAppleが30%という高額な手数料の支払いを強制していることが独占禁止法違反とされていて、Appleがルールを見直すことにしたと発表した。kindleはアプリ内で電子書籍を購入することができなくて、それはこの高額な手数料のせいと言われていた。純粋に使いにくいし、さすがに取りすぎと思うので、ひとまずはよかったように思う。とはいえkindleの上流にはAmazonがいるので、どちらにせよGAFAのAに金が流れていくことに変わりはないのだけど。なるべく作家や出版社に多く還元されるようにしたい。そして電子書籍だと本屋さんにお金が行かないのが引っかかる……色々便利なので電子書籍を読む頻度を増やしているけど、そこは今でも迷いがあるところ。まあ完全に切り替わるわけではないし、本屋に還元できないというのはAmazonで紙の書籍を買う場合も同じなので、引き続き考えながら使っていこう、ということしか今は言えないのだが。

国内で初確認されたミュー株や、東京で変異したと考えられる株についても少し調べる。WHOの分類では、ミュー株はまだアルファ株、デルタ株のような「懸念される変異株(VOC)」ではなく、警戒度が一段階低い「注目すべき変異株(VOI)」に位置付けられている。少し前に話題になったラムダ株もVOI。東京で発生した株はまだどこにも位置付けられていないみたい。型が違うからそれぞれの懸念があって、感染力が強いかも。ワクチンの効果が弱まるかも、と言われると不安になる。でも、そうして新しい株ができるたびに不安がっているとだんだん慣れてしまいそうなので、慎重に、かつ油断せずにいたい。

コロナの変異は系統と呼ばれるグループに分類され、大小含めるとこれまでに1000種類以上が確認されているのだという。そんなにあるのか……。

 

今日の新規陽性者数は3099人、現在の重症者数は291人、死者10人。

この夏[2021年8月30日(月)晴れのち曇り]

2週間ぶりに会社へ行く日。出社前に仕事をしたいと思っていたのだけど、疲れていたのかまったく起きられず。しかも寝違えてしまって首の左側がとても痛い。いろんなことのやる気が削がれている。

 

会社に着いて、こまごまと色々な仕事。来月はけっこう忙しくなりそう。夕方に休憩に出て、サイゼリヤで500円ランチを食べる。ランチは17時までだったので、駆け込みだった。帰ってきて、事務作業をしながら先週金曜日の『荻上チキSession』の「ニュース座談会8月場所」を聞く。岸政彦さん出演の回。コロナの状況がずっと続いていることについて「行動制限ではなく人生制限」「(飲食店への休業要請やまともな補償が支払われていないことについて)飲食業という一つの自由な生き方が失われている」という言葉が胸に刺さる。今度出る『東京の生活史』に関わった人と話す中で聞いた「19,20の夏がコロナで終わりました」という言葉も重い。

私は仕事も在宅でしているし、恋人と暮らしているから寂しさを覚えることも少なく、もともと社交的でもないから今の状況でも比較的ストレスが少なく過ごしていられる。でも、ただその生活を送っていると、自分とは違ったかたちで生活を送る人が何を感じて行動しているのか、考えることが遠ざかってしまう。

岸さんが解説を務めたNHK100分de名著のブルデューディスタンクシオン』のテキストで、岸さんは「他者の合理性」という言葉を使っていた。「他者の合理性とは、『その状況だったら僕でもそうします』という話」と書かれていたのだけど、この視点を自分はもっと広く持つようにしたいと、番組を聞きながら思った。

番組では、他にもコロナ禍でのオリンピック開催、名古屋入管のウィシュマさん死亡事件、小田急線の女性を狙った刺傷事件などが取り上げられていた。どれもヘビーで、それらがここ1ヶ月の間に話題になったできごとであるということに、なんだか遠近感がバグったような感じを覚える。

 

退勤まであと少しの時間に、ふとワクチン接種完了後の行動制限について調べる。状況が状況だし、自分の発症は防いでも人に感染させてしまうリスクはあると聞くから、接種後も変わらず外出や人と会うのを控えなければと思っていた。でも、そういえば打った人から街に出て、これまで行けていなかったお店やイベントに行くのを再開させていくようなビジョンもあったような、と思い出したのだ。先々週の金曜に2回目を接種したので、私はそろそろ免疫ができるはずだ。

しかしざっと調べた限りでは、日本向けの記事ではいまいち歯切れの悪い言葉が並ぶばかりであまり参考にならず。なんとなく接種した人同士で食事をするのは大丈夫そうで、アメリカの記事の翻訳では「孫をハグできますか?」「お互いに接種していれば大丈夫です」といった記載もあった。とはいえ、ワクチンを接種した同士であればいつでもOKというよりは、やはり街中の感染状況や医療の逼迫状況に左右されるものでもあるだろうし、複合的に判断する必要がありそう。と、結局私も歯切れの悪い結論になってしまう。

 

帰り道、セブンイレブンの豆花がおいしいと聞くので探すも、いつも行くお店には置いていなかった。少し散歩したい気もして、近隣のセブンイレブンを何店舗かめぐる。ある店舗では、かつてイートインスペースとして使われていたらしいテーブルで花火の詰め合わせが売られていて、パッケージに使われた賑やかな蛍光色、コンビニの無表情で照らしすぎる白い光、触れられた形跡のない整然とした感じを、なにかこの夏の象徴のように思う。手花火やりたいなあと思いつつ、東京では全然できる場所がないからそのまま通り過ぎる。

 

今日の新規陽性者数は1915人、現在の重症者数は287人、死者12人。新規感染者の数は改善傾向なのだろうか。しかし一方で自宅療養者の数がかなり多く、東京で2万人、全国で12万人と聞く。