ヌマ日記

想像力と実感/生活のほんの一部

フェイクパール[2020年11月1日(日)晴れ]

恋人もこの週末仕事だし、私もやることが多いし、日曜日という感じがしない日曜日。そして今日から11月。それにしては温かく感じるし、今年があと2ヶ月で終わってしまうのも実感が湧かない。

朝から原稿の編集作業。ライターの方がしっかり書いてくれたおかげで、こちらで手直しをする必要がほとんどなくてありがたかった。いくつか気になった点をコメントして戻す。それから、昨日サボったぶんも含めて日記を二日分書いた。

 

昼過ぎ、『荻上チキ・Session』を聞きながら出かける。木村草太さんと麻木久仁子さんがゲストの「ニュース座談会・10月場所」。木村さんとチキさんの掛け合いが切れ味鋭くて痛快なのだが、「結婚の自由をすべての人に」の同性婚訴訟における国側の反論がひどすぎて絶句。「同性でも異性でも同様に、異性とであれば結婚でき婚姻制度を利用できるから区別はない」って……論理展開がアクロバットすぎるというか、人の心を介在させることを拒否しているような言葉に感じた。感情とか思考を少しでものせたらすぐに壊れてしまうような、言葉の綾だけで体裁を保っている論理。文章ならまだ書けるけど、これに同意しながら口に出せる人ってどんな人なんだろう。怖くなる。しかしここまでわけがわからないことを言ってこられると、ますます何が何でもこの裁判勝ってほしいと思う。同性愛者が婚姻制度を利用できることがゴールじゃない、という考えは変わらないけれど、こんな国の主張に正当性が与えられるようなことには絶対になってほしくない。

 

聞いているうちに原宿に到着。ムカついていたので辛いものが食べたくて、近くで辛いものが食べられるお店を検索。表参道ヒルズにある「シビレヌードルズ 蝋燭屋」で麻婆麺を食べた。麻と辣が両方効いていて、食べ進めるごとに口の中が火照りながらビリビリと痺れていく。しっかり辛いのに、たとえばハバネロのような痛さをあまり感じなかったのが不思議だった。刺すような単純な辛さではなくて、奥行きがある感じ。後半、卓上調味料のぶどう山椒オイルを入れたらさらに風味が豊かになっておいしかった。卓上調味料があったり、味変ができたりする店やメニューは5割増しくらいで魅力的に感じる。

無料の半ライスも食べたので、食後はかなり苦しかった。座って休憩したい……と思いつつ、約束があるので原宿方面へ戻る。Mと会って、今月22日の文フリのための打ち合わせ。この日記をまとめるZINEもかなり形になってきていて、今日は表紙を原寸大で印刷して、複数案から方向性を絞るため検討したりした。Mは私の言葉の節々から私が無意識にこだわっているポイントを汲み取ってくれて、その場で軽くデザインを作ってくれる。すごいなー、と思っていると、Mに「初校修正の赤字を見て、こんな風に文章をブラッシュアップしていくんだと思って感動した」みたいなことを言われた。たしかに、完成した文章を見せることはあっても過程を見せることはほとんどないので、人からしてみたら面白いのかもしれない。

でもそれはきっと自分が知らないことを仕事にして頑張っている人であればなんでも同じなのだと思う。私はMが紙の見本帳を手に、複数の紙を触り比べながら何かを考えているのにもすごいなと思ったし、全然違う話だけどスーパーの野菜の発注をなるべく売れ残りが出ないようにする、とかも同様にすごいなと思う。経験の蓄積とか、積み重ねられた技術のようなものを見ると感動する。

 

17時ごろまで打ち合わせをして、Mは帰宅、私は原宿〜表参道近辺を再びぶらつく。最近、自分が着たい洋服がわからなくなっているので、とりあえず色々と服屋を見てみる。

あまり主張しないデザインで、手入れが簡単で着ていて気楽な洋服が好きなので、油断するとユニクロばかりになってしまう。なんとなくもうちょっと派手な洋服が着たい気がしているけれど、どんなものがいいのかはわからない。街を歩いていると、今年買ったんだろうな、となんとなく思わせる秋物を着てバチバチに決めた姿の人も多くて、そういう人とすれ違うたびに自分の体がくすんでいくような感じがする。しかしなかなか自分が着ているイメージが湧く洋服が見つからず、結局一着も買わなかった。

歩きながら、サム・スミスの新しいアルバムを聴く。近年のサム・スミスの雰囲気はすごく格好いいなと感じる。短髪でしっかりヒゲが生えているのにアイメイクで目元は女性的、みたいな、男性的でもあり女性的でもある姿をしているのだ。ボブで体のシルエットを拾わない洋服を着て、男性性も女性性を消した雰囲気を「中性的」と表現することがあるけれど、それとは真逆。これも一種の中性的と表現できるのか、それとも「両性的」みたいな、新たな言葉のほうがしっくりくるのだろうか。

男女両方の雰囲気を兼ね備えた見た目には密かに憧れがあるのだけど、バランスが難しそうだし、何より自分に自信がないと中途半端になってしまいそうで、なかなか挑戦できずにいる。

ジェンダーレス」みたいな言葉はファッションの領域ではずいぶん浸透したし、最近は男性がレースのある洋服を着たり、パールのアクセサリーをつけたりする流行もある。その流れに乗じて、実は夏頃に女性物のフェイクパールのイヤーカフを買ってみたのだけど、なんだか気恥ずかしくて家に一人でいる時にしかつけたことがない。思い切って出かけてみれば大したことはないのかもしれないけれど、その一歩が自分には途方もなく大きい。

 

しかし、こうした男女両方の要素がある見た目への憧れは、自分のジェンダーアイデンティティにどれだけの深度で関わっているのだろう。男性であることに違和感を覚えたことはなくて、女性になりたいと思うこともない。でも、ただファッションとして(という言い方もファッションが軽いもののように見えるかもしれなくて本意ではないのだが)取り入れたいというのとは、ちょっと違う気がする。

 

◎お知らせ◎

今日の日記にも書いているZINEですが、『消毒日記』というタイトルに決めました。この「ヌマ日記」に加筆修正を加え、感染拡大の2・3月〜みんなの危機感が緩んでいく8月までの半年間を収録します。180ページくらいあるので、もはやジンって感じではないかも。

初お披露目は11月22日(日)、東京流通センターで開催の「第三十一回文学フリマ東京」。私のブースはテ-23で、Mこと友人の金丸稔くんとのユニット「アワ・プレス」として出展します。

文フリ後には通販などもする予定です。遠方だったり、コロナのことが不安だったりで来られない人は、そのタイミングでぜひ!

1年、5年、60年、120年[2020年10月29日(木)晴れ]

部屋に小さなクモがいるのだけど、だんだん行動範囲が広がっている気がする。作業机の上でも見るし、対角線上に置いている鏡の辺りでも見かける。なんとなくクモって自分の持ち場があるというか、半径数十センチ以内を活動範囲としているようなイメージがあったのだけど、この部屋全体を歩き回っているようだ。

今朝も作業机の目の前にある窓の、下枠の辺りを歩いていた。毎日見かけるのでだんだん愛着が湧いてきていて、仕事の合間に「ハエトリグモ 寿命」と検索してみる。だいたい1年、長くて3年は生きるそう。検索結果の2番目に出てきたYahoo!知恵袋で、「私の家にはハエトリグモが数匹住みついているのですが、可愛いのでできれば長生きさせてあげたいんです」と相談している人がいて笑った。私もまったく同じ気持ちでいる。

 

昨日はヤシガニについて調べていた。沖縄に生息する甲殻類で、陸上生活を営む節足動物では世界最大種。大学生の頃沖縄へ旅行に行った時、宿のそばの食堂に両手のひらを思い切り広げたよりも大きいヤシガニの剥製が飾られていて(体は鮮やかな水色で彩色されていて、縁起物の飾りのようになっていた)、こんなのが棲んでるのか、と驚いた記憶がある。iPhoneで調べて、ヤシガニの挟む力はかなり強力で、人の指くらいなら簡単にちぎってしまえると知った。そのあと、新月の夜に当時付き合っていた恋人と星を見に海辺へ行ったのだけど、道中で何か音がするたび、ヤシガニが出たんじゃないかと話して笑ったのを覚えている。ヤシガニは長いもので50年生きるそう。

 

クモがどこかへ行ったので仕事に戻る。早くも来年の仕事をしている。その中で2021年の60年前、120年前のことを調べる必要があって、色々と検索したり、資料を見たりしていた。

120年前は1901年。昭和天皇が生まれた年で、八幡製鉄所が操業を開始したり、与謝野晶子の『みだれ髪』が発刊されたりしている。60年前は1961年。ジョン・F・ケネディが大統領に就任して、人類がはじめて宇宙に行った年。日本は高度経済成長期まっただ中で、坂本九の「上を向いて歩こう」がリリースされている。なんかエポックメイキングなことが多くて、今と比べて悲しい気持ちになってしまった。「経済成長はすっかり当たり前のものとなり〜」とか書かれているし。

もちろん当時に比べたら人権意識とかすごく高まっているし、色んな面で安全になっているのだろうし、当時に生まれたかったとは思わない。今だって日々、少しずつではあるけれど良くなっているはずだ。でも、「人類がはじめて宇宙に!!」みたいな、そういうダイナミックな良いことってない。歴史に残るニュースと言えば、たいてい暗い話な気がする。

 

恋人が土日仕事なので、今日はお休みをとっていた。昼まで仕事をして、一緒にご飯を食べるために外に出る。頼むとちょっと驚くほどのスピードで料理が出てくるタイ料理屋へ行き、二人ともガイパッポン(鶏肉と卵のカレー炒めをご飯にのせたもの)を頼む。食べながら、「もうすぐ付き合って5年だし、日帰りでどっか行きたいね」という話をする。ドライブがしたい。私は運転はできないが、恋人は運転好きなので乗り気。小田原、牛久など、日帰りで行ける場所を色々と提案したけれど、決定には至らず。悩んだというよりは、二人とも今すぐ決めなくて良いと思っていたから、気づくと話がわき道に逸れていくのを繰り返しているうちに食べ終わってしまった。

 

家に帰ってまた仕事。途中、リビングでだらだらしている恋人との短い雑談タイムを2回ほど挟みつつ、18時ごろまで仕事をする。最近はけっこう仕事が忙しい。今日も20時から渋谷で取材があるので、これから出かけないといけない。本当は取材の前にご飯を食べたかったのだけど、昼に食べたガイパッポンがかなり多かったせいでまったくお腹が空いていない。これ、取材中に一番お腹が空いてしまうタイプでは。まあでも仕方がない。

19時に家を出て渋谷へ。少し早めに着いたので、取材場所近くの宮益坂をあてもなくうろつく。iPhoneを見ながら歩いていたら、いきなり濃厚な花の香りがして、驚いて顔を上げると百合に似たラッパ状の花がたくさん下向きに咲いていた。調べると「エンジェルストランペット」という花だそう。高いところから垂れ下がるように咲いているので、下にいると香りがシャワーのように降り注いでくるのだった。

調和について[2020年10月25日(日)晴れ]

昨日の夜は久しぶりに友人と会ってお酒を飲んだ。お酒を飲んだ夜はいつも眠りが浅く、長時間寝ても体がだるいことが多い。でも、今日は比較的体がすっきりと軽かった。新宿二丁目の近くにある蕎麦と日本酒がおいしいお店に行ったのだけど、チェイサーをちゃんと用意してくれて、ボトルが空になったらすぐに注いでくれるから、遠慮せず水を飲めたのが良かったのかもしれない。

お酒の味も酔うのも好きだけど、翌日に響きやすいのでいつからかかなりセーブするようになった。毎回こうだったらいいのに、と思いながらシャワーを浴びる。洗濯をして、秋晴れのベランダに干した。

 

昼から高円寺のクロスポイントカフェで、「アパートメント」の住人さんとの交流会。今回の参加者は私たち管理人を含めて8人。全員で細長い一つのテーブルを囲む。こういう時って4人ずつとかに分かれてそれぞれに会話が進行することも多いけど、この日は8人全員で一つの話題を共有していた。ただ自分の話だけをする人がいなくて、みんな話している人の言葉に耳を傾けているから発言が被るようなことも少なく、だけどちゃんと笑いもあって、良い会だったんじゃないかなと思う。コーヒーもおいしかった。

 

お店を出て、みんなで駅へと向かう。昨日と今日は高円寺フェスをやっているからか、人が多い。お酒か何かを注がれたプラカップを手にした楽しそうな人もいて賑わっている。高円寺フェス、いつもだったら道端で大道芸などをやってすごい人だかりができていたりするのだけど、今年は密集を避けるためかそういう催しはなさそう。ただ歩いているだけだと何をやっているのかまったくわからないが、お祭りの雰囲気だけは感じられた。

 

家に帰って、今日が校了の媒体の念校が届いていたので確認して戻す。それから今日公開されたウェブ記事があったので、インタビューをした方に連絡。

本屋に行きたかったのだけど、なんだかなかなか家から出る気になれず。そろそろ夕飯のことも考えないといけないが、良い案が思いつかない。恋人に「夕飯どうしようかなあ」とさりげなく相談してみるも、「任せる。権限移譲します」と言ってカフェに行ってしまった。「なんでもいい」と言われるのが一番困るしむかつく、という家庭の料理担当あるあるが発生している……。

プールに行きたいと思っていたのだけど、それも面倒くさい。つい部屋でごろごろしてしまったけれど、30分ほどそうしていたら飽きてきたので重い腰を上げてプールへ行く。「このままだらだら過ごしたら夜に絶対後悔する」という気持ちが、ごろごろ、だらだらしたいという目先の快楽に珍しく押し勝った。

 

プールで水着に着替えていたら、前回日曜日に来た時にいたおじいさんが帰るところだった。このおじいさん、とにかく自分の泳ぎを優先する人で、割り込んできたりぶつかりそうな位置からクイックターンをしたり、あまり一緒に泳ぎたくないと感じる人だった。今日は被らなくてよかったとほっとする。どうやらいつも日曜日のこのくらいの時間帯に泳いでいるようなので、その時間は今後も避けようと思う。

プール全体は混雑していたけど、私のいるがっつり泳ぐレーンはあまり人が多くなく、自分のペースで泳ぐことができた。今日はトータルで1500メートル。

 

プールから上がると恋人から「夕飯どうする?」とLINEが来ていた。「リクエストくれたら簡単なものなら作るよ」とのこと。「豚バラ大根とか?」と送ると「大根味しみるの時間かかるからな〜」と渋られちょっと苛立つ。はっきりと「作るのは良いが献立が思いつかない」と伝え、リクエストを募る。すぐ「鶏肉とピーマンとカシューナッツの中華炒め」という、彼の好物の名前が挙がった。何度も作っているメニューなので私としてはマンネリ気味で、これを作ることは手抜きなんじゃないかと感じて避けていたのだけど、とりこし苦労だったなと思う。

 

20時頃に料理ができて、恋人と一緒に食べる。人と会って、洗濯をして、プールにも行って夕飯も作って、なかなか頑張った一日だった。

記憶とルーティン[2020年10月22日(木)晴れのち曇り]

毎年関わっている情報誌の構成を朝から。いつも昨年の内容をベースにアップデートしながら作っていくのだけど、今年はコロナの影響があって作り直しの量が多くなりそう。昨年の誌面に修正指示を書き込んでいく。いつも使っているフリクションの消せるボールペンがなぜか見当たらず、普通の消せないボールペンでやったらいちいち書き込みを躊躇してしまって全然進まない。間違えたとしても修正ペンを使うなり、ぐしゃっと塗り潰すなり方法はあると思うのだけど、(本当にこれでいいのか)と妙に悩んでしまう。私は後戻りできないことに対して慎重になりすぎるくせがある。だから話すよりも、人に伝える前に一度見直せる文章のほうが好きだ。でも、そうやって慎重になっている間にタイミングを逃してできなくなってしまったことがけっこうあるし、話すことへの苦手意識はできたらなくしたいと本当は思っている。

すべては私という一人の人間の性質としてつながっているが、それぞれの悩みはそれぞれに対処する方が手っ取り早い。「消せないボールペンで躊躇なく書けるようになったら何にでも思い切ってチャレンジできるようになりました!」みたいな、自己啓発本にありそうな展開は特に望んでいないので、とりあえずコンビニに消せるボールペンを買いにいった。

 

昼過ぎまで仕事。そのあとは取材先からの赤字の確認や、細かい編集作業など。やることは色々とあるのだけど、なんだか全然やる気が起きない。低気圧のせいだろうか。

でも、こういう時はたいてい体か心のどちらか、あるいは両方が不調の場合が多いのだけど、今日は体も健康だし特にネガティブな気分にもなっていない。だけどとにかく仕事とか、なんらかの集中力を要する作業をしようとすると、胸のあたりが重くなって拒否感がある。心が二つに分かれたような、あると思っていたはずの場所に見当たらないような、ちょっと不思議な感じだった。幸い急ぎの仕事はなかったので、適当にYouTubeを見たり、夜にやろうと思っていた夕飯作りを前倒ししたりしつつ、気分が乗ってきたら少しだけ仕事を進める、というふうに過ごした。

 

恋人の体調が良くないというので、夕飯はしょうがとにんにくを効かせた鶏肉とネギのスープ。このスープは小さい頃、風邪をひくと母親がよく作ってくれていて、一人暮らしをしてからも風邪をひいた時によく作る。「体調が悪い時はこうする」というルーティンがあると、それだけで信頼できる薬が一つ増えたような気持ちになる。私は他にも、口にする食べ物になんでもしょうがとにんにくを入れる、ポカリスエットを飲んでとにかく寝る、ビタミンCを摂る、などをよくやる。

このスープ、母は鶏団子で作ってくれていた。噛むとほろほろと崩れる食感がやさしくて好きだったのだけど、私はそこまで手間をかけるのは面倒なので鶏もも肉で。鍋に鶏肉と長ネギ適量(どちらも具材をしっかり食べることを意識して多めに入れるといい)と水を入れて火にかけ、沸騰したらアクを取ってしょうがとにんにく、鶏がらスープの素などで味をつけて完成。今日の夕飯はこのスープと、ぶりの照り焼き。これだけでは足りないかもと思ったので、お腹が空いた時用に中村屋の肉まん、あんまん6個入りも買ってある。

 

21時過ぎに恋人が帰宅し、彼が録画していた『ガイアの夜明け』を見ながら食べる。「台湾のコロナ対策はなぜ成功したのか?」というような特集。台湾は市中感染が半年近く0人をキープしていて、世界的に見てももっとも対策に成功したといえる。にぎわいを取り戻した夜市や需要が増える国内旅行の様子、対策に尽力したキーパーソンの話や、今回の成功の裏側にはSARS流行時の失敗があったことなどが特集されていた。

全体的にデータの透明性や理性、公共への意識が高く、それらが功を奏している印象。就任直後から日本学術会議の任命拒否という、ルールを恣意的に読み替える不誠実な態度を見せて批判されまくっている日本と比べて、どうしても暗い気持ちに。しかし「台湾いいなあ、すごいなあ」という話ではなくて、台湾はひまわり学生運動などを経て、市民が政府をしっかり監視している、という力関係を示し続けてきたからこそ今があることは忘れてはいけないよな、と思う*1。あまり「現状を打破できないのは自分たちに力が足りないからだ」と追い込みすぎても続かないけど、権力を監視して乱用を批判することは継続してやっていかないといけない。

 

夕飯はやはり足りず、食後に私はあんまん、恋人は肉まんを食べた。「うわー、こういうの実家でたまに出てきた…」と、恋人がしみじみしながら肉まんを頬張る。私の家も冷凍庫に肉まんやあんまんがストックされていて、たまに母が蒸してくれることがあった。家庭の味というわけではないかもしれないけれど、記憶に紐付いている味というものがある。

*1:この辺は作家の李琴峰さんの「台湾のコロナ対策を賞賛する、日本の人たちに知ってほしいこと」(現代ビジネス)という記事を読んで感じたことでもある。統制のとれた政府の対応と表裏一体の、私権の制限の厳しさについても触れられていて、勉強になる

幽霊のように聞く[2020年10月17日(土)雨]

5時ごろ目が覚めると体が熱く、首筋のリンパが腫れていた。昨日、疲れていたのにプールに行って、そのあと恋人と居酒屋で少し飲んだのが良くなかったのかもしれない。疲れが溜まるとリンパが腫れて、高熱が出ることがたまにある。20代前半の頃までは二ヵ月に一回くらいの頻度でそうなっていたけど、ここ数年はなったことがなかったのでちょっと油断していた。

保冷剤をハンカチで包み、腫れたリンパに当てる。そこまでひどくないものであれば、これだけで鎮静化できるはず。少し落ち着くまでソファで過ごして、小さな保冷剤が溶けてぬるくなった頃にまたベッドに戻った。外が少し明るくなっていた。

 

適当な時間に目が覚めて、横たわったままリンパを触る。ぼこっと盛り上がっていた首筋がなだらかな状態に戻っていて、どうやら無事に腫れはひいたようだ。ベッドから起きて、うがいをしてから冷たい水を飲んだ。この週末は仕事をしなければいけないけど、今日は無理しないようにしようと思う。

家に食材が全然なかったので、恋人と一緒に駅前のパン屋へ。白いパンにフィッシュフライを挟んだものと、同じく白いパンにフライドチキンと野菜を挟んだものを二つ買う。似たようなものを買ってしまったけど、揚げ物と野菜が食べたかった。どちらも個包装になっていて、裏側のラベルに栄養表示が記載されていたのだけど、二つのカロリーを合計すると1000kcalくらいあった。朝から食べ過ぎの気もするが「今日は体調を整えるのが最優先だし、食べたいってことは体が求めてるってことだから……」と言い訳。実際、食べたらめちゃくちゃ元気になった気がする。

 

家に帰ったら洗濯をして、少し仕事と読書。15時半から朝カルオンラインで岸政彦さんの「積極的に受け身になる─生活史調査で聞くこと、聞かないこと」。岸さんが専門としている社会学の生活史調査で、どんな風に相手の話を聞いているのか、どんなことを聞くのか、持ち物やアポ取りの仕方など、抽象的な心構えからかなり具体的なことまでを話す90分(延長して実質2時間)。

聞きながら、社会学、および生活史の聞き取り調査と、ライターやジャーナリストの取材、当事者研究などにおける語りのエンパワメントは、それぞれまったく別のベクトルのことなんだなと改めて思う。もちろん重なるところもあるのだけど、むやみに援用することで本質が壊れてしまう部分があって、岸さんはそのことに対してとても慎重に見えた。

生活史の語りを聞くことは、答えを探すことより次の問いを探すことの成分が大きい(ことがあってもいい)のかもしれない。誰の人生もその人に固有のものだから、話を聞くことは必ず新しい発見だ。だからそれを断片的にであれ共有してもらえるのはそれだけですごいことで、それは無駄にはならない。まず岸さんにとっての「生活史調査で聞くこと」はそのことに裏打ちされていると感じた。だからたとえば沖縄戦について話を聞きに行ったのに、相手がまったく関係ない話ばかりをしても、本当のことを話してくれなくても、そこから(すぐにではなくても)問いが立ち上がったり、全体に連なる何かが見つかればそれでOKになるのだろう。

その広い視野は、ライターが一回の取材で原稿を書かなければならないような場合とはやっぱりやり方や心持ちが違ってくる。そのやり方はちょっとうらやましかった。もちろん、だからこそ大きな方向性を見失わないようにしなければいけなかったり、進んだあとで引き返すのが難しかったり、特有の困難があると思うのだけど。

あと、これは生活史のやり方と言うよりは岸さん個人のスタンスのようだけど、聞き取りをする時に「人対人」にならないようにかなり気を付けているように感じた。そう思ったのは、後半の質疑応答で「調査対象者にとって、語りの体験がどんなものであってほしいと思っていますか」という質問に対して「考えないようにしてる」と答えたところ。そのあとには別の社会学者の方が論文で「語ることは相手にとってもカタルシスをともなうものだ」と書いたことに対して、否定的なことを言っていた。

当事者研究などでは「語ること」「言語化すること」で癒やしであったり、症状が回復したりということはよく言われるので、この視点はちょっと意外。ただ、それは「語ることで回復すること」を否定するというよりは、それを意識することで生活史の聞き取りが変質してしまう、そのことを警戒しているのかなと思う。でもそれはそうだよな。相手が癒やされることは、調査とは関係がないのだし。

岸さんにとっての聞き取りはちょっと幽霊のような立場というか、その語りの体験がその人の人生に影響しないような、エアーポケットのような体験になるように気を付けているように感じた。そしてそういう透明な立場だからこそ聞けることがあるし、「積極的に受け身になる」ということでもあるのだろう。そうして「人対人」になることを避けるけれど、本当に幽霊として話が聞けるわけではなく「人対人」になってしまうのは事実なので、その中で存在感をどう消しつつ、相手への敬意を示すか、みたいな話だったと思う。

 

聞き取りでは極力自分の話をしない、というのも面白かった。「盛り上がったり相手が聞いてくれてるように見えるかもしれないけど、それそういうふりしてるだけやで」みたいなこと言ってた。

ライターの取材などでは、「流れが止まったり、場の空気が固いときは自分の話をするといい」と言われていて(これももしかしたら心理療法などでの「カウンセラーがクライアントに自己開示をすることで話しやすくする」みたいなところから来ているんだろうか)、私もたまにやっていた。でも、振り返ってみるとたしかにあんまり成功したことは多くない。単純に私が下手なだけなのかな、と思っていたが、目が覚めた気分。人としての感想とか実感みたいなものは抑えて、もうちょっと「ひとつの角度」みたいなものに徹して質問する方がいいのかもしれない。

うーん、ただ人によってはもっと人間的なアプローチを好む人もいて、絶対的な正解というものはないんだけど。まあそれは相手が人である以上当たり前だろう。

 

寒いので夕飯はこの秋初めての鍋にした。

連絡がよく届く、一人で過ごす日[2020年10月15日(木)曇り]

私は基本的に「世の中の人はみんなエネルギッシュに動いていたり、自分のペースでできることをやっていたり、大切な友だちがいたり、何かを振り切って自分の感覚を優先できたりしてすごいな」みたいなことを思っているのだけど、昨日の夜はそれがネガティブな方向へ強く作用してしまって、「(私以外)みんなすごいな」という気持ちだった。

それを吐き出したいけど落ち込んでいるふうにはしたくなくて、Twitterに「みんなすごいなあ みんなすごいよ」とポスト。これだけだとまだ暗い感じがしたので、「みんなたち……すごいぜ……」とふざけた調子で追記してみる。おかげで落ち込んでいる雰囲気は消えたように思うけれど、そういうことではない気がした。また自分で自分を楽にすることに失敗したなあと思い、うっすらと自己嫌悪しながら眠った。

 

朝起きると友だちからのLINEで、踊っている犬(?)のスタンプが送られてきていた。あのツイートに忍ばせた落ち込みの雰囲気を察してくれたのか、それともたまたまか。どちらにしても少し救われた気持ちになる。彼には仕事を紹介してもらっていて、先日そのクライアントとのはじめての案件が終わったので、連絡しないとと思っていた。そのことについても触れつつ返信。

昨日まで取材が立て込んでいて、今日と明日はその原稿をまとめて仕上げる日。それなりに量があるので、朝から少し気が立っている。コーヒーを淹れて、まずは1本目を執筆。続いて2本目に取り掛かろうとしたところで、母からLINEが届いた。珍しいなと思って開くと、「私はめったに夢を見ないのに、今日は珍しくあなたとあなたの恋人の夢を見たのでちょっと気になった」と書かれている。どんな夢なのかは書かれていないけれど、わざわざそんな連絡をしてくるということは、きっと悪い夢だったのだろう。すぐに返信をするとラリーが続いて集中できなくなってしまうのであとで返すことにして、2本目と3本目を執筆した。

 

これでようやく折り返し。ペースとしては悪くないけれど、情報量が多い内容をかなり削ったり圧縮したりする必要があり、悩みながら書くのが疲れる。事前にしっかりとプロットを作ったほうがよさそうだと感じ、4本目のプロットを作りながら湯を沸かす。遅めの昼食にパスタを茹でて食べながら、母に返信。あと、Mから今作っているZINEの表紙案が届いていたので、それもチェック。色々と考えながら作ってくれていてとてもうれしい。

 

食後はすぐに4本目の執筆。ちょっと疲れていたけど、休憩せず立て続けに5本目まで完成させた。5本目を書いている時に荷物が届いて、対応するためにドアを開けたら晩秋のような涼しい空気が入ってきて驚いた。私の住む部屋は熱がこもりやすく、外とはかなり気温差がある。あっというまに冬になるんだろう。

 

残るはあと一本。頑張れば終わらせることもできたけれど、ここまでやっておけば大丈夫だろうと明日やることに。今日一日をこの原稿だけで終わらせるより、何か別のことをしたかった。一番はプールに行きたかったが、それには少し遅い。仕事を頑張った今日くらい外食でもいいかと思っていたけど、結局自炊をすることに。辛いものが食べたくて、麻婆豆腐と豚キムチで迷った結果、明日の分までまとめて作れる豚キムチを作った。

恋人が帰ってくるまで部屋で読書。なかなか読み進められずにいたシーグリッド・ヌーネス『友だち』をようやく読み終える。今月は本当にまったく本を読めていなくて、仕事以外で読んだのはこの本くらい。明日からの今月後半戦は、もうちょっとたくさん読みたい。

納得の仕方[2020年10月9日(金)雨]

取材がある午後までに原稿を書き終えたかったのに、朝なかなか起きられず。昨日は早起きできたのに、なかなか安定しない。台風が来ていることも関係しているのだろうか。

出遅れて焦り気味のスタートとなったものの、原稿は無事に午前中に書き終えることができた。そこそこ時間がかかるだろうと思っていたので、早く書き上げられて一安心。最近、書くのが早くなってきたように感じていて、それはここで人に見せる日記をつけるようになったことも関係していると思う。「とりあえず完成」のラインまで仕上げるためのスピードが上がったというか。これはEvernoteでひとり日記をつけているだけでは感じない変化だったので、誰にも見せないことと、少人数でも誰かに見せることの間には大きな差があるなあ、と感じる。

 

お昼ご飯はいなばのグリーンタイカレー缶。昨日炊いたご飯をレンジでチンして、そこに缶のカレーをそのままかけて食べる。いなばの缶詰はカレーだけでもかなり種類があって、どれもクオリティが高いのだけど、一番よく見かけるグリーンカレーが一番好き。ちなみに私の近所だとSEIYUにしか売っていないのだけど、ガパオの缶詰というのもあって、これもかなりおいしい。一見量が少なそうに見えるけど、さらさらとした液体に近いカレーなのでご飯が多くても白米にまんべんなく馴染んでくれるし、具材の鶏肉が大きめなので食べ応えもばっちり。常温のままかけるのでご飯は熱めにするのがポイントです。

食後はZoomで取材一件。それから来週の取材の質問案の作成。網羅的にあれこれと聞く取材なのでリサーチの量が多く、質問を考えるのもエネルギーを使いそう。このまま家でやっているとだらだらしてしまいそうなので、近所のPRONTOに移動してアイスカフェラテを飲みながら集中して作業をした。私は基本的にブラックコーヒーか、甘いのがほしければココアなどを頼むことが多いのだけど、最近は妙にカフェラテの、あの牛乳の甘みがほしくなる。カルシウム足りてないんだろうか。

 

18時過ぎまで作業して、そのあと『over the sun』の第二回を聞きながらSEIYUで夕飯の買い出し。『生活は踊る』はスーパーで買い物をする時によく聞いているのだけど、『over the sun』はスーさん、堀井さんのトークがかっ飛ばしすぎていて、外なのに声をあげて笑いそうになる。何度も吹き出しそうになるのをこらえて帰宅し、食材をしまいながら堀井さんの「ポゥワー」に爆笑した。一人でいても声をあげて笑うとすっきりする。

そのあとは夕飯の鮭ときのこのホイル焼き、ほうれん草のみそ汁を準備しながら、若林恵さんと佐久間裕美子さんのポッドキャスト『こんにちは未来』の「第51回 ジェンダーの話をしよう」を聞く。

9月に筑摩書房から『コロナ後の世界 いま、この地点から考える』という12人の知識人による本が出たのだけど、寄稿しているのが全員男性で「コロナ後の世界で女は絶滅したのか?」と批判されていた。そんな話題を切り口に、ジェンダーイコーリティについてとか、こういう重鎮とか識者が集う場が男性ばかりになってしまう現状に大きな違和感を持たずにきたことへの反省とか、男性も女性もこうした不均衡に気づいたら言っていかないといけないよねとか、そういう話。

メディアとジェンダーイコーリティの話で、私が聞きながら思い浮かべていたのは音楽誌の「●●アルバムベスト100」のような企画。日本の音楽ライターは女性が少ない、という話はよく聞く。例えば、今手元にある『MUSIC MAGAZINE』2016年7月号「90年代の邦楽アルバム・ベスト100」では、選定に関わった識者50人の男女比はほぼ9:1だった。こうした差はもちろん日々の誌面制作や原稿・企画の切り口にも影響するのだけど、中でも「ベスト100」のような(決定のプロセスに多数決的な手法が含まれる)ランキング形式だとその差がより強くあらわれると思う。「男性がいいと感じたもの」が、上位に食い込みやすくなるのだ。

選者の男女比を1:1に近づけたランキングを作れば、それだけで違った結果になるだろう。ただ、それで万事OKかというとそうではないし、仮に変化がなかったからといって「男女差はない」と結論付けることはできない。「90年代のアルバム」のように過去のものを扱おうとすると、(男性優位社会の)歴史の中で権威化されていった存在があり、その文脈があることを視野に入れないといけないからだ。どこまでがその影響下にあるのかを細かくチェックすることはできないし、だからすべてをニュートラルに戻すこともできない。特定の音楽を、一組のアーティストを再評価することはできるかもしれないけれど、地殻変動のように丸ごと書き換えることは不可能に近い。別に現状を全否定したいわけではないけれど、そう考えるとなんだかとても歯がゆいし、これからはニュートラルな状態に近づくほうが絶対にいいなあ、と思う。

こうした歴史が今様々なシーンで見直され、変わっていこうとしているのだろう。「あいちトリエンナーレ2019」も「表現の不自由」展ばかりが騒がれてしまったけど、参加作家の男女比を半々にしていた。

「こんにちは未来」でも語られていたけれど、私たちにはまだそのことを疑問視する習慣がちゃんとついていないから、気を緩めると見過ごしてしまう。そうならないように、まずは自分の関わるものごとから注意を払い続けていきたい。もちろん、すべてにおいて画一的に男女比を一緒にすればいいという話でもないから、考えながら。

 

一方で、こうしたジェンダー平等が実現すれば相対的に男性は自分たちの枠が減ることになる。私は男性だし、代替可能な無名のライターなので、枠が減るという事実だけを見ればなかなか手放しでは喜べなくて、けっこう難しいのだけど……。実際に自分の利益や機会が減るか、ジェンダー平等を見ないふりをするか、という状況に直面した時、全体のためを思っていつでも清々しい気持ちで退けるかというと、かなり自信がない。

ただそこは「男性としては機会が減っても、長期的にみればこの動きはアジア人やゲイとしての自分を救うことになるかもしれない」と、インターセクショナリティの考え方で自分を納得させることはできるかもしれない。でも、そのロジックだと「デフォルトマン」と呼ばれるような白人異性愛者の男性を納得させることは難しいだろう。「こんにちは未来」で佐久間さんは「ジェンダー平等になった方が男性にとっても良い」と話していたけれど、若林さんは首肯せず「優越感の問題とかもあるじゃん」と言っていた。うーん、答えが出ない。

 

ホイル焼きはとてもおいしくできた。フライパンも汚れないし、今後積極的に作っていきたい。仕事を終えて24時過ぎにようやく帰ってきた恋人も、「おいしい」と言って食べてくれて満足。